明治五千分一東京図を徹底解説②|日本橋・本所・深川を読む

明治16〜17年(1883〜1884)に作成された「五千分一東京図測量原図」は、近代東京が形を変え始めた時期の街を、建物、河川、堀、橋、倉庫、官公署、邸宅まで細かく記録した地図です。第2回は、日本橋から本所・深川にかけての4図を読みます。

この地域では、江戸以来の水運都市の構造と、明治初期の商業・金融の近代化が同じ地図上に現れます。日本橋川、隅田川、堀割、河岸、倉庫を追うと、道路中心の現代東京とは異なる都市の仕組みが見えてきます。

五千分一東京図測量原図とは

本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。

国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。

東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常盤町近傍

国土地理院 資料番号1005

五千分一東京図測量原図1005 東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常盤町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常盤町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1005は明治17年(1884)8月の図で、日本橋浜町から両国橋を越えて本所・深川までを描きます。高精細原図では「久松邸」「蜂須賀邸」「毛利邸」「細川邸」「藤堂邸」「伊達邸」のほか、「久松小学」「電信分局」「元町警察署」「八名川警察署」「回向院」「江島神社」「要津寺」「御船蔵跡」などを明瞭に確認できます。旧大名家の邸宅が残る一方、学校・電信・警察・消防といった近代制度が同じ市街地に入り込んだ時期の姿です。

久松邸―正岡子規を支えた旧松山藩主家の東京拠点

日本橋浜町の「久松邸」は旧松山藩主久松家の邸宅です。正岡子規は明治16年(1883)6月の上京後、この邸内に寄寓しました。翌明治17年3月には久松家の育英事業・常盤会の初代給費生10人に選ばれ、9月に東京大学予備門へ入学しています。1005が測量された同年8月は、久松家による旧藩士子弟の教育支援と子規の東京遊学が直接重なる時期です。

蜂須賀邸―旧徳島藩主家の浜町別邸

浜町には「蜂須賀邸」と記された大きな邸宅もあります。旧徳島藩主家の当主は蜂須賀茂韶はちすか・もちあきで、明治15年(1882)からフランス特命全権公使を務め、明治17年には侯爵となりました。1005作成時の茂韶本人は在仏中だったため、ここは「蜂須賀家の浜町邸」とするのが正確です。明治20年(1887)には、この浜町蜂須賀邸で北海道製麻会社の株主総会が開かれており、旧大名家の邸宅が明治の実業活動の会場にも使われていました。

毛利邸―長州毛利家が維新史料を集めた浜町の編輯拠点

「毛利邸」は旧長州藩主毛利宗家の東京拠点と考えられます。当主の毛利元徳もうり・もとのりは毛利敬親の養子として長州藩主家を継ぎ、廃藩後は第十五国立銀行頭取などを務め、明治17年に公爵となりました。

山口県文書館の研究によると、毛利家は明治16年(1883)に史料編纂事業を東京へ移し、浜町に仮書庫を置きました。翌明治17年にも山口から87個の記録類を東京へ取り寄せています。1005が描く年、浜町では旧藩主家の邸宅と並んで、幕末・維新期の長州藩関係史料を集める編輯事業が進められていました。

細川邸―熊本藩細川家の庭園から浜町公園へ

隅田川沿いの庭園には「細川邸」とあります。旧熊本藩主細川家の下屋敷に由来する土地で、現在の浜町公園につながります。文久元年(1861)には熊本の本妙寺から加藤清正の分霊が勧請され、屋敷内に清正公が祀られました。明治18年(1885)には仏式の清正公堂となり、1005はその前年の状態を記録しています。敷地は関東大震災後の復興事業で公園化され、昭和4年(1929)に浜町公園として開園しました。

久松小学―学制発足期に始まった地域の学校

久松邸とは別に、高精細原図には「久松小学」と記された校地があります。現在の中央区立久松小学校につながる学校で、明治6年(1873)に学制発足期の小学校として開校しました。明治17年の地図は、開校から約11年後の校地を記録しています。旧大名家の名が残る「久松邸」と近代学校の「久松小学」が同じ図中に並ぶ点は、明治初期の日本橋で旧藩主家と新しい教育制度が併存していたことを具体的に示します。

電信分局―両国橋西詰に置かれた通信拠点

両国橋西詰の「電信分局」は明治初期の電信網を支えた両国電信分局です。国立公文書館には明治11年(1878)の「工部省伺東京府下両国電信分局増地ノ儀」が残り、敷地拡張が政府内で検討されていたことを確認できます。人と物資が集中した両国橋のたもとに、明治になると情報通信の拠点も加わりました。

元町警察署―警視庁創設直後の本所警察

両国橋東詰には「元町警察署」があります。前身は明治7年(1874)の警視庁創設時に置かれた第六大区六小区羅卒屯所で、制度改編を経て明治14年(1881)に本所元町警察署となりました。明治23年(1890)には相生町へ移転して本所相生警察署となるため、1005は元町警察署という名称で存在した時期の庁舎を記録しています。

回向院えこういん―1884年にも相撲本場所が開かれた境内

回向院は明暦3年(1657)の大火犠牲者を弔うために開かれた寺院で、江戸後期には勧進相撲の中心地となりました。天保4年(1833)以降、春秋の相撲興行の定場所となり、明治42年(1909)に旧両国国技館が完成するまで続きます。1005が作成された明治17年も、両国の相撲興行が回向院境内を中心に行われていた時代です。

藤堂邸―若き斎藤緑雨さいとう・りょくうが暮らした本所の邸宅

本所緑町の「藤堂邸」には、のちに文芸評論家・小説家となる斎藤緑雨が少年期に暮らしました。墨田区立図書館の資料によれば、父が藤堂家の侍医となったため、一家は本所緑町三丁目の藤堂邸に住んでいます。緑雨はのちに森鷗外・幸田露伴と作品合評「三人冗語」を行い、樋口一葉の作品を高く評価した人物です。藤堂家のどの家筋の邸宅かについては資料間に食い違いがあるため、本文では「藤堂家邸」として扱います。

伊達邸―宇和島伊達家当主伊達宗徳だて・むねえの本所小泉町邸

本所小泉町の「伊達邸」は、同時代の住所資料と位置を照合すると、宇和島伊達家当主の伊達宗徳の邸宅と考えられます。明治期の株主名簿には「伊達宗徳 東京府本所区小泉町三十五番地」とあり、父にあたる伊達宗城だて・むねなりは浅草区山谷今戸町の別住所で記録されています。宗徳は宇和島藩最後の藩主で、明治17年に伯爵となりました。

八名川警察署―警察署内から始まった近代消防

新大橋東側には「八名川警察署」があります。警視庁の沿革では、明治14年(1881)に森下町警察署から八名川警察署へ改称した時期が確認できます。さらに東京消防庁によれば、同じ明治14年に消防第六分署が八名川警察署内で発足しました。現在の深川消防署につながる組織で、1005は警察と消防が同じ施設を拠点としていた時期を記録しています。

江島神社―杉山和一すぎやま・わいちの鍼治教育が途切れていた1884年

本所一ツ目の「江島神社」は、盲人鍼医・杉山和一の旧拝領地にあります。杉山は江戸時代に鍼治教育を制度化し、この地には鍼治講習所が置かれましたが、明治4年(1871)の制度廃止に伴って講習所も廃止されました。杉山を祀る杉山神社が江島神社境内に建立されるのは明治23年(1890)です。したがって1005は、鍼治講習所廃止後、杉山神社建立前の「江島神社」だけが存在した過渡期を記録しています。現在の社名「江島杉山神社」は昭和27年(1952)の合祀後の名称です。

要津寺ようしんじ―雪中庵俳諧と大名家墓所が残る寺

「要津寺」は一般的な寺院として除外できない歴史を持ちます。境内には松尾芭蕉の門人・服部嵐雪の流れをくむ雪中庵関係の石碑群が残り、三世雪中庵の大島蓼太おおしま・りょうたはここに芭蕉庵を再興しました。墨田区の文化財資料では、要津寺の雪中庵関係石碑群が登録されているほか、常陸笠間藩牧野家の墓所も史跡として残されています。俳諧史と大名家墓所の二つの歴史が重なる寺です。

御船蔵跡―幕府の船蔵が消えた後も残った旧跡名

深川安宅町付近には「御船蔵跡」と記されています。江戸時代、この一帯には幕府の艦船を格納する御船蔵が置かれ、巨大な御座船・安宅丸とも結び付く土地でした。1005では施設名ではなくすでに「跡」と書かれており、明治17年の測量時にも幕府水運施設の位置が旧跡として地図に残されていたことが分かります。

東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町大工町近傍

国土地理院 資料番号1006

五千分一東京図測量原図1006 東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町大工町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国日本橋区蛎殻町及深川区佐賀町大工町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1006は明治17年(1884)7月の図で、蛎殻町かきがらちょう・箱崎町から永代橋を挟み、深川佐賀町・大工町方面を描きます。高精細原図では「日本銀行」「東京米商会所」「共同運輸会社」「郵便汽船三菱会社」「東京商船学校」「浅野工場」「伊勢勝白煉瓦製造所」「有馬小学」「日本橋区役所」「堀田邸」「松平邸」などを明瞭に確認できます。銀行・米取引・海運・船員教育・工業・区行政が水路沿いに近接し、江戸以来の物流都市が近代的な経済都市へ変わる途中の姿です。

日本銀行―開業から約2年の初代本店

永代橋際の「日本銀行」は、現在の日本橋本石町へ移る前の初代本店です。日本銀行は明治15年(1882)10月10日、現在の日本橋箱崎町にあった旧北海道開拓使物産売捌所の建物で開業しました。建物は英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計による煉瓦造で、明治14年に竣工した建物を転用したものです。

1006が作られた明治17年には兌換銀行券条例が公布されましたが、最初の日本銀行券が発行されるのは翌明治18年5月です。地図は、中央銀行として開業して約2年、日本銀行券の発行を始める直前の本店を描いています。本店は明治29年(1896)に現在地へ移転しました。

東京米商会所―二つの米市場が統合された翌年

蛎殻町には「東京米商会所」があります。明治9年(1876)から東京には東京蛎殻町米商会所と東京兜町米商会所がありましたが、明治16年(1883)に両者が合併して東京米商会所となりました。1006は統合から約1年後の姿です。米は生活必需品であると同時に大きな取引商品で、価格形成の場であった米商会所は、江戸以来の米流通が近代的な取引所制度へ組み替えられていく過程を示します。東京米商会所は明治26年(1893)に東京米穀取引所へ改組されました。

共同運輸会社と郵便汽船三菱会社―合併前年の海運競争

隅田川沿いには「共同運輸会社」と「郵便汽船三菱会社」が別々の施設として記されています。共同運輸会社は明治15年(1882)に設立され、翌年に営業を開始し、政府の支援を受けて郵便汽船三菱会社と激しい海運競争を展開しました。

競争は運賃引下げにまで及び、共倒れを避けるため政府の仲介で明治18年(1885)に両社が合併して日本郵船会社が成立します。1006はその前年で、のちに一社へまとまる二つの海運勢力が、同じ水辺で競争相手として並んでいた時代を記録しています。

東京商船学校―三菱の船員教育から官立学校へ

永代橋付近の「東京商船学校」は、明治8年(1875)に三菱が設立した三菱商船学校を前身とします。当初は永代橋近くに繋留した帆船「成妙丸」を練習船兼校舎として使い、船員を養成しました。明治15年に官立へ移管されて東京商船学校となり、1006は官立化から約2年後の学校を描いています。この系譜は東京商船大学を経て、現在の東京海洋大学海洋工学部へ続きます。

浅野工場―測量月に民営化されたセメント工場

深川側の「浅野工場」は、浅野総一郎あさの・そういちろうが官営の深川工作分局セメント工場を引き継いだ施設です。浅野は明治16年(1883)に工場を借り受け、明治17年7月8日に土地・建物の払下げを受けて匿名組合を組織し、「浅野工場」と命名しました。

1006も明治17年7月の測量図です。地図上の名称と官営工場から民営工場への転換がほぼ同時期に重なります。浅野工場はのちの浅野セメント、日本セメントを経て、現在の太平洋セメントにつながるセメント事業の出発点となりました。

伊勢勝白煉瓦製造所―1884年の深川に生まれた耐火煉瓦工場

原図には「伊勢勝白煉瓦製造所」と記された工場があります。西村勝三にしむら・かつぞうは明治8年(1875)に芝浦で民間の耐火煉瓦製造を始め、明治17年に芝浦の工場を深川へ統合して伊勢勝白煉瓦製造所を設立しました。企業沿革は設立年を1884年としています。測量月表示との細かな前後関係までは断定せず、1006は少なくとも同年の深川に成立した耐火煉瓦工場を記録する図として読むことができます。

明治20年(1887)には深川工場を品川へ移して品川白煉瓦製造所と改称し、その系譜は現在の品川リフラへ続きます。浅野工場とあわせると、深川の水辺にセメントと耐火煉瓦という近代建築・工業を支える素材産業が集まっていたことが分かります。

有馬小学―ハワイから学習者を受け入れた明治初期の学校

日本橋側の「有馬小学」は現在の中央区立有馬小学校につながります。明治6年(1873)に幼童学所として始まり、翌年に公立有馬小学校となりました。1006作成の前年、明治16年(1883)にはハワイから貴族2名が日本語学習のため入学したことが学校沿革に記録されています。学制発足直後の東京の小学校が、すでに海外から学びに来た人々を受け入れていたことが分かる例です。

日本橋区役所―誕生から6年ほどの「日本橋区」を治めた役所

原図の「日本橋区役所」は、現在の中央区が成立する以前の行政区「日本橋区」の役所です。明治11年(1878)の郡区町村編制法によって東京府に15区が置かれ、日本橋区と京橋区が誕生しました。1006は区の発足から約6年後で、近代的な区行政が商業地の中に根を下ろし始めた時期を描いています。日本橋区と京橋区は昭和22年(1947)に統合され、現在の中央区となりました。

堀田邸―旧佐倉藩主家の深川佐賀町本邸

深川佐賀町の「堀田邸」は、旧佐倉藩主堀田家の本邸です。同じ1006を含む明治17年の地図と住所資料を突き合わせた調査でも、この地が堀田正倫ほった・まさともの東京居所だったことが確認されています。正倫は佐倉藩最後の藩主で、廃藩後は東京で暮らし、明治17年には伯爵となりました。水運・倉庫・企業が集まる深川佐賀町に、旧大名家の大規模邸宅も残っていたことを示す区画です。

松平邸―明治東京に残った大規模な旧大名家系の邸宅

有馬小学の近くには、庭園を備えた大きな敷地に「松平邸」と明瞭に記されています。「松平」は徳川家と縁の深い多数の大名家が用いた姓で、周辺には江戸時代に松平氏の屋敷地もありました。この地図だけから明治17年当時の家筋や居住者を一人に絞ることはしませんが、重要なのは、近代的な銀行や学校が生まれた日本橋でも、旧大名家系の名を持つ広大な邸宅区画がなお残っていたことです。江戸の屋敷地と明治の制度・企業が同じ街区に併存する様子を読み取れます。

東京府武蔵国日本橋区大傳馬町及神田区紺屋町近傍

国土地理院 資料番号1007

五千分一東京図測量原図1007 東京府武蔵国日本橋区大傳馬町及神田区紺屋町近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国日本橋区大傳馬町及神田区紺屋町近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1007は明治17年(1884)8月の図で、日本橋大伝馬町から神田紺屋町・東松下町方面までを描きます。高精細原図では「三井銀行」「千櫻小學」「日本橋憲兵分屯所」が明瞭に確認できます。江戸以来の商業地のすぐそばに、近代銀行、学制発足後の小学校、陸軍の憲兵施設が置かれていた時期の街です。

三井銀行―日本初の民間銀行が置かれた駿河町

日本橋駿河町には「三井銀行」と記されています。三井は第一国立銀行から独立した銀行業を目指し、明治7年(1874)に駿河町へ三階建ての「為換バンク三井組ハウス」を建設しました。明治9年7月、政府の認可を受けて三井銀行が開業し、日本で初めて民間の名称を冠した銀行となりました。

東京都公文書館には、明治16年(1883)5月、東京府知事が「東京府下駿河町五番地三井銀行」に東京府為替方を命じ、金銭の鑑定・納払いを取り扱わせた文書が残っています。1007が描かれたのはその翌年です。明治初期の駿河町では、江戸以来の三井の商業拠点が、府の公金取扱いにも関わる近代銀行の本拠へ変わっていました。

千櫻小学―大火で失われた二校を継いで1882年に開校

神田東松下町には、原図表記で「千櫻小學」と記された学校があります。明治6年(1873)にこの地域で桜池学校が開校し、明治10年には馬喰町に千代田学校が開校しましたが、両校は明治14年の大火で焼失しました。翌明治15年(1882)10月18日、両校の児童を収容し、校名から一字ずつ取って千桜小学校が開設されました。

1007は開校からまだ2年ほどの千桜小学校を記録しています。この一帯は江戸後期、千葉周作ちば・しゅうさくの北辰一刀流玄武館や、漢学者東條一堂とうじょう・いちどうの瑶池塾が置かれた地域でもありました。武芸・漢学の私塾が集まった土地に、明治の公立小学校が引き継がれた形です。千桜小学校は平成5年(1993)に神田小学校などと統合され、現在の千代田区立千代田小学校につながっています。

日本橋憲兵分屯所―憲兵制度発足直後の市中配置

大伝馬町方面には「日本橋憲兵分屯所」と記されています。陸軍憲兵は明治14年(1881)に制度化され、軍事警察だけでなく、行政警察・司法警察の任務も担いました。東京では管区を分けて分屯所が配置され、東京都公文書館の『東京市史稿』にも明治16年(1883)12月の「東京憲兵隊配置」が収録されています。

1007は憲兵制度発足から約3年後の市中配置を直接記録しています。商家や銀行が密集する日本橋・神田の市街地に陸軍の警察機関が置かれていたことは、明治初期の治安機構が警視庁だけで構成されていたわけではないことを示す具体的な例です。

東京府武蔵国日本橋区兜町及京橋区八丁堀近傍

国土地理院 資料番号1008

五千分一東京図測量原図1008 東京府武蔵国日本橋区兜町及京橋区八丁堀近傍
国土地理院所蔵「東京府武蔵国日本橋区兜町及京橋区八丁堀近傍」を加工(周囲の余白をトリミング)

1008は明治17年(1884)7月の図で、兜町から江戸橋・鎧橋、日本橋川・楓川を経て八丁堀方面までを描きます。高精細原図では「第一国立銀行」「東京株式取引所」「第三十二国立銀行」「日本橋電信分局」「駅逓局」「三菱会社倉庫」「阪本小学」「避病院」などを明瞭に確認できます。金融だけでなく、郵便・電信、倉庫、学校、伝染病対策までが水路沿いに集まり、近代都市の機能が短い範囲に凝縮していました。

第一国立銀行―「国立」でも国営ではない、日本最初期の近代銀行

兜町の「第一国立銀行」は明治6年(1873)に開業した銀行です。「国立銀行」は国が直接経営する銀行ではなく、国立銀行条例に基づいて設立された民間銀行でした。アメリカのナショナル・バンク制度を参考にした仕組みで、各銀行には銀行券の発行も認められていました。

第一国立銀行はその第一号で、兜町の海運橋畔に本店を置きました。渋沢栄一しぶさわ・えいいちは創立に深く関わり、のちに頭取を務めます。1008は開業から約11年後で、兜町が金融街として形を整え始めた時期の本店区画を記録しています。

東京株式取引所―開業6年後、兜町に生まれた証券市場

「東京株式取引所」は明治11年(1878)に設立され、同年6月1日に売買立会を始めました。最初の主要な取引対象は株式よりも公債で、年末までに第一国立銀行などの株式も上場しました。1008の明治17年は開業から6年後で、取引所と第一国立銀行が近接して描かれています。この組み合わせが、兜町を現在まで続く証券・金融の街へ変えていきました。

第三十二国立銀行―地方銀行の東京拠点まで集まった金融街

原図には「第三十二国立銀行」もあります。第三十二国立銀行は明治11年(1878)に大阪で設立された国立銀行で、のちに東京支店を置きました。明治初期の国立銀行は全国各地に設けられた民間銀行であり、兜町周辺には東京生まれの銀行だけでなく、地方を本拠とする銀行の東京拠点も進出していました。1008の表記は、兜町が全国規模の金融ネットワークの結節点になりつつあったことを示します。

駅逓局えきていきょく―日本の近代郵便が始まった江戸橋南詰

江戸橋付近の「駅逓局」は、郵便・輸送行政を担当した官庁です。この場所では明治4年(1871)、駅逓司と東京郵便役所が置かれて新式郵便業務が始まりました。駅逓司は駅逓寮を経て駅逓局となり、明治17年当時も郵便行政の中心でした。

明治18年(1885)には駅逓局と電信行政などが新設の逓信省へ引き継がれます。1008はその前年で、郵便を担う駅逓局と電信施設がまだ別々の名称で地図に並んでいた時期を記録しています。

日本橋電信分局―1884年にも使われていた市中電信の窓口

日本橋川沿いには「日本橋電信分局」があります。明治17年8月の官報にも日本橋電信分局の名称が現れ、留置電報の受取先として実際に機能していたことを確認できます。電話が一般化する前、急ぎの情報を遠隔地へ送る電信は近代都市の重要な通信手段でした。駅逓局と近接する配置から、江戸橋周辺が郵便と電信の双方を扱う情報通信の中心だったことが分かります。

三菱会社倉庫―江戸橋に並んだ煉瓦造の「七つ蔵」

江戸橋の水辺には「三菱会社倉庫」と記された大規模な倉庫区画があります。三菱はこの一帯で船荷を扱い、荷為替金融と結びつけて倉庫業を展開しました。明治13年(1880)には煉瓦造の倉庫群が建てられ、通称「七つ蔵」と呼ばれました。

1008は建設から約4年後の倉庫群を描いています。川沿いに倉庫が長く並ぶ形そのものが、水運で到着した貨物をすぐに荷揚げ・保管できる都市構造を示しています。この倉庫業は、のちの三菱倉庫につながる事業の源流の一つです。

阪本小学―「第一番小学」として始まった学校

兜町の南側には「阪本小学」と大きな校地が描かれています。阪本学校は明治6年(1873)に開校し、中央区の学校系統図では「第一番小学」と位置づけられています。学制発足直後に設けられた地域の小学校で、現在の中央区立阪本小学校へ続きます。1008は開校から約11年後、金融街のすぐそばに公教育の拠点が置かれていたことを記録しています。

避病院ひびょういん―伝染病患者を市中から隔離するための施設

阪本小学の近くには「避病院」と記された施設があります。避病院とは、明治初期にコレラなどの伝染病患者を隔離・治療するために設けられた施設です。東京では明治12年(1879)のコレラ流行を背景に複数の避病院が開かれ、明治13年には東京府が「避病院並伝染病室事務手続」を定めています。

この1008上の避病院を、後世のどの常設病院へ直接つながる施設かまで断定する必要はありません。地図から確実に分かるのは、明治17年の市街地に、一般診療所とは性格の異なる伝染病隔離施設が明記されていたことです。金融・通信・学校と並んで公衆衛生も近代都市の重要な機能になっていました。

4枚を続けて見ると見えてくる日本橋・本所・深川

4図を続けると、明治17年の東京では江戸以来の水路・河岸・橋が都市の骨格として残り、その上に新しい制度と産業が重なっていたことが分かります。1005では旧大名家の邸宅と警察・消防・電信、1006では日本銀行・米商会所・海運会社・工場、1007では商業地に銀行・小学校・憲兵分屯所、1008では国立銀行・株式取引所・駅逓局・電信分局・倉庫・避病院が並びます。

道路中心の現代東京からは見えにくいものの、当時は金融、情報通信、物流、教育、公衆衛生までが水辺の交通網と密接に結び付いていました。五千分一東京図は「江戸の街が消えて明治の街になった」のではなく、江戸の都市基盤を使いながら近代的な銀行、会社、学校、行政機関が入り込んでいく過程を、建物の区画まで含めて記録しています。

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主な参考資料

  • 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
  • 中央区「中央区の沿革・ダイジェスト」「郵便発祥の地」
  • 日本銀行・貨幣博物館「日本銀行と日本橋」「日本貨幣史」
  • 日本取引所グループ「株式取引所開設140周年」「兜町の歴史」
  • 渋沢栄一記念財団「第一国立銀行」「東京米商会所」ほか『渋沢栄一伝記資料』
  • 三菱オフィシャルサイト「三菱倉庫・江戸橋歴史展示ギャラリー」
  • 東京海洋大学「大学の沿革」
  • 品川リフラ「沿革」
  • 金融庁「金融の担い手たち―明治・大正期の実業家」
  • 中央区立小中学校系統図、中央区立有馬小学校・阪本小学校沿革資料
  • 東京都保健医療局「都立病院の沿革」
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ「工部省伺東京府下両国電信分局増地ノ儀」「東京府避病院並伝染病室事務手続仮定」
  • 東京都公文書館『東京市史稿』
  • 千葉県立中央図書館・国立国会図書館レファレンス協同データベース「旧佐倉藩主堀田正倫は東京深川佐賀町に住んだが」
  • 警視庁「本所警察署の概要」、東京消防庁「深川消防署の沿革」
  • 山口県文書館、墨田区立図書館・墨田区文化財資料
  • 愛媛県総合科学博物館研究報告、子規庵「正岡子規について」
  • 回向院「開創」「名所案内」、江東区「御船蔵跡」