日本橋~茅場町~人形町の歴史を巡る夜散歩

日本橋〜人形町ナイトウォーク イベント

今回訪れる予定の場所

江戸秤座跡
江戸幕府は、量の基準統一を図るための役所「座」を設置しました。そして、秤の製作・販売・修理・検査などの独占権は、江戸秤座の「守随家」 (東国三十三か国)と京都梓座の「神家」(西国三十三か国)に分掌させ、全国の権衡制が統一されました。
甲斐武田氏の家臣としての製造を業としていた守随家は、徳川家康の関東人国とともに江戸へ出て、家康の許可をとなりました。その後 は承応2年(1653)に江戸・京都の両座を定め、 江戸秤座は御用商人であった守随家が任にあたりました。
江戸秤座の場所は、京橋の具足町(現在の京橋三丁目)に設置された時期もありましたが、江戸後期から明治8年(1875)の度量衡条例による廃止まで、箔屋町現の地に置かれていました。

兜町・茅場町まちかど展示館

金融街の近くの緑豊かな公園に
「兜町」といえば東京証券取引所の通称でもあり、日本橋兜町界隈は日本の金融の中心地として活気の漲るまちです。しかし、証券街から永代通りを渡った一角に、少し趣の異なる閑静な街並があります。かつては日本橋坂本町と呼ばれた地区で、茅場町にある日枝神社の門前町として賑わってきました。
この一角にあるのが坂本町公園で、都心の中にありながら緑豊か。地域のビジネスマンや住人の憩いの場として親しまれています。この公園内に建てられているのが『兜町・茅場町まちかど展示館』で、この地域一帯の伝統文化財、資料などを見ることができます。

「兜」を掲げた珍しい山車
ここには地元の神輿4基と山車1基、そして江戸町火消し「百組」伝統の写真や革半纏(かわはんてん)などが展示されています。出色は兜町の山車でしょう。町名に合わせ大太鼓の上に鳳凰の代わりに立派な「兜」が飾られた、ほかにはないもので見逃せません。「兜」の文字は兜町町会の神輿にも取り入れられ屋根の周りの葺返や珱珞(ようらく)には七宝焼の「兜」の文字の金具がはめ込まれています。四方の蕨手や鳥居も白龍が絡まる凝ったつくりの個性的な神輿です。茅場町一丁目町会の神輿は、黒漆延べ屋根に三つ巴紋を構えた神社型神輿。昭和初期の製作ですが、昭和50年に改修、色揚げされ華麗な神輿です。また、茅場町二・三丁目町会には2基の大神輿があり、ともに昭和11年に地元茅場町の宮大工・宮銀こと田村春吉氏が製作したものです。梨地唐破風屋根三つ巴(二丁目)と、黒漆延べ屋根一つ巴(三丁目)で、ともに重厚感溢れる玄人好みの神輿です。

「粋」を感じる町火消しの資料
また、祭とゆかりの深い「町火消し」にまつわる粋な品々も展示されています。明治10年頃の写真には、当時の町火消し第一区の一番組から十番組までの連中が集結し、10本の纏が勢揃いした貴重なシーンが映っています。撮影場所は公園奥の日本橋消防署前で、時を経ても火消しの使命は受け継がれています。坂本町公園は明治22年に開園し、東京の市街地に最初に設けられた小公園とされています。隣接する区立阪本小学校も明治の学制布告で「第一大学区・第一中学区・第一番官立小学・阪本学校」として創設されました。すべて「一」を冠したことから「一番学校」と呼ばれてきました。谷崎潤一郎も卒業生でした。展示館の案内板には、儒学者の荻生徂徠や俳人の宝井其角が住んでいた江戸時代から近代までの地域の変遷に触れています。歴史を感じながら日枝神社や兜神社などへ足を伸ばすのも一興です。

https://chuoku-machikadotenjikan.jp/tenjikan/kabutocho_kayabacho/

第一国立銀行跡・銀行発祥の地
 渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会公共事業の育成推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
 中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。

渋沢栄一邸宅跡
関東大震災で 1923年に、渋沢邸・事務所はなくなってしないましたが、昭和3年(1928年)、東京株式取引所によって渋沢栄一邸の跡地にこの日証館が建設されました。兜町の歴史を感じる独特の佇まいと荘厳な存在感が特徴的。数々のテレビドラマなどの撮影地に選ばれ、最近ではドラマ「アバランチ」でも登場しています。日証館の一角に、チョコレート&アイスクリームショップ「teal」があります。

証券取引発祥の地

 江戸時代初期、徳川家康が江戸城下町建設のため、萱や薄の生い茂る砂州のような場所であった現在の兜町地区の埋立造成を行いました。
特に、江戸城に近い兜町地区は、隅田川河口部と海から江戸を守る軍事上の拠点として重要な場所でもあったため、徳川氏に仕えた水軍など、関係の深い武家の屋敷が配置されました。
 明治時代になると、兜町は「証券・金融の街」へと発展していくことになります。
明治維新後、武家地が官有地になり、兜町には国の財政等を管轄していた民部省通産司や警視分庁(中央警察署の前身)、第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校(阪本小学校の前身)などの建物が次々と建設されていきました。
 また、明治維新の恩賞として兜町界隈の土地が三井組などに下賜され、明治6年(1873年)に海運橋の東詰へ第一国立銀行(みずほ銀行の前身)なども建設されました。この建物は、三井組ハウスなどと呼ばれ、東京の新名所となりました。
 明治11年(1878年)には、東京実業界の有力者であった渋沢栄一・三井養之助らの出願により、大隈重信の免許を受け、兜町に東京株式取引所が誕生しました。
その後も政府や渋沢らの民間人によって武家屋敷跡に、為替会社や通商会社など金融や商業上の重要な会社が設立され、兜町は日本経済の中心地として街の姿を変化させてきました。
また、日本橋川沿いには、日本橋魚河岸を始め、四日市河岸・鎧河岸・茅場河岸などの河岸地が発達し、江戸・明治を通して全国各地から運ばれてきた諸物資の荷揚げ場として活気を呈する場所でもありました。
 大正時代になると、明治時代の証券市場がさらに発展・拡大し、取引所と株式仲買店との商い注文や出来高の連絡は、街の角々に立って相撲の四股(しこ)を踏む姿などの仕草で行われていました。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により東京株式取引所を含む兜町一体は焼野原となり、これを契機に耐震耐火の建物が建築され、兜町は近代的な街並みに生まれ変わっていきました。
 震災復興期の大正末年から東京株式取引所(旧東京証券取引所ビル)の新築工事が始まり、昭和2年(1927年)に市場館、同6年に本館が完成し、以後、兜町のシンボルとして親しまれることとなりました。第2次世界大戦が始まると戦時統制は取引所機構の改革にも及び、昭和18年(1943年)に全国11か所の株式取引所は統合され、半官半民の営団組織である日本証券取引所が設立されました。
 戦後、GHQは取引所の再開を禁止しましたが、次第に兜町の一角では証券業者による組織的な集団売買が行われ始めました。そして、昭和24年(1949年)にGHQの承認を得て日本の証券市場は再開されることとなり、東京・大阪・名古屋の3か所が開設されました。米軍に接収(1階から3階を除く)されていた東京の取引所建物は、物資や資金の不足が続く中で市場施設の改修が行われることになり、兜町は“証券の街”として産業資金の調達と国民の資産運用の場として新生のスタートを切りました。以後、日本の近代化とともに発展を続け、政治の中心地「永田町」、行政の中心地「霞が関」と並び、「兜町」は日本金融経済の代名詞となっていきました。平和不動産は、日本証券取引所が昭和22年(1947年)に解散されるにあたり、新たに設立される会員組織の証券取引所および証券業者等に対し、証券取引所等の施設を賃貸する建物管理会社として兜町に誕生しました。
 近年(1980年〜)、昭和初期の名建築と謳われた旧東京証券取引所ビルは、50年の歳月を経て建物の老朽化が進んだことなどによって建替え工事が行われました。昭和57年(1982年)に着工し、第1期・第2期の工事に6年の歳月を費やし、昭和63年(1988年)に新東京証券取引所ビルが全館竣工となりました。地上15階建、最高級の稲田石を使用した重厚な石壁の新東京証券取引所ビルは、兜町のシンボルと呼ぶにふさわしい風格を備え、内部は高度なインテリジェントビルとして、名実共に世界金融の一翼を担う拠点となりました。そして、この事業は平和不動産創業以来最大のプロジェクトでもありました。平成11年(1999年)には、株券の電子化やインターネット取引などにより、長年続いた人手による東京証券取引所株券売買の立会場が閉鎖されました。証券会社の移転が進むなど街の姿が大きく変わりました。

https://www.heiwa-net.co.jp/business/redevelopment/history.html

鎧の渡し跡
 鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や地誌類にも多く記されています。
伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046〜1053)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
 この渡しは、明治五年(1872)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は『江戸名所図会』などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。

小網神社

  • 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
  • 市杵島比賣神 (いちきしまひめのかみ)
  • 福禄寿(ふくろくじゅ)

由緒
 武蔵国豊島郡入江のあたりに萬福庵という観世音と弁財天とを安置する庵がありました。この庵は恵心僧都の開基で、観世音と弁財天も僧都の作と伝えられています。開基の年代は明らかではありませんが、恵心僧都の歴史を考えれば、今からおよそ一千年前ということになります。
 文正元年(西暦1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間をこの庵で過ごしました。ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕に立ち、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。 夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して日夜祈願をつづけました。すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。
 領主・太田持資公(道灌)も、この御神徳を聞き、折に触れて、当神社を詣でました。そして土地を寄附し、小網山稲荷院萬福寿寺と名づけたと伝えられています。慶長年間(西暦1596~1615年)には、これらにちなみ周辺地域が小網町と名づけられ、当神社を氏神と崇めました。
 明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離、小網稲荷神社として明治6年7月5日、村社に指定されました。現社殿・神楽殿は、大正期の明治神宮造営の工匠長・内藤駒三郎宮大工一門により、昭和4年に造営されました。その後の戦禍を免れ、現在は日本橋地区に残されている唯一の戦前の木造神社建築となっています。特に、向拝に施された「昇り龍」と「降り龍」の彫刻は見事なもので、「強運厄除の龍」として拝されています。戦後の宗教法人化に伴い、名称は「小網神社」となりました。社殿・神楽 殿などは現在、中央区の文化財に登録されています。

https://www.koamijinja.or.jp/history.html

西郷隆盛屋敷跡
 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1826〜1877)の屋敷がありました。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。維新後、西郷は郷里鹿児島にいましたが、明治四年に新政府から請われて上京し、参議に就任、同年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議とし留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
 明治6年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。 閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治6年の政変)。下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自通の生活を送っていましたが、明治10年に西南戦争を起こし自害しました。

口入宿
 人形町から日本橋に通じる道に、親父橋と呼ぶ橋が架っていました。この周辺の芳町には、江戸の頃から口入宿が軒をつらねるようにありました。以前は職業安定所、いまのハローワークには大勢の人が集まり、就職(奉公)先を選ぶ姿が、各々の店で見られたのが早朝の風景でした。江戸はもちろん近隣から集まってきて、生業に付きたい雇われを望む人、つまり職を求める人の希望を、次から次と帖面に書きとめる帖付けの役は、えんまと呼ばれている番頭でした。午前七時頃になると、一同に集まった広場で帖付けのえんまが、何處の何屋または何商売の飯炊き、あるいは出前持ちはどうか、と云うように職を斡旋するのが口入宿でした。明治になって早々から人形町通りが確立し、各店が並び繁昌したのは、江戸時代からここ一ヶ所に在った口入宿街に、毎日のように大勢の人が集まってきたのも、人形町繁栄の一助であったはずです。

蛎殻銀座跡碑
 銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や地金の購入などを銀座役所を総称した組織でした。 そしてその経幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。江戸の銀座は慶長17年(1612) に今の銀二丁目の場所に置かれ、その188年後の寛政12年(1800)6月に、寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。その年の11月、改めてこの人形町の場所に幕直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。当時この付近の地名だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治2年(1869)に新政府の造幣局が設置されるまで69年間存続しました。

堺町・葺屋町芝居町跡
 堺町は慶長年間(1596〜1615)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦2年(1656)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町堺町として残りました。
 江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑わっていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座(ほかに現銀座六丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は、京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が、寛永元年(1624)に若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋一丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永九年には宜町(現日本橋堀留町一丁目辺り)に、慶安四年(1651)には下堺町へと移転し、二代三郎のとき本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。この間、堺町では、上堺町において寛永10年に都座が、寛永11年には村山座(後の市座)が創設されました。
 歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。と同じ中の地において、元和3年(1617)には興行が始まっていたようです。やはり寛永九年宜移転を経て、慶安四年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。堺町の芝居小屋は、天保の改革により天保13年(1842)から翌14年にかけて、若一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)を起立してそこに移されるまで、200年前後この地にありました。近年、日本橋人形町三丁目において調査が行わ茶屋や芝居に関する物も出土しています。

確認テスト

まだ見ないでください!

イベントの様子

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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