「詩人なのか、美術評論家なのか、画家なのか分からない」。瀧口修造(1903–1979)を初めて知ると、まずこの疑問が浮かびます。実際、瀧口は詩を書き、海外の前衛芸術を日本へ紹介し、展覧会を企画し、若い芸術家を支え、50代後半からは自ら線を引き、紙を焼き、絵具を転写して作品をつくりました。一つの肩書きに収まりにくいこと自体が、この人物を理解する入口です。
アーティゾン美術館の「瀧口修造 書くことと描くこと」は、詩、批評、展覧会、作家との交流、造形制作を一続きの活動としてたどる展覧会です。瀧口自身の作品に、関連作家の作品、書籍、案内状、書簡などを組み合わせています。石橋財団が近年収蔵した瀧口作品163点のうち約半数をまとめて公開する、収蔵後初の大規模な機会です。
2026年9月11日にアーティゾン美術館で実際に鑑賞しました。
- 実際に行ってわかったこと|9月11日13:30〜14:30
- この展覧会は何を見る展覧会?
- 瀧口修造とは誰か――詩人・批評家・企画者・造形作家
- シュルレアリスムとは何か――瀧口が日本へ持ち込んだ考え方
- 1941年の検挙――シュルレアリスムが弾圧された時代
- 戦後の美術評論――若い作家が発表する場所までつくる
- 草間彌生・河原温・赤瀬川原平・横尾忠則との接点
- アンドレ・ブルトン、ミロ、デュシャン――海外の前衛とどうつながったか
- なぜ「書く人」が自分で描き始めたのか
- デカルコマニーとは何か
- 瀧口修造の造形作品をどう見ればよいのか
- 「書くことと描くこと」という展覧会タイトルの意味
- 石橋財団の瀧口修造コレクションはどう形成されたか
- 今回の展覧会で特に見ておきたい作品・資料
- 研究機関のアーカイブから見える瀧口修造
- 開催概要
- 参考文献・公式資料
実際に行ってわかったこと|9月11日13:30〜14:30
2026年9月11日は13時30分から14時30分まで、約1時間かけて4・5階を鑑賞しました。この時間帯は展示室内の人が少なく、作品の前で立ち止まって細部を確認できました。瀧口の小さな紙作品や書籍・書簡も落ち着いて見られました。
訪問時は4・5階とも、一部の作品・資料を除いてほぼ写真撮影が可能でした。撮影不可の表示は作品・資料ごとに付けられており、展示室全景、瀧口の造形作品、ミロとの共同制作、関連作家の作品などを記録できました。

5階は「石橋財団コレクション選」から始まります。4・5階の公式作品リストではNo.1〜26にベルト・モリゾ、エドガー・ドガ、クロード・モネ、青木繁、ウンベルト・ボッチョーニ、パブロ・ピカソなどが並び、No.27から「瀧口修造 書くことと描くこと」へ続きます。瀧口の章には、パウル・クレー、ジョアン・ミロ、マルセル・デュシャン、草間彌生、ジャスパー・ジョーンズ、荒川修作、元永定正、ジョゼフ・コーネルなど、瀧口が読んだ、論じた、交流した、支援した作家が現れます。近代美術のコレクションから瀧口の活動史へ連続する展示順が、彼を20世紀美術の中に位置づけています。


約1時間で一通り見られました。書籍、案内状、書簡、雑誌まで細かく読むには、1時間では足りない展示量です。館内のView Deckには長いベンチがあり、訪問時は座席に余裕がありました。壁際にはコンセントも設けられていました。

この展覧会は何を見る展覧会?
展示の核は、瀧口が長く続けた「書く」行為と、1960年頃から本格化した「描く」行為の連続性です。会場には瀧口の水彩、インク、デカルコマニー、バーント・ドローイング、ロトデッサンなどがまとまって並びます。一方で、パウル・クレー、マルセル・デュシャン、ジョアン・ミロ、アンリ・ミショー、福島秀子、山口勝弘、草間彌生ら、瀧口が紹介・批評・交流した作家の作品も組み込まれています。
1930年のブルトン『超現実主義と絵画』、1950年代の実験工房やタケミヤ画廊の印刷物、1960年のスケッチブック、デカルコマニーの連作、ミロとの共作、デュシャンからの書簡までが並びます。書籍、展覧会資料、他作家の作品、瀧口自身の造形作品が一つの活動史として構成されています。
瀧口修造とは誰か――詩人・批評家・企画者・造形作家
瀧口は1903年に富山県で生まれました。1920年代に慶應義塾大学で西脇順三郎の教えを受け、ヨーロッパの新しい詩と芸術に触れます。西脇がロンドン留学から持ち帰ったダダやシュルレアリスムの知識は、瀧口にとって大きな入口になりました。瀧口は1920年代後半から実験的な詩を書き始め、1931年に慶應義塾大学を卒業します。
1930年、27歳の瀧口はアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳出版しました。東京文化財研究所は、この訳書を日本におけるシュルレアリスム美術書の草分けと位置づけています。瀧口は海外の新しい美術を紹介しながら、詩と美術を一つの思想として受け止め、日本語で考え直しました。
詩人としての瀧口は、感情や情景を整った言葉で説明するより、言葉同士の思いがけない結びつきからイメージを生む実験を重ねました。1937年には阿部芳文の絵と組み合わせた詩画集『妖精の距離』を刊行しています。言葉そのものを未知の関係を生む素材として扱った詩作は、後年の造形制作へつながりました。
1938年には『近代藝術』、1939年には『ダリ』、1940年には『ミロ』を刊行します。アーティゾン美術館は『ミロ』を、ジョアン・ミロについての世界初のモノグラフとして紹介しています。戦後は新聞・雑誌で美術批評を行う一方、展覧会の企画や若手作家の紹介にも深く関わり、1960年代以降は自らの造形制作へ比重を移しました。
瀧口の活動には、詩人、美術評論家、展覧会企画者、造形作家という四つの役割が重なっています。言葉と作品、人と人、海外と日本を接続しながら活動した人物です。
シュルレアリスムとは何か――瀧口が日本へ持ち込んだ考え方
シュルレアリスムは、第一次世界大戦後のヨーロッパで文学から始まり、絵画、写真、映画などへ広がった運動です。1924年、詩人アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動の輪郭を明確にしました。夢、無意識、偶然、自由連想を制作に取り込み、思考やイメージが生まれる過程そのものを開こうとしました。
代表的な方法の一つがオートマティスム(自動記述・自動筆記)です。文章を整える前に言葉を書き進めたり、対象を決めずに線を動かしたりして、意識による統制を弱めます。シュルレアリスムは、夢のイメージとともに制作方法そのものを変えようとした運動でした。
瀧口にとってこの点は決定的でした。詩を書くことと絵を描くことは、媒体こそ違っても、あらかじめ決めた意味や形から離れ、未知のものが現れる条件をつくるというところで接続します。後年の瀧口が、意味を伝える批評文から距離を取り、線や転写、焼け跡へ向かった背景には、若い頃から考え続けたシュルレアリスムの問題が残っていました。
1937年「海外超現実主義作品展」が持った意味
日本でシュルレアリスムが広がるうえで大きかったのが、1937年の「海外超現実主義作品展」です。瀧口と山中散生が企画し、東京から京都、大阪、名古屋、金沢へ巡回しました。artscapeの美術用語辞典によれば、マックス・エルンスト、イヴ・タンギー、ミロ、ピカソ、マン・レイ、マグリット、デ・キリコらの水彩、素描、版画、複写写真など計377点が紹介されました。
作品や資料が同時代に近い速度で日本へ届いた点が、この展覧会の大きな意味でした。瀧口は翻訳と展覧会企画の両方を担い、前衛芸術を日本の観客へ紹介しました。1938年には前衛写真協会にも関わり、写真とシュルレアリスムについて論じています。こうした活動が、戦前の若い画家や写真家の前衛意識を刺激しました。
1941年の検挙――シュルレアリスムが弾圧された時代
戦時体制が強まると、前衛芸術は政治的な疑いの対象になりました。1941年4月5日、瀧口は画家福沢一郎とともに検挙され、約7〜8カ月拘束されました。東京文化財研究所の略歴では、その後は起訴猶予になったとされています。
警察はシュルレアリスムと共産主義の結びつきを疑っていました。当時のフランスではブルトンらと左翼政治運動との接点があり、日本でも前衛団体に旧プロレタリア美術運動の出身者がいたためです。artscapeの研究解説では、瀧口と福沢自身について、日本共産党との関係や共産主義への共感とは別の文脈で活動していたと整理しています。表現上の前衛性が政治的危険と結びつけられ、監視と弾圧の対象になった事件でした。
この検挙は、瀧口の経歴と日本の前衛美術史の双方に大きな影響を与えました。彼らを慕っていた若い美術家たちは不安を強め、前衛的な制作・活動も萎縮しました。戦前のシュルレアリスムには、翻訳や展覧会を通じた活発な受容と、国家統制のもとで表現が危険視された現実が併存していました。
戦後の美術評論――若い作家が発表する場所までつくる
戦後の瀧口は、美術評論家として活動の中心に戻ります。1950年から『読売新聞』の美術時評を担当し、1951年に始まった読売アンデパンダン展など同時代の美術を論じました。完成作の評価に加え、まだ評価の定まらない若い作家や新しい表現と同時進行で関わった点に、瀧口の批評活動の特徴があります。
タケミヤ画廊――河原温や草間彌生が発表した小さな画廊
1951年から57年まで神田・駿河台下にあったタケミヤ画廊では、瀧口が作家の選択と斡旋に関わりました。約5年10カ月で208回の個展・グループ展が開かれ、既存の画壇から距離を置く若い作家の発表拠点になりました。そこで展覧会を開いた作家には、河原温、草間彌生、野見山暁治らが含まれ、靉嘔や池田満寿夫らも初期に登場します。
瀧口は文章を書く批評と同時に、誰に発表の場を渡すかという実務にも踏み込みました。既存団体の評価や市場性から距離を置いて若い表現を紹介し、戦後美術の発表基盤を支えました。会場にはタケミヤ画廊の案内状と関連作家の作品が並び、その活動を具体的に確認できます。
実験工房――美術・音楽・照明・文学を横断したグループ
1951年に結成された実験工房では、瀧口が命名と支援に深く関わりました。NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)の資料によると、北代省三、福島秀子、山口勝弘、武満徹、秋山邦晴らが集まり、最初の発表を行う際に、瀧口の提案で「実験工房」という名称が採用されました。瀧口の役割は、若い作家たちの実験を言葉と企画の面から支えることでした。
実験工房は美術、音楽、照明、舞台、文学を組み合わせ、既存ジャンルの境界を越える作品を発表しました。今回の出品リストには1952年の第2回発表会、1953年の第5回発表会などのリーフレットや、1957年に瀧口と実験工房メンバーが斎藤義重を訪ねた写真も含まれています。
草間彌生・河原温・赤瀬川原平・横尾忠則との接点
瀧口と若い作家との関係は、作家ごとに形が異なります。草間彌生と河原温は、タケミヤ画廊という発表の場を介して瀧口と接点を持ちました。今回の展覧会では草間の《無題(無限の網)》(1962年頃)も展示され、1950〜60年代の瀧口の活動と、その後に国際的な評価を得る作家たちの歩みが重なります。

公式作品リストには、元永定正の《無題》(1965年)に続いて、元永から瀧口へ宛てた1963年7月23日付の書簡も掲載されています。作品と書簡が近くに置かれ、瀧口と戦後美術家との関係に具体的な往来や通信があったことを伝えます。

赤瀬川原平との関係は、1960年代の「千円札裁判」で具体的になります。赤瀬川が原寸大の千円札を片面印刷した作品などをめぐって起訴された際、瀧口は特別弁護人を引き受けました。府中市美術館の資料によれば、美術家や評論家が法廷で作品の意味を説明し、有罪判決は1970年に最高裁で確定しました。瀧口は作品紹介から法廷での支援まで踏み込み、「何が芸術か」が争われた場で赤瀬川を支えました。
横尾忠則との接点は、1967年の横浜市民ギャラリー「今日の作家’67年展」で確認できます。横尾は出品作家、瀧口は開催委員でした。草間や河原とは関係の場面が異なり、作家ごとの接点を具体的に追うことで瀧口の活動範囲が見えてきます。
アンドレ・ブルトン、ミロ、デュシャン――海外の前衛とどうつながったか
瀧口は若い頃からアンドレ・ブルトンの文章を読み、1930年に『超現実主義と絵画』を訳しました。慶應義塾大学の研究資料によれば、二人の精神的・書簡上の交流は1920年代末から続き、戦争による中断を挟みながら、実際に対面したのは1958年のパリでの一度でした。瀧口にとってブルトンは、遠隔地から長く対話を続けたシュルレアリスムの中心人物でした。
1958年、瀧口はヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表・国際審査員として初めてヨーロッパへ渡ります。慶應義塾大学アート・センターの研究では、4カ月以上の旅でブルトンに会い、サルバドール・ダリのもとでマルセル・デュシャンと出会い、各地で現代美術やクレーの作品を見ました。瀧口がこの旅で撮影した写真は約1,200点が残され、現在は慶應義塾大学アート・センターに所蔵されています。
ジョアン・ミロとは1952年から書簡を交わし、1966年のミロ来日時に初めて対面しました。その後、瀧口の言葉とミロの造形が組み合わされた《手づくり諺―ジョアン・ミロに》(1970年)や《ミロの星とともに》(1978年)へ発展します。2026年には両者の未発表書簡を含む『瀧口修造/ジュアン・ミロ書簡集』も刊行され、共同制作の過程を研究できる資料が整いました。

デュシャンとの関係も晩年まで続きました。会場には1959年12月11日付のデュシャンから瀧口への書簡と、1968年の《マルセル・デュシャン語録》が出品されています。瀧口はデュシャンの言葉そのものを、作品になり得るものとして扱いました。
なぜ「書く人」が自分で描き始めたのか
瀧口が造形制作を本格化させるのは1960年頃です。造形への関心は1930年代後半から続いていました。アーティゾン美術館の調査では、この時期にすでに自動的な線描やデカルコマニーを試しています。その後は評論や紹介へ比重を置き、1950年代末に再び「自分でつくること」へ戻ります。
転機の一つは、美術を外側から説明する批評への疑問でした。瀧口は1959年の自作年譜に、ジャーナリスティックな評論を書くことに障害を感じ始め、制作の動機に触れない批評に疑問を持ったことを記しています。さらに1958年の欧州旅行で、ブルトン、デュシャン、ミショーらと直接会い、クレーやフォンタナ、マーク・トビーなどの作品に接しました。
1960年3月、瀧口は文字を書くために使っていた万年筆で、スケッチブックに線を引き始めます。文字にも具体物にも対応しない線を、瀧口は「デッサン」と呼びました。線を引くうちに予想外の形が立ち上がる過程そのものを試す制作です。同年10月、南天子画廊で第1回個展「私の画帖から」を開きます。
デカルコマニーとは何か
デカルコマニーは「転写」を利用する技法です。絵具やインクを面に置き、乾く前に別の紙や板などを押し当て、はがすことで予測しにくい模様を生みます。ニューヨーク近代美術館(MoMA)は、濡れた絵具などを別の面に接触させて模様を転写する技法と説明しています。シュルレアリストは、圧力、粘度、紙の状態、はがす瞬間などの偶然を制作に取り込みました。
今回の出品リストには、1961年から1971年頃までのデカルコマニーが多数並びます。黒艶紙を使ったもの、デカルコマニーとバーント・ドローイングを組み合わせたもの、紙を四角錐状のオブジェにしたものまであります。瀧口はこの技法を、偶然を作品へ取り込む実験として繰り返しました。

バーント・ドローイングとロトデッサン
瀧口は紙に線を描く以外にも技法を広げました。バーント・ドローイングでは、燃焼や熱による焦げ・穴・変色を痕跡として使います。ロトデッサンでは回転を利用して線や痕跡を生みます。水彩、インク、吸取紙、黒艶紙、コラージュなども併用され、作品は「筆で絵を描く」という一種類の行為から離れていきます。
瀧口修造の造形作品をどう見ればよいのか
瀧口の造形作品では、線、転写、焼け跡など制作の痕跡そのものが大きな要素になります。線がどこから始まり、どこで切れたか。絵具が押しつぶされ、はがされた跡がどう残ったか。紙が焼けた部分と残った部分がどう並ぶか。こうした痕跡から、制作の動作と時間を追えます。
デカルコマニーでは、偶然と作者の判断が同時に働きます。模様そのものには偶然が入り、紙の選択、絵具を置く位置、残す結果には作者の判断が入ります。この両者を組み合わせる考え方は、オートマティスムから続くシュルレアリスムの実験とつながります。
会場では、瀧口の作品がクレー、ミショー、フォンタナ、ミロ、デュシャン、実験工房の作家たちと並びます。瀧口が批評し、見て、会い、手紙を交わした相手との関係をたどると、線や言葉や「もの」への考え方がどう変化したのかが具体的に見えてきます。
「書くことと描くこと」という展覧会タイトルの意味
展覧会タイトルは、瀧口の「書く」と「描く」を連続した行為として捉えています。アーティゾン美術館は、瀧口自身が当時の文章で、二つの行為に自然な連続性があると考えていたことを展覧会の核にしています。
詩では、言葉は意味を伝える道具であると同時に、音や配置や連想を生む素材になります。批評では、他者の作品を言葉によって捉えます。1960年以降の「デッサン」では、万年筆が文字を書く道具から線を生む道具へ変わります。デカルコマニーや焼け跡では、転写や燃焼といった現象も制作に加わります。
展覧会は「書く」と「描く」を一続きの実験として扱います。意味が生まれる直前の線、言葉が物になる瞬間、他者とのやり取りが作品へ変わる過程を、瀧口の生涯に沿ってたどります。
石橋財団の瀧口修造コレクションはどう形成されたか
アーティゾン美術館の前身、ブリヂストン美術館は1952年に開館しました。これは瀧口が新聞批評、読売アンデパンダン展、タケミヤ画廊、実験工房などに活発に関わっていた時期と重なります。同館のコレクションには、セザンヌ、ピカソ、クレー、ミロなど、瀧口が論じたり紹介したりした作家の作品がすでに含まれていました。
2020年に館名をアーティゾン美術館へ改めた前後から、石橋財団は従来の印象派・日本近代洋画を核としつつ、20世紀初頭から現代までの作品へ収集範囲を広げています。2021年の「STEPS AHEAD 新収蔵作品展示」では、瀧口修造と実験工房を含む新収蔵品が大きく紹介されました。
石橋財団はその後も瀧口作品を相次いで収蔵し、現在は他作家との共作を含め163点を所蔵します。生前の主要展に出品された作品や、交流した作家に贈られた作品も含まれます。今回の図録『石橋財団コレクション 瀧口修造』には、財団所蔵163点すべての基本情報と画像が収録されました。
瀧口作品の収蔵によって、石橋財団のセザンヌ、ピカソ、クレー、ミロ、戦後日本の前衛作家が、批評、紹介、交流という線でも結ばれます。作品の年代順に加え、「誰が誰を見て、言葉を送り、次の表現を促したか」という関係史からコレクションを読み直せるようになりました。
今回の展覧会で特に見ておきたい作品・資料
出品リストには、造形作品とともに、1930年刊のブルトン『超現実主義と絵画』瀧口訳、1938年の『近代藝術』、1940年の『ミロ』、1950年代の実験工房リーフレット、1951〜57年のタケミヤ画廊案内状、1960年7月のスケッチブックなどが並びます。瀧口の著作、企画、交流、制作を同じ流れで追える構成です。
4・5階の公式作品リストを年代の流れとして読むと、1960年7月の《瀧口修造のスケッチブック No.27》から、デッサン、ロトデッサン、バーント・ドローイング、1960〜70年代のデカルコマニーへと制作が展開し、1971年の《私の心臓は時を刻む》へ続きます。その先にはミロとの《手づくり諺―ジョアン・ミロに》《ミロの星とともに》、デュシャン関係の書籍と書簡、福島秀子との共作、実験工房メンバーとの写真、元永定正の作品と書簡、ブルトンとの写真、晩年と没後の特集誌までが並びます。作品リスト自体が、瀧口の「書く・見る・会う・つくる」を一続きにたどる年表の役割を果たしています。

造形作品では、1960年前後の水彩・インクによる「デッサン」、1962年頃のバーント・ドローイング、1960年代から70年代にかけてのデカルコマニー、1971年のロトデッサンなど、技法の変化を追えます。《私の心臓は時を刻む》(1971年)はデカルコマニーで、同名の1962年個展資料とあわせて見ると、言葉と造形が相互に行き来する瀧口らしさがよく表れます。
ミロとの《手づくり諺―ジョアン・ミロに》(1970年)、《ミロの星とともに》(1978年)、1968年の《マルセル・デュシャン語録》、1959年のデュシャン書簡も重要です。瀧口の後半生では、作品は一人で完結するものから、言葉、書簡、共同制作、贈与といった「他者とのやり取り」を含むものへ広がりました。
アーティゾン美術館が公式に強調している「初公開」は、近年収蔵した瀧口作品163点のうち約半数を、瀧口を中心とする企画で一挙に公開する初の機会という意味です。会場には慶應義塾大学アート・センター所蔵のスケッチブック、書簡、印刷物なども加わり、石橋財団の造形作品と研究資料を組み合わせて瀧口の活動全体をたどれる構成になっています。
研究機関のアーカイブから見える瀧口修造
瀧口研究では、美術館の所蔵作品と大学アーカイブの両方が重要です。慶應義塾ミュージアム・コモンズ/慶應義塾大学アート・センターの「瀧口修造コレクション」は、1936〜1979年の資料群で、書簡3,538件を含む総計6,609件を所管しています。草稿、写真、催事印刷物、手づくり本、書籍などが残り、批評家・企画者・造形作家としての仕事を横断的に追えます。
多摩美術大学アートアーカイヴセンターの「瀧口修造文庫」は、旧蔵書、雑誌、ポスター、写真、スケッチブック31冊、デカルコマニー等36点など約1万点を所蔵し、ダダ・シュルレアリスム関係文献約1,700冊も公開しています。富山県美術館にも瀧口修造コレクションがあり、故郷・富山との関係や西脇順三郎、ミロ、岡崎和郎らとのつながりを継続的に紹介しています。
会場の終盤には、瀧口を特集した1974年・1979年の『現代詩手帖』や、没後の『みすず』追悼号なども展示されています。造形作品とあわせて、詩と批評の領域で瀧口がどのように読まれ続けたのかを追えます。

本人の書簡、草稿、展覧会資料、作品、蔵書を突き合わせると、誰といつ接点があり、どの仕事にどう関わったのかを具体的に検証できます。今回の展覧会は、こうした研究蓄積を展示へ戻す場にもなっています。
開催概要
| 展覧会名 | 瀧口修造 書くことと描くこと |
|---|---|
| 会期 | 2026年6月23日(火)〜10月4日(日) |
| 会場 | アーティゾン美術館 5・4階展示室 |
| 開館時間 | 10:00〜18:00(金曜日は20:00まで、入館は閉館30分前まで) |
| 休館日 | 月曜日(7月20日、9月21日は開館)、7月21日、9月24日 |
| 一般料金 | ウェブ予約1,200円、窓口1,500円 |
| 学生 | 大学生・専門学校生・高校生は無料(ウェブ予約が必要) |
| 中学生以下 | 無料・予約不要 |
| 訪問日 | 2026年9月11日 |
| 訪問時間 | 13:30〜14:30(約1時間) |
| 訪問時の混雑 | 人は少なく、ゆっくり鑑賞できました |
| 撮影 | 4・5階は一部を除き、ほぼ撮影可能でした(訪問時) |
6階では「エットレ・ソットサス―魔法がはじまるとき、デザインは生まれる」が同時開催されています。最新の料金・開館情報はアーティゾン美術館の公式展覧会ページに掲載されています。
参考文献・公式資料
- アーティゾン美術館「瀧口修造 書くことと描くこと」スペシャルサイト
- アーティゾン美術館「見どころ」
- アーティゾン美術館「展覧会構成」
- アーティゾン美術館「出品作品リスト」
- アーティゾン美術館「石橋財団コレクション選/瀧口修造 書くことと描くこと」4・5階作品リスト
- 東京文化財研究所「瀧口修造」東文研アーカイブデータベース
- 慶應義塾ミュージアム・コモンズ「瀧口修造コレクション」
- 慶應義塾大学アート・センター編『瀧口修造1958 旅する眼差し』
- 『瀧口修造/ジュアン・ミロ書簡集』慶應義塾大学出版会
- 多摩美術大学アートアーカイヴセンター「瀧口修造文庫」
- NTTインターコミュニケーション・センター「実験工房」
- artscape「海外超現実主義作品展」
- artscape「福沢一郎・瀧口修造の拘留」
- artscape「タケミヤ画廊と瀧口修造」
- 府中市美術館「千円札印刷作品(4タイプ)」
- 横浜市民ギャラリー「今日の作家’67年展」
- メトロポリタン美術館「Surrealism」
- ニューヨーク近代美術館「Oscar Domínguez, Untitled, 1936–37」
20世紀美術を別の角度から見る展覧会として、当サイトの「ピカソ meets ポール・スミス」展の解説もあわせて読むと、瀧口が紹介・批評した時代の前衛美術がより立体的に見えてきます。

