六本木・アメリカ大使館職員宿舎の歴史|南部坂・三井今井町邸から現在まで

六本木二丁目のアメリカ大使館職員宿舎外観

六本木二丁目、南部坂の西側に広がるアメリカ大使館職員宿舎は、米国政府が使う住宅施設です。白い高層棟とタウンハウスが並ぶ現在の姿の下には、江戸の大名屋敷、明治政府の科学観測地、三井総領家の本邸、戦災後の焼け跡、戦後モダニズムの集合住宅という幾層もの歴史が重なっています。

現在も米国政府資料では「Mitsui Housing Compound」と呼ばれています。三井家がこの土地を離れて久しい現在まで、「Mitsui」の名が施設名に残りました。周辺一帯の地形や町の変化は「六本木2〜4丁目の歴史散歩」でも紹介しています。

南部坂の名に残る江戸前期の南部家

宿舎の東側、赤坂二丁目と六本木二丁目の境を下る坂が南部坂です。港区は、江戸時代前期にこの付近に盛岡藩南部家の中屋敷があったことを坂名の由来としています。

南部家の屋敷が移った後も坂名は残りました。土地の持ち主が変わっても地名だけが前の時代を伝える、江戸東京らしい例です。

幕末の南部坂には真田家の屋敷があった

長野市誌によると、松代藩真田家は享保17年(1732)に「麻布南部坂」の屋敷を中屋敷として使用し、寛政9年(1797)には下屋敷としていました。安政2年(1855)の記録でも、赤坂南部坂に4,870坪の下屋敷を持っていたことが確認できます。

幕末の切絵図では、現在の宿舎を含む周辺に「真田信濃守」「相馬大膳亮」などの屋敷が描かれています。現在の宿舎敷地は広いため、江戸期の一つの大名屋敷とそのまま重なる形ではなく、複数の武家地を含む一帯が明治以降に再編されました。

1851年の麻布絵図に描かれた六本木2丁目周辺の武家屋敷と町
嘉永4年(1851)の「麻布絵図」。現在の六本木周辺には武家屋敷と町地が入り組んでいました。戸松昌訓/国立国会図書館デジタルコレクション/Wikimedia Commons/Public Domain

1883年、今井町42番地に「磁気試験所」が置かれた

明治になると、この丘は近代科学の舞台になります。気象庁『気象百五十年史』によると、明治16年(1883)3月、内務省地理局と工部省電信局が、工部省用地だった麻布今井町42番地に「磁気試験所」を設置しました。

気象庁はその場所を「現東京都港区六本木2丁目1番地のアメリカ大使館職員宿舎用地のある小高い丘」と特定しています。ここで地磁気3成分の観測が行われ、観測業務は東京気象台、のちの中央気象台へ引き継がれました。

武家屋敷だった台地が、明治政府による近代的な観測拠点へ変わった時期です。今井町周辺には工部省関係の施設や外国人技師の活動もみられ、東京が近代技術を取り込んでいく過程と重なります。

1903年から築かれた三井今井町本邸

明治36年(1903)、三井総領家第10代当主の三井高棟みつい たかみねは今井町で本邸の建設を始めました。約5年をかけて整えられた今井町邸は、敷地約1万3,500坪、周辺の役宅まで含めると1万6,000坪を超える規模でした。高棟自身は明治39年(1906)に麹町から今井町へ移っています。

邸内には応接間、大書院、小書院、能舞台、庭園、テニスコートなどが設けられました。建築研究では、接客空間、高棟夫妻の生活空間、使用人や事務部門が機能ごとに分けられていたことが確認されています。

三井財閥の総領家が暮らす場所であると同時に、政財界や海外の賓客を迎える社交空間でもありました。能舞台は高棟自身の稽古にも使われ、来客をもてなす場としても機能しました。

国宝「如庵」が六本木にあった

明治41年(1908)、茶人の織田有楽斎おだ うらくさいゆかりの茶室「如庵」と書院、露地が今井町邸へ移築されました。高棟は表千家に学んだ茶人でもあり、昭和3年(1928)には如庵を披いて茶会を開いています。

如庵は昭和11年(1936)に国宝指定を受け、その後、高棟の大磯・城山荘へ移されました。三井広報委員会の資料では昭和13年(1938)に移築完了とされます。今井町邸は1945年の空襲で焼失しましたが、如庵は六本木を離れていたため戦災を免れました。現在は愛知県犬山市に伝わっています。

1922年、英国皇太子エドワードを迎えた夜

大正11年(1922)4月21日、英国皇太子エドワードが今井町邸を訪れました。前年に英国を訪れた裕仁皇太子への答礼訪日の一環で、宮内省から三井家へ饗応の依頼がありました。

三井文庫に残る「英国皇儲殿下歓迎晩餐会関係書類」には、晩餐会の次第、招待者、献立、係員の役割、能「紅葉狩」の英訳草稿や五線譜まで残されています。準備には延べ1万6,500人の職工が動員され、敷地内には約200坪の饗宴場が新築されました。

晩餐後、皇太子は能「紅葉狩」を鑑賞しました。六本木の三井邸は、民間財閥の本邸でありながら国際的な接遇の舞台にもなっていました。

翌1923年、邸内に震災被災者の応急住宅が建った

大正12年(1923)9月1日の関東大震災では、三井家が今井町本邸と周辺所有地約400坪を開放し、被災者向けの応急住宅を建設しました。港区資料によると入居者は145人で、三井家へ贈られた感謝状絵には本邸の正門とバラックが描かれています。

前年には英国皇太子を迎えた饗宴場があり、その翌年には被災者の生活を支える場所となりました。東京都公文書館にも「麻布今井町三井邸罹災者収容バラック」の記録が残っています。

1938年の崖崩れと、台地上の大邸宅

昭和13年(1938)6月30日、豪雨のなかで三井邸側の崖が崩れ、崖下の住宅地に大きな被害が出ました。港区の地域資料には、住宅が土砂にのみ込まれ、多数の死傷者が出た記録と住民証言が残っています。

今井町邸は高台に広がっていました。現在の宿舎も同じ台地を占めています。南部坂や周囲の急坂を歩くと、広い邸宅地を載せた高台と、その縁を落ちる急斜面という地形が現在も分かります。

1945年5月25日、今井町邸が焼失した

昭和20年(1945)5月25日の空襲で、今井町邸は土蔵の一部を残して焼失しました。美術品や書類も多く失われ、明治以来の巨大邸宅は姿を消します。

戦後しばらく、旧三井邸跡には戦災の痕跡が残りました。1949年7月13日付の米軍関係文書には「Survey of Mitsui Imaicho Property」という調査記録があり、米国側が土地取得の前年に旧三井今井町邸を具体的な不動産として調査していたことが分かります。

1950年3月、米国が旧三井家の土地を取得

1951年5月12日の連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の発表は、宿舎建設地を「旧三井家所有の11エーカーの土地」とし、米国が1950年3月に取得したと記録しています。戦争で破壊された三井邸の廃墟を撤去し、新しい住宅施設を建設する計画でした。

後年の米国会計検査院(GAO)報告では、1950年に約12エーカーを約12万2,000ドルで購入し、1952年に開発したとされています。SCAP発表の11エーカーとGAO報告の12エーカーには差がありますが、1950年の取得と1952年前後の宿舎整備という流れは両資料で一致します。

レーモンドとラドーが設計した戦後の宿舎

初期の宿舎設計を担ったのは、アントニン・レーモンドあんとにん・れーもんどとL・L・ラドーの建築事務所でした。SCAPの1951年発表では、8階建て集合住宅、平屋住宅6棟、使用人宿舎、ガレージなどを建設し、1952年秋の完成を予定していました。

のちの米国建築誌は、Perry HouseとHarris Houseを1951年にレーモンドが設計した建物として紹介しています。大きなピクチャーウインドウとエレベーターを備えた鉄筋コンクリート造の集合住宅で、戦後日本の住宅建築のなかでも新しい表現を持つ建物でした。

1965年にはGrew Houseも加わりました。Perry、Harris、Grewの名称は、その後1980年代に建て替えられた現在の3棟のタワーにも継承されています。ペリー、ハリス、グルーという名称は、幕末から昭和にかけての日米外交史に関わる人物名です。

1983年、ハリー・ウィーズの現宿舎が完成

約30年使われた旧宿舎は、1980年代初頭に全面再開発されました。新しい施設の意匠設計を担当したのが、米国の建築家ハリー・ウィーズはりー・うぃーずです。1980年の建築専門誌には、Perry Tower、Harris Tower、Grew Tower、Temple Townhouses、Mitsui Townhousesなどを配した計画図が掲載されています。

当初は約200戸への拡張が構想されましたが、周辺住宅への日影などをめぐる調整で規模が縮小されました。1984年の『Architecture』誌によると、完成した住宅は173戸。14階建ての3タワーに131戸、Temple Townhouseに28戸、Mitsui Townhouseに14戸が配置されています。

高層棟の住戸にはメゾネット形式が多く採用され、白い外壁を黒い目地が区切る外観が建物群をまとめています。地下や低層部にはコミサリー、デイケア、図書館などの共用機能も組み込まれました。

六本木二丁目のアメリカ大使館職員宿舎の白い外壁と建物群
六本木二丁目のアメリカ大使館職員宿舎。白い外壁と黒いラインが現在の建物群の特徴です。2026年撮影。

施設は1983年3月に完成しました。施工した大林組の社史では、Harry Weese & Associatesが意匠設計を担当し、木村俊彦構造設計事務所、森村協同設計事務所、大林組が日本側で設計・施工に関わったことが記録されています。

現地を歩いた記録と現在の外観写真は「クラシックと坂道を楽しむ六本木ナイトウォーク」にも掲載しています。

バブル期、敷地は33億ドルと評価された

東京の地価が高騰した時代、この土地は米国政府内でも大きな資産として注目されました。GAO報告によると、敷地の評価額は1988年に21億ドル、1991年には33億ドルに達しました。

1991年には未開発部分の売却案が検討され、約7億5,000万ドルの収入を見込む構想も作られました。米国大使館側は将来の利用余地や職員の生活環境などを理由に売却へ反対し、大規模な売却は実現しませんでした。

現在も残る「Mitsui」の名

米国政府の現行資料では、この施設は現在も「Mitsui Housing Compound(MHC)」と呼ばれています。敷地内にはPerry、Harris、Grewの3タワー、Temple Townhouses、Mitsui Townhousesなどが置かれています。

南部坂という江戸前期の名前、真田家の南部坂屋敷、明治の磁気試験所、三井今井町本邸、Perry・Harris・Grewという日米外交史の人物名、そして現在の「Mitsui」。一つの丘に残った名称をたどるだけでも、土地の用途が何度も大きく変わった歴史を追えます。

六本木全体の土地利用や坂、武家屋敷、再開発まで続けて歩く場合は、六本木の歴史総合ガイドと六本木2〜4丁目の歴史散歩もあわせて参照できます。

参考資料