神田駅の東側から岩本町にかけては、神田紺屋町、神田北乗物町、神田東紺屋町など、江戸時代の職人や商いに由来する町名が今も残っています。藍染めの職人町、古着市場、お玉ヶ池、幕末の種痘所や剣術道場の跡をたどると、現在のオフィス街の下に重なる江戸・明治の町の姿が見えてきます。
この散歩では、神田紺屋町と藍染川の関係、北乗物町の町名の由来、岩本町に古着商が集まった背景を確認しながら、現地に残る町名由来板や史跡を巡ります。





神田紺屋町と北乗物町に残る江戸の町名
神田紺屋町は、慶長年間(1596~1615年)に紺屋頭の土屋五郎右衛門が支配した町に始まります。徳川家康から関東一円の藍の買い付けを許されていた五郎右衛門の配下には多くの染物職人がおり、その集住地が紺屋町と呼ばれるようになりました。浴衣や手拭を染める店が集まり、江戸を代表する染色の町として知られました。
現在の神田紺屋町が南北に分かれているのも江戸時代の町づくりと関係しています。享保4年(1719年)、幕府は北乗物町の南側にあった紺屋町の一部を北側へ移転させ、跡地を防災用の空き地としました。その配置が現在の町割りにも受け継がれ、神田北乗物町を挟んで神田紺屋町が南北に分かれています。
北乗物町という町名が成立したのは明治2年(1869年)です。「乗物」の由来には、駕籠をつくる職人、神輿をつくる職人、駕籠を担ぐ人、馬具職人が住んでいたなど複数の説があります。神田駅東側に残る鍛冶町や紺屋町と同じく、職人と商業の町だった神田の歴史を伝える町名です。
安政4年(1857年)には歌川広重が『名所江戸百景 神田紺屋町』を描いており、染物を干す町の景観そのものが江戸の名所になっていました。現在は染物職人の町並みこそ残っていませんが、町名と町名由来板から当時の土地利用をたどれます。
藍染川(千代田区)
江戸時代には現在の神田金物通りの一本北の道筋に流れていた。名前の由来は、川の周辺に紺屋が集まっており、その水を使って藍染めをしていたからという説が有力である。
明治初期の東京では人口増加とコレラの流行を背景に衛生施設の整備が課題となり、神田では1884年(明治17年)から1885年(明治18年)にかけて近代下水道の「神田下水」が建設されました。現在も神田駅周辺には当時の下水道の一部が残り、現役で使われています。
藍染川は明治期の市街地整備のなかで姿を消し、川に架かっていた弁慶橋も撤去されました。弁慶橋の名はその後、紀尾井町と元赤坂を結ぶ現在の弁慶橋に受け継がれています。地上に川は残っていませんが、旧流路周辺を歩くと、紺屋町の町名や橋跡から水辺だった土地の記憶をたどれます。


岩本町の古着市場と繊維問屋街
神田川沿いの柳原土手には、江戸時代後期から古着を扱う露店が集まりました。明治14年(1881年)には現在の岩本町三丁目から神田岩本町にかけて「岩本町古着市場」が開設され、多い時期には約400軒の古着屋が並んだと伝わります。
洋服が日常着として普及すると、この地域の商いも古着から既製服、生地、服飾品へ広がり、岩本町・東神田の繊維問屋街へ発展しました。現在の町並みには問屋街の規模は残っていませんが、柳原通り周辺の歴史的建築や古着市場を描いた資料から、衣料の町だった時代を確認できます。
今回行くところ
散歩コースは、大きく「古着と繊維の町」「旧町名と水路跡」「医学・剣術の史跡」の三つのテーマに分けて見ると理解しやすくなります。前半では岩本町の商業史、中盤では藍染川や浜町川と旧町名、後半ではお玉ヶ池種痘所と玄武館の跡をたどります。
- 千代田区立秋葉原公園
- 親水テラス
- 岡昌裏地ボタン店
1897年創業、建物は1928建造。近くには同じく看板建築といわれる海老原商店旧店舗もある。 - 岩本町馬の水飲み広場
江戸時代より房や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類村木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。 - 東京大学医学部発祥の地
近くにはお玉ヶ池種痘所記念碑、町名由来板「神田松枝町」があります。1858年(安政5年)に蘭方医たちが設けたお玉ヶ池種痘所は、幕府の医学教育機関へ発展し、東京大学医学部の源流の一つとなりました。詳しい変遷は日本の医学・病院の歴史と系譜で解説しています。 - 町名由来板「大和町」
- 大和橋(浜町川)
- 岩井橋(浜町川)
- 龍閑児童公園(浜町川と龍閑川)
- 弁慶橋跡(藍染川)
- 弁慶橋は江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられる。
- かつては神田松枝町と岩本町との間にある藍染川下流に架かっていたが、1885年(明治18年)に藍染川が下水道工事で埋められると弁慶橋も不要となり、撤去された。
- このまま名橋が失われるのは惜しいということで、1889年(明治22年)に紀尾井町から元赤坂一丁目に通じる道筋にある江戸城外堀へ、元の弁慶橋の廃材を利用して架橋された。
- 現在の弁慶橋の場所はこちら
- お玉ヶ池跡(標柱)
- お玉が池種痘所跡
- お玉が池は徳川初期には不忍池ほどの広さでしたが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけとなっています。
- 安政5年(1858年)、伊東玄朴や大槻俊斎ら江戸の蘭方医が資金を出し合い、お玉ヶ池に種痘所を開設しました。種痘の普及と西洋医学の講習を目的とした施設で、東京大学医学部の源流にあたります。同年11月に火災で類焼し、下谷和泉橋通りへ移転しました。出資者数は東京大学の資料でも82名・83名の両表記があるため、ここでは人数を特定していません。
- 種痘所は名前を変えながら東京大学医学部へと発展しました。
- 藍染橋跡(藍染川)
- 町名由来板「東紺屋町」
- 町名由来板「北乗物町」
- 町名由来板「神田紺屋町」
- 町名由来板「神田富山町」
- 千葉周作玄武館跡・東條一堂瑶池塾跡

神田紺屋町・岩本町を歩くときの見どころ
現地では、建物そのものが江戸時代から残っている場所より、町名、道筋、橋跡、由来板から歴史を読み取る場所が多くなります。神田紺屋町では染物職人の町名、岩本町では古着市場から繊維問屋街へ続いた商業史、お玉ヶ池周辺では医学と剣術の史跡を意識すると、それぞれの地点がつながります。
とくに藍染川や浜町川のように地上から消えた水路は、現在の道路だけでは位置を把握しにくいため、古地図と現在の街路を見比べながら歩くと理解しやすくなります。
参考資料
- 千代田区「町名由来板:神田紺屋町」
- 千代田区「町名由来板:神田北乗物町」
- 国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所 紺屋町」
- 東京都下水道局「神田下水」
- 東京大学デジタルアーカイブポータル「お玉ヶ池種痘所」
古地図で現在地の歴史をたどる「TimeWalk」
神田紺屋町や北乗物町のように、現在の街路や町名に江戸の痕跡が残る地域は、古地図と現在地を重ねると位置関係をつかみやすくなります。ゆる歴史散歩会のTimeWalkでは、街を歩きながら現在地と昔の地図を見比べられます。神田を散策するときに、旧町名や水路跡を探す補助として利用できます。
この地域・テーマをさらに詳しく見る関連記事として、神田の江戸地名と史跡を巡るナイトウォークもあります。
関連する現地散歩として、千代田区にかつて存在した河川「竜閑川(りゅうかんがわ)」を歩くもあわせて参照できます。

