今回訪れる予定の場所
大手町川端緑道 桟敷広場
2014年4月22日、大手町の日本橋川沿いに歩行者専用道路として開通しました。幅12メートル、総延長約780メートルで、錦橋の南側から東へ延びています。旧江戸城外濠の石積みが保存され、路上の舗装には江戸小紋の柄があしらわれています。
鎌倉河岸跡(かまくらがしあと)
神田橋から鎌倉橋周辺は江戸時代から鎌倉河岸と呼ばれています。徳川家康が江戸に入府した際、鎌倉から石材を運び込み、この河岸に陸揚げしたのが名前の由来です。この河岸は魚や青物などの生鮮食品をはじめ、木材や石材などの物資が集まるところで、水上交通のターミナルとして賑わいました。また隣接する町は「鎌倉町」と名付けられました。1657年(明暦3年)の絵図にはすでにその名前が書かれています。
神田橋門跡
将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、1629年(寛永6年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする場所だったのでこの門の役割は重要でした。1873年(明治6年)に櫓門が撤去され、1884年(明治17年)に木橋がけ直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は1980年架け直されたもので、木橋風の意匠に灯籠風の親柱石造風の高欄(=欄干)を組み合わせています。
一橋徳川家屋敷跡
一橋徳川家は1741年、徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことが始まりである。一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、将軍家に世継ぎがなく御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。当家は、二世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が十ー代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。
雉子橋(きじばし)
徳川家康が朝鮮の使節を饗応(きょうおう=おもてなし)するために、好物の雉子を囲った場所がこの辺りであったことに由来します。寛永6年(1629年)に江戸城内郭門として雉子橋門が造られました。
大隈重信邸跡
近代になるとこの地は、明治政府の殿が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大重信が邸宅を構えます。その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営平住宅を経て現代を迎えます。
俎橋(まないたばし)
江戸時代、近くに御台所町があったことが由来であるといわれています。
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