六本木はなぜ国際的な夜の街になったのか|軍隊の街・米軍・ディスコ・バブル・再開発

外苑東通りから東京タワー方向を望む2009年の六本木の夜景 東京・街歩き・都市史
六本木・外苑東通りの夜景、2009年。撮影:Manone/Wikimedia Commons/Public Domain。

夜の六本木ろっぽんぎ交差点に立つと、いくつもの東京が同時に見えます。

外苑東通りには飲食店とバーの看板が並び、日本語、英語、そのほかの言語が行き交います。 坂を下れば麻布十番、北へ進めば赤坂、乃木坂の先には青山があります。

一方、昼の六本木には別の顔があります。

六本木ヒルズには企業、住宅、放送局、美術館があります。 東京ミッドタウンにはオフィス、ホテル、商業施設、病院、公園があります。 国立新美術館の隣には、現在も米軍施設の赤坂プレスセンターが残ります。

高層ビル、美術館、住宅、学校、外国公館、米軍施設、深夜営業の店舗が、徒歩圏内に重なっているのです。

なぜ六本木は、東京を代表する国際的な夜の街になったのでしょうか。

よくある答えは、「敗戦後、米軍基地ができ、米兵向けの店が集まったから」です。

これは重要な一部です。 しかし、それだけでは説明できません。

六本木には、明治時代から二つの歩兵連隊を中心とする大規模な軍用地がありました。 敗戦後、その一部が米軍施設になります。 周辺の麻布・赤坂には大使館、外国人住宅、ホテル、国際的な企業が集まりました。 1964年には地下鉄日比谷線の六本木駅が開業します。 テレビ、広告、芸能、音楽、ファッションの人々が集まり、ナイトクラブ、ディスコ、クラブが時代ごとに形を変えました。 2000年代には大規模再開発が進み、昼の企業都市・文化都市が夜の街へ重なります。

六本木の国際化は、一つの基地や一つの店から始まった物語ではありません。

軍用地、占領、外国人需要、交通、メディア、音楽、再開発が、約150年かけて積み重なった結果です。

この記事で分かること

  • 六本木という現在の町が成立した時期
  • 江戸時代の六本木がどのような場所だったか
  • 歩兵第一連隊と歩兵第三連隊の位置
  • 敗戦後に軍用地がどう接収・返還されたか
  • 赤坂プレスセンターが現在も残る理由
  • 米軍以外に国際化を支えた要因
  • 地下鉄、テレビ、料理店、音楽文化の役割
  • 六本木族、ディスコ、バブル、クラブの時代差
  • ヴェルファーレがバブル崩壊後に開業したこと
  • 六本木ヒルズと東京ミッドタウンが街をどう変えたか
  • 歴史散歩で見るべき場所と注意点

まず結論―六本木は一つの原因で生まれた夜の街ではない

六本木ろっぽんぎが国際的な夜の街になった流れは、次のように整理できます。

  1. 江戸時代、現在の六本木一帯には武家屋敷と寺院が広がっていた
  2. 明治以降、歩兵第一連隊と歩兵第三連隊を中心とする軍用地が形成された
  3. 敗戦後、旧軍用地の一部が連合国・米軍に接収された
  4. 米軍関係者と外国人向けの飲食店、バー、サービスが周辺に増えた
  5. 麻布・赤坂の大使館、外国人住宅、ホテル、国際企業が継続的な外国人需要を支えた
  6. 1964年の地下鉄日比谷線六本木駅開業で、都心からのアクセスが改善した
  7. テレビ、広告、映画、音楽、ファッションの制作者が集まり、深夜の交流拠点になった
  8. 1960年代の六本木族、1970~80年代のナイトクラブ・ディスコ、バブル期の消費文化が街の知名度を高めた
  9. 1994年開業のヴェルファーレなどにより、バブル崩壊後も大規模なダンス文化が続いた
  10. 2003~07年の再開発で、企業、住宅、ホテル、放送局、美術館、公園が加わった

この流れは、一直線ではありません。

旧軍用地のすべてが歓楽街になったわけではありません。 米軍施設の周囲すべてに外国人向け店舗ができたわけでもありません。 ディスコが衰退した後も、夜の店、クラブ、レストランは別の客層と形態へ変わりました。

六本木は、土地利用が入れ替わるたびに、以前のネットワークを一部残しながら、新しい利用者を受け入れた街です。

六本木という現在の町は1967年にできた

現在の六本木ろっぽんぎ一~七丁目は、1967年7月1日の住居表示によって成立しました。

それ以前は、麻布六本木町だけでなく、麻布三河台町、麻布龍土町、麻布今井町、麻布材木町、麻布鳥居坂町、麻布永坂町、麻布飯倉片町など、複数の旧町名が使われていました。

したがって、江戸・明治・戦前の資料を「六本木」という現在の町名だけで検索すると、重要な記録を見落とします。

たとえば、現在の東京ミッドタウン周辺は檜町ひのきちょうや赤坂側の歴史と関係します。 国立新美術館・赤坂プレスセンター周辺には龍土りゅうどという旧地名が残ります。 六本木交差点から東京タワー方面へ進む地域には、飯倉片町いいぐらかたまちの名が使われました。

六本木の地名由来には複数の説があります。

六本の松があったという説。 六つの大名家の姓に「木」が含まれたという説。 周辺の地形や古い呼称に由来するという説明。

港区も複数説を紹介しており、決定的な一説へ固定していません。 「六本の木があったから」と確定した事実のように書かないでください。

重要なのは、現在の六本木という範囲が、異なる旧町と土地利用をまとめて成立した比較的新しい行政地名だということです。

江戸の六本木―武家地と寺町、坂と谷

江戸時代の六本木ろっぽんぎ一帯は、現代のような繁華街ではありませんでした。

台地上には大名・旗本の屋敷、寺院、武家地が広がり、谷には水路や低地がありました。 麻布から赤坂・青山へ続く道路と、起伏のある坂が地域を区切っていました。

現在も、六本木交差点から周囲へ歩くと、高低差を感じます。

  • 芋洗坂いもあらいざかから麻布十番方面へ下る坂
  • 鳥居坂から東洋英和女学院方面へ続く高台
  • 乃木坂、龍土町美術館通り側の緩やかな起伏
  • 飯倉片町から麻布台へ下る地形

坂は、後の夜の街を直接生んだ原因ではありません。

しかし、表通りと裏通り、高台と谷、小規模な路地と大きな屋敷地を分けました。 明治以後、大規模な軍用地を置けた場所と、商店・飲食店・住宅が集まる場所が近接した背景にも、この地形と江戸の土地所有があります。

六本木が「江戸時代から外国人と酒場の街だった」という説明は誤りです。 国際的な夜の街としての性格は、近代以後に形成されました。

明治から敗戦まで―六本木は軍隊の街だった

明治政府は、旧大名屋敷など広い土地を軍用地へ転換しました。

現在の六本木・赤坂周辺には、二つの重要な歩兵連隊が置かれます。

歩兵第一連隊

歩兵第一連隊ほへいだいいちれんたいの兵営は、現在の東京ミッドタウンと檜町公園を含む地域にありました。

赤坂側の軍用地で、明治から敗戦まで首都東京の軍事拠点の一つでした。

現在、東京ミッドタウンの高層ビル、商業施設、ホテル、公園がある場所が、かつて大規模な兵営だったことは、現代の景観からは分かりにくくなっています。

歩兵第三連隊

歩兵第三連隊ほへいだいさんれんたいは、現在の国立新美術館、政策研究大学院大学、赤坂プレスセンター周辺に兵営を置きました。

歩兵第一連隊と第三連隊は隣接しますが、同じ場所ではありません。

1894年に青山停車場から出発する歩兵第三連隊第一大隊
青山停車場から出発する歩兵第三連隊第一大隊、1894年。撮影者不詳/Wikimedia Commons/Public Domain。

写真は1894年、青山停車場から出発する歩兵第三連隊第一大隊です。

六本木の兵営を写したものではありませんが、この地域に駐屯した部隊が、東京の鉄道と軍事輸送を通じて戦地へ動員されたことを示します。

軍用地には兵営だけでなく、訓練施設、倉庫、病院、将校・兵士を支える機能が必要でした。 周囲には軍人、家族、出入り業者、飲食・日用品の需要が生まれます。

ただし、「軍人向けの飲食店がそのまま戦後のバーになった」と、個別店舗の継続を確認せずに書かないでください。

1936年の二・二六事件では、歩兵第一・第三連隊の将兵が関係しました。 この事件は六本木周辺が首都の軍事中枢だったことを示しますが、本記事では事件の人物列伝や戦闘描写へ脱線せず、土地利用と部隊配置の文脈で扱ってください。

東京大空襲と敗戦で街の基盤が変わった

1945年の空襲は、六本木ろっぽんぎ・麻布・赤坂一帯にも被害を与えました。

軍施設、住宅、寺院、商店が被災し、敗戦とともに帝国陸軍の部隊は解体されます。

ここで、六本木の歴史は大きく切り替わります。

広い軍用地は、一般の住宅地や商業地よりも、占領軍が施設として使用しやすい土地でした。 兵営、道路、空地、建物がまとまっていたためです。

しかし、敗戦前の軍用地がすべて同じ時期に接収され、同じ時期に返還されたわけではありません。

旧歩兵第一連隊用地、旧歩兵第三連隊用地、周辺施設は、それぞれ異なる経過をたどります。 後の防衛庁、大学、美術館、公園、商業再開発、米軍施設へ用途が分かれました。

戦災と接収は、華やかな国際都市の「始まり」として美化できる出来事ではありません。

住宅を失った人々、土地利用を制限された地域、騒音や事故の不安を抱える住民がいたことを忘れずに記述してください。

敗戦後、軍隊の街は米軍の街になった

敗戦後、旧軍用地の一部は連合国・米軍に接収されました。

旧歩兵第三連隊用地には、ハーディ・バラックスと呼ばれる米軍施設が置かれます。

1958年には、現在の国立新美術館や政策研究大学院大学につながる区域を含め、大部分が返還されました。 しかし、すべてではありません。

現在も六本木七丁目には、赤坂プレスセンターあかさかプレスセンターがあります。

港区の説明では、この施設には次の機能があります。

  • 米軍機関紙星条旗新聞せいじょうきしんぶんの日本支社
  • 宿泊施設
  • ヘリポートなど
1977年のハーディ・バラックスと六本木周辺を写した空中写真
1977年のハーディ・バラックス周辺。国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」を基に作成/Wikimedia Commons/CC BY 4.0。

1977年の空中写真を見ると、米軍施設と周囲の市街地が近接していることが分かります。

六本木の国際化を考えるとき、この施設の存在は重要です。

米軍関係者が六本木・麻布・赤坂周辺を利用し、英語対応の飲食店、バー、衣料、音楽、サービスへの需要を生んだことは、地域変化の一要因でした。

しかし、「米軍施設があったので六本木の全店舗が米兵相手になった」と一般化してはいけません。

また、米軍施設を異国文化の入口としてだけ扱ってはいけません。

港区は現在も、ヘリコプターの騒音、安全性、土地利用、基地返還に関する要望を示しています。 都心の美術館、学校、住宅、商業地の隣に外国軍施設が残るという、未完了の戦後史でもあります。

現地の位置関係は、星条旗新聞社周辺から西麻布・広尾へ歩く記事でも確認できます。

米軍だけでは説明できない―麻布・赤坂の国際都市圏

六本木ろっぽんぎの国際化は、米軍関係者だけで維持されたものではありません。

周辺の麻布、赤坂、広尾、虎ノ門には、大使館、外国企業、国際学校、ホテル、外国人住宅が集まりました。

六本木は、大使館街そのものではありません。 しかし、周囲の国際的な住宅・業務地域から短時間で来られる飲食・娯楽の中心になりました。

この違いが重要です。

大使館がある → 六本木に外国人が集まる

という単純な因果ではありません。

  • 外交官と家族
  • 外国企業の駐在員
  • 米軍関係者
  • 旅行者
  • 国際ホテルの利用者
  • 日本のテレビ、映画、広告、音楽、ファッション関係者
  • 外国文化へ関心を持つ日本人

異なる人々が、飲食店、ライブ、バー、クラブ、レストランを通じて交差しました。

英語や外国語へ対応できる店が増えると、新しい利用者が来やすくなります。 外国人客が増えると、海外の料理、音楽、接客に対応する人材も集まります。 こうした循環が、六本木を国際的な夜の街として強化しました。

周辺の国際的な住宅地については、元麻布・南麻布の大使館街を歩く記事も参考になります。

外国人を一枚岩として扱わないでください。 国籍、職業、滞在目的、所得、利用する店舗は多様です。 「外国人が多いから治安が悪い」という表現も禁止します。

1950~60年代―西洋料理と文化人の交流が始まった

戦後の六本木・麻布あざぶでは、外国人と日本人の両方を迎える西洋料理店やバーが注目されます。

六本木のピザ店「ニコラス」は、日本のピザ史で重要な店として紹介されます。 公式の沿革には1954年、別の公式ページには1956年とする記述があり、開業年に表記差があります。

記事では「1950年代半ばに六本木で営業を始めた」と記述し、どちらか一方を確定年として断定しないでください。

1960年には、六本木に近い飯倉片町でレストラン「キャンティ」が開業しました。

キャンティには、音楽家、俳優、映画人、デザイナー、作家などが集まったと伝えられます。 西洋料理を食べる場所であるだけでなく、異なる業界の人々が出会う文化的サロンとして機能しました。

ただし、有名人の逸話を並べるだけの記事にしないでください。

重要なのは、六本木周辺で次の条件が重なったことです。

  • 外国人へ対応する食文化
  • 深夜まで会話できる場所
  • テレビ、映画、音楽、広告の制作者
  • 海外の音楽や服装を受け入れる若者
  • 麻布・赤坂の住宅・業務地域
  • タクシーで都心各地へ移動できる立地

料理店とバーは、単なる消費の場ではなく、人と情報が業界を越えて移動する接点になりました。

地下鉄・東京オリンピック・テレビが人の流れを変えた

1964年3月25日、地下鉄日比谷線の霞ケ関―恵比寿間が開業し、六本木駅が営業を始めました。

同年8月29日には日比谷線全線が開通します。 東京オリンピックを前に整備された地下鉄によって、六本木は銀座、霞ケ関、日比谷、恵比寿などと一本で結ばれました。

それ以前の六本木は、路面電車、バス、タクシー、自動車による移動が中心でした。

地下鉄開業の効果は、単に「駅ができて客が増えた」ことだけではありません。

  • 銀座、日比谷の商業・映画・劇場地域
  • 霞ケ関の官庁街
  • 恵比寿・広尾・中目黒方面
  • 上野、秋葉原方面

異なる都市活動を六本木へ結びつけました。

1958年に完成した東京タワーは、放送と戦後復興の象徴となりました。 六本木周辺にはテレビ朝日をはじめ、テレビ、広告、制作会社、芸能関係者が集まります。

テレビ局があるから夜の街になったのではありません。

収録後の食事、番組関係者の交流、広告・芸能・音楽業界の打ち合わせ、深夜まで働く人々の需要が、既存の飲食・娯楽集積と結びついたのです。

東京タワーと放送、麻布台の景観変化については、東京タワーと麻布台の戦後都市史を歩く記事でも現地を紹介しています。

六本木族からディスコへ―音楽とメディアが夜を変えた

1960年代には、六本木族ろっぽんぎぞくという言葉が使われるようになります。

この名称は、特定の会員組織や一つの店を指すものではありません。

六本木の飲食店、ナイトスポット、文化人の店などへ集まった若者、芸能人、モデル、裕福な家庭の若者などを、雑誌や新聞がまとめて呼んだ社会的ラベルです。

同時代には、みゆき族、原宿族など、若者の服装や集まる場所を「族」と名付ける報道がありました。

六本木族を、現在の暴走族や犯罪集団と混同しないでください。 また、すべての若者が裕福、反抗的、外国文化志向だったと一般化しないでください。

1960~70年代の六本木では、ジャズ、ロック、ソウル、ラテン音楽など、海外の音楽を聴ける店が増えます。

その後、踊ることを中心とするディスコが拡大しました。

ナイトクラブ、ディスコ、現在のクラブは、同じものではありません。

形態 主な特徴
ナイトクラブ 生演奏、ショー、飲食、接客を含む大型夜間施設
ディスコ レコード音楽とダンスフロアを中心にした施設
クラブ DJ、音響、特定ジャンルの音楽、イベントを中心とする形態が多い

実際には名称と営業内容が重なるため、個別施設は当時の広告・営業資料で確認してください。

六本木を含む街と音楽の関係は、東京の音楽文化と街の関係をたどる大型ガイドでも詳しく整理しています。

1980年代―バブルが六本木の知名度を全国化した

1980年代、六本木のディスコ、バー、レストランは、テレビ、雑誌、音楽、ファッションを通じて全国的に知られるようになります。

バブル経済期には、企業接待、高額消費、輸入車、ブランド服、会員制店舗などが六本木のイメージと結びつきました。

しかし、六本木の夜の街が1986年以後に突然生まれたわけではありません。

米軍・外国人需要。 1950~60年代の西洋料理と文化人。 六本木族。 1970年代のディスコ。 テレビ・広告・音楽業界。

すでに形成されていた集積へ、バブル期の資金とメディア露出が加わったのです。

「バブルの象徴」としての六本木は、歴史の一時期を強調したイメージです。

また、当時の利用者全員が高額消費をしていたわけでもありません。 若者向けの店、外国人向けの店、常連中心の店、音楽志向の店など、客層は分かれていました。

特定のディスコ名、芸能人、事件、ナンパ文化を大量に追加しないでください。 記事の軸は、店舗ランキングではなく、六本木が全国的な都市イメージを獲得した過程です。

バブル崩壊後も踊る街だった―ヴェルファーレとクラブ時代

バブル経済が崩壊すると、六本木の高額消費とディスコ文化も変化します。

しかし、夜の街が消えたわけではありません。

1994年12月、六本木にヴェルファーレが開業しました。

バブル崩壊後の開業です。 「バブル期を代表するディスコ」とだけ説明すると、時期を誤ります。

ヴェルファーレは大型の空間、音響、照明、イベント、レコード会社との連携を通じて、1990年代以後のダンス音楽文化を代表する施設になります。

2005年の六本木ヴェルファーレ入口
六本木ヴェルファーレ入口、2005年。撮影:*pb*/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0。

写真は2005年の入口です。

ヴェルファーレは2007年に閉店しました。 その後も六本木では、DJと音響を中心とするクラブ、ラウンジ、バー、ライブ施設が入れ替わります。

この時代には、夜の音楽文化の中心が一つの大型ディスコへ集中するのではなく、音楽ジャンル、イベント、客層ごとに分かれる傾向が強くなりました。

2000年代以後のクラブ文化を、1980年代のディスコ文化と同じものとして扱わないでください。

また、現在営業中の店の料金、入場条件、服装、評判を掲載しないでください。 この記事は夜遊び案内ではなく、都市文化史です。

六本木は花街・遊郭から発展した街なのか

結論から言えば、六本木の国際的な夜の街を、伝統的な花街や公認遊郭の直接的な後継として説明することはできません。

六本木周辺には料理屋、待合、芸妓の営業が存在した時期・場所があります。 麻布は昭和初期の花街一覧にも登場します。

しかし、新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、向島のような花街の歴史と、戦後六本木の外国人向けバー、ナイトクラブ、ディスコの形成過程は異なります。

花街は、料理屋、待合、置屋、芸妓などの営業ネットワークを中心に成立しました。 戦後六本木では、米軍・外国人需要、西洋料理、バー、テレビ、音楽、広告、地下鉄などが大きな役割を持ちます。

「昔は花街だったので、戦後はディスコ街になった」と単線的につながないでください。

2000年代の再開発―夜の街に美術館・企業・住宅が重なった

2003年、六本木ヒルズが開業しました。

再開発には長い時間がかかり、多数の地権者との調整を経て、オフィス、住宅、商業施設、ホテル、テレビ朝日、森美術館などが組み込まれました。

J-WAVEの表示がある2003年の六本木ヒルズ森タワー
J-WAVEの表示がある六本木ヒルズ森タワー、2003年。撮影:Hadge/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

写真には、六本木ヒルズ森タワーのJ-WAVE表示が見えます。

放送局、企業、美術館、住宅が一つの再開発地区へ集まったことは、六本木が夜間消費だけの街ではなく、情報・文化・業務の都市になったことを示します。

2007年1月には、旧歩兵第三連隊用地の返還区域に国立新美術館が開館しました。

同年3月には、旧防衛庁・旧歩兵第一連隊用地に東京ミッドタウンが開業します。

東京ミッドタウンには、オフィス、住宅、ホテル、商業施設、文化施設、病院、公園が組み込まれました。

これらの再開発により、六本木の利用時間と客層は広がります。

  • 朝に働くオフィス勤務者
  • 昼に美術館や商業施設を訪れる人
  • ホテル利用者と国際会議の参加者
  • 住宅に暮らす人
  • 放送・広告・IT・金融・文化産業の関係者
  • 夜の飲食店・クラブを利用する人

再開発が夜の街を消したのではありません。

昼の企業都市・文化都市・住宅都市を重ね、夜の街を複合都市の一部へ変えました。

六本木ヒルズと東京ミッドタウンを「治安を改善した再開発」と単純評価しないでください。 地権者調整、従来の店舗・住宅、地価、都市景観、公共空間の変化も含む再編です。

なぜ六本木は現在も国際的なのか

現在の六本木ろっぽんぎが国際的な都市として認識される理由は、外国人向けの店が多いことだけではありません。

周囲に国際機能が集まる

麻布、広尾、赤坂、虎ノ門には大使館、外国企業、国際学校、ホテル、外国人住宅があります。

六本木は、それらを結ぶ位置にあります。

交通がよい

日比谷線と都営大江戸線が乗り入れ、霞ケ関、銀座、恵比寿、新宿などから移動できます。

都営大江戸線の六本木駅は2000年に開業し、交通の接続がさらに強まりました。

英語・外国語対応の蓄積がある

戦後以来、外国人客へ対応してきた店、ホテル、サービス、人材の蓄積があります。

新しい店も、その地域イメージと人材市場を利用できます。

メディアと文化産業が近い

放送、広告、音楽、映画、ファッション、美術、ITなどの人々が、仕事と交流のために集まります。

昼と夜の需要が重なる

企業、美術館、住宅、ホテル、学校、公園があるため、夜だけに人が来る街ではありません。

昼の利用者の一部が夜の飲食へ移り、夜の店舗を利用した人がホテルや交通機関を使います。

国際的というイメージが自己強化する

六本木に行けば海外の料理、音楽、人々に出会えるという認識が、新しい店と利用者を引き寄せます。

ただし、「国際的」は常に肯定的な言葉ではありません。

外国人を観光資源として見世物化したり、国籍によって治安や文化を評価したりしないでください。 六本木の国際性は、働く人、暮らす人、外交・軍事・企業・文化の制度が重なる結果です。

地図で確認する―軍用地と旧町名

六本木の歴史を地図で見るときは、現在の高層ビル名だけでなく、旧町名と軍用地を確認してください。

東京ミッドタウン・檜町公園

旧歩兵第一連隊、戦後の米軍接収、防衛庁、東京ミッドタウンという土地利用の変化を追います。

国立新美術館・政策研究大学院大学

旧歩兵第三連隊用地の返還区域です。

赤坂プレスセンター

旧歩兵第三連隊用地のうち、現在も米軍施設として残る区域です。

六本木交差点

外苑東通りと六本木通りが交わり、飲食・交通・広告景観の中心になりました。

龍土

国立新美術館・乃木坂周辺の旧地名です。

飯倉片町

六本木交差点から東京タワー・麻布台方向へ進む旧町名・交差点名です。 戦後のレストラン、文化人の交流を考える場所です。

麻布三河台・麻布材木町

現在の六本木の一部に組み込まれた旧町名です。

旧町名や軍用地を探すときは、東京の古地図を現在地と重ねて読む方法も役立ちます。

地図で歩く六本木

六本木の歴史散歩では、夜の店舗を巡るのではなく、軍用地、坂、旧町名、再開発、文化施設を順に見ます。

1.東京ミッドタウン・檜町公園

東京ミッドタウンの広場と檜町公園を歩き、旧歩兵第一連隊、防衛庁、再開発という土地利用の変化を確認します。

公園の樹木や地形が、すべて兵営時代からそのまま残ったと説明しないでください。

2.乃木坂と旧歩兵第三連隊用地

乃木坂のぎざか駅方面から国立新美術館、政策研究大学院大学の周辺へ進みます。

歩兵第三連隊の広い兵営が、大学、美術館、米軍施設へ分割された位置関係を見ます。

3.赤坂プレスセンター周辺

施設内へ立ち入らず、公道から位置関係だけを確認します。

門、警備員、車両、ヘリポート、勤務者を撮影対象にしないでください。 基地反対・賛成の政治的主張を参加者へ強要せず、港区の公式資料で現在の課題を確認します。

4.六本木交差点

外苑東通りと六本木通りが交わる場所です。

地下鉄、車、徒歩の人流、看板、雑居ビル、高層再開発の重なりを見ます。 個別バー、クラブ、利用者を撮影しないでください。

5.六本木ヒルズ

住宅、オフィス、ホテル、放送局、美術館、商業施設が一体化した再開発を見ます。

再開発前の麻布材木町などの旧町と地権者の歴史も意識してください。

6.麻布十番方面

芋洗坂などを下り、低地の麻布十番へ進みます。

実際の道筋は、六本木から麻布十番まで歴史をたどったナイトウォークで確認できます。

7.青山・西麻布方面

乃木坂、青山霊園、西麻布、広尾方向へ進むと、大使館、寺院、住宅、飲食店の国際的な都市圏が見えます。

反対方向のつながりは、青山から西麻布・六本木へ歩いたナイトウォークでたどれます。

このコースは日中または夕方に歩き、深夜の細街路を歴史見学目的で徘徊しないでください。

ほかの地域も歩きたい場合は、東京の歴史散歩コース集をご覧ください。

よくある誤解を整理する

よくある説明 実際に確認すべきこと
六本木は江戸時代から外国人の街だった 江戸期は武家地・寺町が中心。国際的な性格は近代・戦後に形成
米兵が六本木の夜の街を一から作った 米軍需要は重要だが、大使館、外国企業、地下鉄、メディア、音楽、飲食の集積も必要
東京ミッドタウンも国立新美術館も歩兵第三連隊跡 ミッドタウン側は歩兵第一連隊、国立新美術館側は歩兵第三連隊
旧軍用地はすべて日本へ返還された 旧歩兵第三連隊用地の一部に赤坂プレスセンターが残る
六本木は花街からディスコ街になった 伝統的花街と戦後六本木の夜間業態は制度・形成条件が異なる
六本木の全盛期はバブル期だけ 1950年代から段階的に形成され、バブル後もクラブ文化と再開発が続いた
ヴェルファーレはバブル期のディスコ 1994年12月、バブル崩壊後に開業
再開発で夜の街は終わった 企業、住宅、美術館、ホテルが重なり、夜の街は複合都市の一部へ変化
外国人が多いので治安が悪い 国籍を治安原因として一般化できない。具体的な犯罪統計・地域施策で評価する

歩くときの注意点

六本木は、歴史展示のためのテーマパークではありません。

住宅、学校、職場、米軍施設、大使館、飲食店、ホテル、クラブ、美術館が隣接する現役の都市です。

  • 店舗の入口、利用者、従業員を無断撮影しない
  • クラブ、バー、ホテルの内部をのぞき込まない
  • 客引き、酔客、交通量に注意する
  • 外国人を珍しい被写体として撮影しない
  • 国籍、言語、服装から職業や在留資格を推測しない
  • 米軍施設の門、警備、車両、勤務者へカメラを向けない
  • 基地周辺の私有地へ入らない
  • 大使館・外交施設の警備を妨げない
  • 夜間に住宅の細い路地へ入り込まない
  • 旧軍用地の歴史を、戦争や占領の美談にしない
  • 夜の街を犯罪、性、薬物のイメージだけで語らない
  • 現在の店舗ランキングや料金調査を歴史散歩と混同しない

六本木を歩く目的は、夜遊びの客や店を見ることではありません。

坂、道路、旧軍用地、米軍施設、地下鉄、放送局、美術館、高層再開発を見ながら、街の利用者と機能がどのように入れ替わったかを理解することです。

よくある疑問

六本木は、なぜ外国人が多いのですか?

敗戦後の米軍施設と外国人需要は重要な要因です。

それに加えて、麻布・赤坂・広尾周辺の大使館、外国人住宅、国際学校、外国企業、ホテル、英語対応店舗、地下鉄などが重なっています。 米軍だけで現在の国際性を説明することはできません。

六本木は昔、軍隊の街だったのですか?

はい。

現在の東京ミッドタウン周辺には歩兵第一連隊、国立新美術館・赤坂プレスセンター周辺には歩兵第三連隊の兵営がありました。 ただし、現在の六本木全域が軍用地だったわけではありません。

米軍基地は現在も六本木にありますか?

六本木七丁目に赤坂プレスセンターがあります。

星条旗新聞社の日本支社、宿泊施設、ヘリポートなどを持つ米軍施設です。 旧歩兵第三連隊用地の大部分は1958年に返還されましたが、一部は現在も米軍施設として残っています。

六本木の地下鉄駅はいつできましたか?

日比谷線六本木駅は1964年3月25日に開業しました。

都営大江戸線六本木駅は2000年に開業し、交通の接続がさらに強化されました。

六本木族とは暴走族のことですか?

違います。

1960年代に六本木へ集まった若者や文化人周辺を、新聞・雑誌がまとめて呼んだ社会的な名称です。 現在の暴走族と同じ組織・文化ではありません。

六本木のディスコはバブル期に始まったのですか?

いいえ。

六本木のナイトクラブやディスコ文化は、1960~70年代から段階的に発展しました。 1980年代のバブル期に消費とメディア露出が拡大しました。

ヴェルファーレはバブル時代の店ですか?

ヴェルファーレは1994年12月、バブル崩壊後に開業しました。

1990年代以後の大規模ダンス施設を代表する存在で、2007年に閉店しました。

六本木ヒルズができて夜の街はなくなりましたか?

なくなってはいません。

六本木ヒルズ、国立新美術館、東京ミッドタウンによって、企業、住宅、美術館、ホテル、商業施設が増えました。 夜の街は、昼の業務・文化・居住機能と重なる複合都市の一部になりました。

六本木は昔、花街や遊郭だったのですか?

六本木・麻布周辺に料理屋や芸妓営業があった時期はあります。

しかし、六本木の国際的な夜の街を、公認遊郭や伝統的花街の直接の後継として説明することはできません。 戦後の米軍、外国人需要、テレビ、音楽、地下鉄などが大きな役割を持ちました。

まとめ―六本木の国際性は、軍用地の上に一夜で生まれたのではない

六本木ろっぽんぎが国際的な夜の街になった理由は、「米軍基地があったから」という一文では説明できません。

江戸時代、六本木一帯は武家地と寺町でした。

明治以降、現在の東京ミッドタウン周辺に歩兵第一連隊、国立新美術館・赤坂プレスセンター周辺に歩兵第三連隊が置かれ、首都の軍事拠点になります。

敗戦後、旧軍用地の一部は米軍に接収されました。 米軍関係者と外国人向けの飲食・サービス需要が生まれます。

同時に、麻布・赤坂・広尾の大使館、外国人住宅、ホテル、外国企業が、継続的な国際需要を支えました。

1950~60年代には、西洋料理店、バー、テレビ、広告、映画、音楽、ファッションの人々が集まります。 1964年の地下鉄日比谷線開業で、人の流れがさらに増えました。

六本木族、ナイトクラブ、ディスコ、バブル期の消費、ヴェルファーレ、クラブ文化は、同じものではありません。 時代ごとに音楽、店舗、客層、メディアの仕組みが変わりました。

2003年の六本木ヒルズ、2007年の国立新美術館と東京ミッドタウンは、企業、住宅、放送局、美術館、ホテル、公園を街へ重ねました。

一方、旧歩兵第三連隊用地の一部には、現在も赤坂プレスセンターが残ります。

つまり六本木には、

  • 江戸の武家地と寺町
  • 明治から昭和の軍用地
  • 敗戦後の米軍施設
  • 大使館と外国人居住
  • テレビ、広告、音楽、飲食
  • ディスコとクラブ
  • 美術館、企業、住宅を含む再開発

という異なる時間が、徒歩圏内に重なっています。

六本木は、軍隊の街が単純に夜の街へ変わった場所ではありません。

異なる制度と利用者が、広い軍用地、坂の多い旧町、都心交通、国際的な居住圏を何度も組み替えた結果です。

夜の看板だけではなく、その背後にある軍用地、美術館、住宅、大使館、放送局を見ると、六本木がなぜ世界的な都市イメージを持つようになったのかが見えてきます。

参考文献・資料

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  2. 港区「麻布地区の旧町名由来板」
  3. 港区「みなと写真散歩 第8回 六本木」
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  5. デジタル版 港区史「六本木地区の地形・旧町・戦後都市化」
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  7. デジタル版 港区のあゆみ「旧歩兵第三連隊用地の返還と再利用」
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  11. 東京メトロ「沿革」
  12. ニコラス ピザハウス「ニコラスの歴史」
  13. ピッツァ協議会「日本のピザのルーツ」
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  17. エイベックス「六本木ヴェルファーレの歴史」
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  20. 東京ミッドタウン「街の歴史」
  21. 国立新美術館「国立新美術館について」
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  25. Wikimedia Commons「The 3rd Infantry Regiment of Imperial Japanese Army departing from Aoyama Station」
  26. Wikimedia Commons「Hardy Barracks Heliport aerial photograph 1977」
  27. Wikimedia Commons「Velfarre entrance」
  28. Wikimedia Commons「Roppongi Hills with J-wave」