1965年夏、東京湾岸の夢の島から大量のハエが市街地へ飛びました。学校では給食時にもハエたたきが必要となり、家庭や商店では殺虫剤を買い続ける日々が続きます。東京都は地上から消毒を行い、さらにヘリコプターからも殺虫剤を散布しました。
大量発生は続きました。発生源の夢の島には、高さ約20m、幅約270mに及ぶ生ごみの断崖ができていました。長年の薬剤散布によって、イエバエの一部はDDTに標準系統の770倍以上という強い抵抗性を持っていました。
7月16日、警察・消防・自衛隊も加わり、ごみへ重油をまいて焼く「夢の島焦土作戦」が始まります。この事件は、東京が生ごみを露出したまま大量に埋め立てる方法の限界を突きつけ、その後の衛生埋立や覆土へ転換する契機の一つになりました。
夢の島は東京のごみを受け入れる巨大な埋立地だった
現在の夢の島公園一帯は、かつて東京湾の14号地と呼ばれたごみ埋立地でした。東京都環境局によると、埋立は1957年度から1966年度まで続き、面積は45万平方メートル、埋立量は約1,034万トンに達しました。
当時の東京では清掃工場の処理能力がごみの増加に追いつかず、生ごみを含む未焼却ごみが大量に埋立地へ運ばれていました。夢の島公園の公式資料では、東京のごみの約7割が江東区へ集まり、1日約5,000台のごみ収集車が往来したとされています。
収集車の集中は渋滞や交通事故を生み、ごみや汚汁の飛散、悪臭も周辺住民を苦しめました。埋立地では生ごみが発酵・分解し、ガスによる自然発火、ハエ、ネズミの発生が常態化していました。
1965年6月末、大量のイエバエが発生した
国立予防衛生研究所の研究によると、夢の島周辺でイエバエの大発生が深刻化したのは1965年6月下旬から7月にかけてです。7月16日には強い南風が吹き、大量のハエが江東区南西部を中心とする市街地へ飛来しました。
発生源には、高さ約20m、幅約270mの生ごみの断崖が露出していました。食品残さが大量に積み上がり、夏の高温の中でハエが繁殖する巨大な環境になっていました。
当時の衛生研究では、夢の島と約2km離れた南砂町で採集したイエバエについて、各種殺虫剤への抵抗性パターンがほぼ一致しています。研究者は、夢の島から南砂町へハエが大量に移動したという見方を支持する結果と考えました。
学校では給食時にもハエたたきが必要になった
環境省の循環型社会白書には、夢の島周辺の小学校で給食時にもハエたたきが必要な状態になったことが記録されています。
1965年9月の『保健婦雑誌』には、南砂町でハエによって日常生活が困難になり、学校が午後の授業を打ち切った例も記されています。家庭では一日に約300円、食料品店では500~600円ほどを殺虫剤に費やす例が紹介されました。
当時と現在では物価体系が異なります。殺虫剤は臨時の出費を超え、毎日の生活費に食い込むほど使われていました。
ヘリコプターで殺虫剤をまいても止まらなかった
東京都は地上から薬剤を散布し、さらにヘリコプターから殺虫剤をまきました。ところが大量発生は簡単には収まりませんでした。
翌1966年、国立予防衛生研究所の安富和男は、夢の島と南砂町で採集したイエバエを使い、殺虫剤への感受性を詳しく調べています。
DDTへの抵抗性は標準系統の770倍以上
夢の島・南砂町のイエバエは、DDT、γ-BHC、マラソン、ダイアジノンなどに強い抵抗性を示しました。WHO標準系統と比べたDDTの抵抗性比は770倍以上、マラソンは約77~84倍、ダイアジノンも約32~46倍でした。
夢の島では長年、DDTやBHC、その後はダイアジノンやマラソンなどが繰り返し散布されていました。薬剤に弱い個体が死に、耐えられる個体が繁殖する選択が重なり、強い抵抗性を持つ集団が形成されたと研究者は考えました。
DDVP、フェンチオン、フェニトロチオンなど、比較的効果を保っていた薬剤もありました。大量発生の背景には、生ごみの巨大な繁殖源と、一部薬剤への強い抵抗性が同時に存在していました。
7月16日、「夢の島焦土作戦」が始まった
地上と空からの薬剤散布で抑えきれず、東京都は発生源そのものを短期間で処理する非常措置へ進みます。
1965年7月16日、「夢の島焦土作戦本部」が設けられました。警察、消防、自衛隊の協力を得て、ごみに重油をまき、埋立地東側のごみを焼却しました。
強い南風で大量のハエが市街地へ飛来した同じ日に、行政は埋立地を焼く作戦へ踏み切っています。焦土作戦は、露出した巨大な生ごみの発生源を直接減らす緊急措置でした。
秋にはネズミ対策で2万個の毒餌を投入した
夢の島では同じ1965年11月、ネズミを減らすため約2万個の毒餌を使った駆除作戦が行われました。
生ごみが露出する埋立方法は、ハエには産卵場所を、ネズミには餌を提供していました。害虫や害獣を個別に駆除しても、生ごみが露出した発生源は残り続けました。
事件後、ごみの上に土をかぶせる「衛生埋立」へ
夢の島事件の大きな変化は、焦土作戦の後に現れました。国立環境研究所は、1965年の夢の島でのハエ大量発生を契機として、ごみに土をかぶせる衛生埋立が本格的に導入されたと説明しています。
ごみの表面を土砂で覆うことを覆土といいます。ごみの飛散、悪臭、衛生害虫やネズミの繁殖、火災などを抑える働きがあります。
若洲では「3mのごみ+50cmの土」
夢の島に続いて1965年度から埋立が始まった15号地、現在の若洲では、約3mのごみ層の上へ約50cmの土をかぶせ、さらにその上へごみを積む「サンドイッチ工法」が採用されました。
ハエを殺し続ける発想から、ハエがごみに到達しにくく、繁殖しにくい埋立構造へ変える発想です。夢の島の失敗は、東京のごみ処理技術そのものを変える材料になりました。
薬剤による防除に加えて環境そのものを改変する対策は、甲府盆地でミヤイリガイの生息環境を水路のコンクリート化によって変えた「山梨県はどうやって『地方病』を終息させたのか」とも共通する発想があります。
1967年、国会で「ハエは公害なのか」が議論された
夢の島のハエは清掃行政を揺さぶり、「公害」という言葉の範囲まで問い直しました。
1967年、公害基本法の審議で、夢の島から飛んでくるハエを公害に含めるのかという趣旨の質問が出ています。政府側は、ハエの飛来は東京都が対処すべき虫害だと認めつつ、公害基本法が定義する公害には含まれないと答えました。一方、夢の島の悪臭は法案上の「悪臭」に含まれると説明しています。
答弁では、対策としてごみに土をかぶせる覆土が進められていることも説明されました。1965年の衛生問題が、1967年には国会で公害概念と埋立方法の双方から議論されていたことになります。
夢の島の問題は1971年の「東京ごみ戦争」へ続いた
夢の島は1966年度に埋立地としての役割を終えました。しかし、東京のごみが江東区へ集中する構造は続きます。
次の主要埋立地となった15号地、現在の若洲では1965年度から1974年度まで約1,844万トンが埋め立てられました。江東区にはその後も大量のごみ収集車が入り、清掃工場建設の遅れや埋立期間延長への不満が積み重なります。
1971年、江東区と東京都、他区を巻き込む「東京ごみ戦争」が表面化しました。1965年のハエ事件から6年後の出来事です。両者の背景には、東京のごみ処理負担が江東区へ集中していた構造がありました。
ごみ1,034万トンの島は公園になった
夢の島の埋立は1966年度で終了し、その後整備が進みました。1978年には夢の島公園が開園し、現在は陸上競技場、熱帯植物館、第五福竜丸展示館、マリーナなどがある緑地になっています。

現在の公園の地下には、1957年度から1966年度までに埋め立てられた約1,034万トンのごみがあります。1965年の夏に都市を覆ったハエの災害は、地表からはほとんど見えなくなりました。
都市の衛生問題を行政がどう制御してきたかという点では、犬の登録と予防注射、野犬対策を組み合わせた「日本から狂犬病が消えるまで」や、行政が流行を経験しながら対策を体系化した「1918年スペインかぜ、日本政府は何をしていたのか」もあわせて読むと、日本の公衆衛生政策の変化を比較できます。
夢の島ハエ大発生事件の重要年表
| 年・月 | 出来事 |
|---|---|
| 1957年度 | 14号地・夢の島でごみ埋立開始 |
| 1965年6月下旬 | 夢の島周辺でイエバエ大発生が深刻化 |
| 1965年7月16日 | 強い南風で大量のハエが市街地へ飛来。夢の島焦土作戦本部を設置 |
| 1965年夏 | 地上・ヘリコプターから殺虫剤を散布 |
| 1965年11月 | 約2万個の毒餌を使ったネズミ駆除 |
| 1965年度 | 15号地・若洲でサンドイッチ工法を採用 |
| 1966年 | 安富和男が夢の島・南砂町のイエバエの殺虫剤抵抗性を報告 |
| 1966年度 | 夢の島のごみ埋立終了。埋立量約1,034万トン |
| 1967年 | 国会の公害基本法審議で「夢の島のハエ」が議論される |
| 1971年 | 江東区のごみ処理負担を背景に東京ごみ戦争が表面化 |
| 1978年 | 夢の島公園開園 |
よくある質問
夢の島ではなぜハエが大量発生したのですか?
生ごみを含む未焼却ごみが露出した状態で大量に埋め立てられ、夏の高温下でイエバエの巨大な繁殖源になったためです。長年の薬剤散布によって、一部の殺虫剤に強い抵抗性を持つハエが形成されていたことも研究で確認されています。
焦土作戦では何をしたのですか?
1965年7月16日に警察、消防、自衛隊などが協力し、夢の島のごみに重油をまいて焼却しました。薬剤散布で収まらない大量発生に対し、発生源を直接処理する緊急措置でした。
夢の島事件の後、ごみ処理はどう変わりましたか?
ごみを露出したまま積み上げる方法から、一定のごみ層ごとに土をかぶせる衛生埋立へ移りました。若洲では約3mのごみに約50cmの土を挟むサンドイッチ工法が採用されました。
夢の島は今もごみでできているのですか?
現在の夢の島公園一帯は、かつての14号地ごみ埋立地です。東京都の資料では、1957年度から1966年度までに約1,034万トンのごみが埋め立てられました。

