2023年7月12日19:30、10人で「三田~東京タワー~御成門の歴史を巡る夜散歩」を開催しました。三田から芝公園へ進み、増上寺旧境内の史跡と東京タワーを巡って御成門方面へ。傘を差す場面もある雨模様の夜でしたが、濡れた緑とライトアップされた東京タワーが印象的な街歩きになりました。
三田から芝公園へ抜け、東京タワーの足元を通って御成門へ。短い距離の中に、幕末の薩摩藩邸、明治の宗教・労働運動、徳川将軍家の霊廟、近代公園、戦後の電波塔、近代医学の発祥地が重なっています。夜は東京タワーの光が目印になり、江戸の門と昭和の鉄塔が同じ視界に入るのもこのコースの魅力です。
三田・芝・御成門の街並みを「幕末」「明治」「江戸の遺構」「戦後」という時間軸でつなぎながら、現在も現地で確認できる史跡を歩きます。東京タワー周辺を歴史散歩として楽しみたい方にも使えるコースです。
今回のコース概要|三田から芝公園・東京タワー・御成門へ

- 薩摩藩三田藩邸跡・芝さつまの道
- 日本労働運動発祥之地(旧ユニテリアン教会・惟一館跡)
- 旧台徳院霊廟惣門
- 長柏園跡・芝公園もみじ谷
- 複眼的報道の塔
- 東京タワー「333mの記憶」
- 御成門
- 有章院霊廟二天門
- 伝染病研究所発祥の地
三田から北へ進むにつれて、幕末の政治史から明治の社会運動、徳川将軍家ゆかりの芝、戦後東京の象徴へと景色が切り替わります。到着側の御成門には、増上寺の旧境内を伝える門と日本近代医学の記念碑が残ります。
薩摩藩三田藩邸跡|戊辰戦争の導火線となった焼き討ち
現在の港区芝5丁目7番付近には、薩摩藩の江戸屋敷がありました。幕末には江戸市中で活動した浪士らが三田の薩摩藩邸に集まり、慶応3年12月25日、庄内藩を中心とする幕府方の部隊が薩摩藩邸を焼き討ちしました。数日後に京都で鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰戦争へ入っていきます。鶴岡市の「薩摩藩三田藩邸跡」案内でも、この事件が戊辰戦争の発端となった経緯が紹介されています。
三田周辺には薩摩藩の屋敷や蔵に関わる痕跡が点在し、「芝さつまの道」という名にも薩摩との関係が残ります。現在のオフィス街からは想像しにくいものの、この一帯は幕末の江戸政局が急速に軍事衝突へ傾いた現場でした。
惟一館と日本労働運動発祥の地|宗教施設から友愛会へ
芝2丁目の友愛会館付近には「日本労働運動発祥之地」の碑があります。ここには1894(明治27)年、アメリカ・ユニテリアン協会の活動拠点となる惟一館が建てられました。設計は鹿鳴館などで知られるジョサイア・コンドルです。港区史によると、惟一館はユニテリアンの宗教活動だけでなく、教育や社会思想をめぐる交流の場にもなりました。
1898(明治31)年には安部磯雄らが社会主義研究会を結成し、1912(大正元)年8月1日には鈴木文治ら15人が友愛会を創立しました。友愛会はのちの日本労働総同盟へ発展します。現在の碑の周囲には、惟一館を囲んでいた煉瓦塀に由来する煉瓦の一部が再利用されています。
ユニテリアンを含む近代日本のキリスト教と社会運動のつながりは、日本のキリスト教近代史で詳しく紹介しています。友愛会に関わった人物の一人、賀川豊彦については賀川豊彦と協同組合運動もあわせて読めます。
芝公園と増上寺旧境内|巨大寺院から近代公園へ
芝公園は1873(明治6)年の太政官布達によって、上野・浅草・深川・飛鳥山とともに日本最初期の公園に指定されました。当初の公園は増上寺境内を含む広い範囲で、戦後に寺院境内が公園区域から外れたため、現在は増上寺を囲むような形になっています。東京都公園協会の芝公園案内でも、この成り立ちが紹介されています。
江戸時代の増上寺は現在よりはるかに広く、南は赤羽橋付近、東は港区役所から芝大門付近、北は御成門周辺、西は現在の東京タワー付近まで寺域が及びました。徳川家の菩提寺となった増上寺には将軍霊廟が造営され、芝一帯に巨大な宗教空間が形成されました。増上寺そのものの歴史や現存する建築は、増上寺の見どころと歴史で詳しくまとめています。
旧台徳院霊廟惣門|二代将軍秀忠の霊廟を伝える門

芝公園4丁目に残る旧台徳院霊廟惣門は、二代将軍徳川秀忠の霊廟の正門として1632(寛永9)年に建てられた国指定重要文化財です。東京大空襲で霊廟建築の大部分が焼失しましたが、惣門など一部の門は残りました。惣門以外の勅額門・丁子門・御成門は戦後に埼玉県の狭山不動寺へ移築されています。
現在の惣門は当初位置から東へ移されています。門の背後に東京タワーが立つ景観は、1632年の徳川将軍家霊廟と1958年の電波塔が一つの視界に収まる、芝公園ならではの風景です。
長柏園跡ともみじ谷|長岡安平がつくった都市の緑
芝公園のもみじ谷を設計した長岡安平(1842~1925)は、日本の近代公園づくりを担った造園家です。1878(明治11)年に東京府へ入り、東京各地や全国の公園設計に携わりました。1905(明治38)年に整備したもみじ谷では、もともとの地形や水の流れを生かした景観づくりが行われています。
長岡は芝公園内に住み、自宅を「長柏園」と名付けました。現在は長柏園跡の碑が残ります。江戸の寺社地だった芝が近代都市の公園へ変わる過程を、造園家の生活の跡からたどれる場所です。
大正期の芝の街並みや土地利用を広く見たい場合は、大正東京・芝区を古地図で徹底解説も参考になります。
複眼的報道の塔|専門紙の理念を刻んだモニュメント
芝公園には「複眼的報道の塔」と名付けられたモニュメントがあります。2004年、日本専門新聞協会が東京都に寄贈・建立したもので、「中立・公正・迅速・的確」という専門報道の理念を表し、ソーラー電波時計を備えています。幕末や明治の史跡が続くコースの中に、現代の報道文化を記念する施設が加わるのも芝公園の特徴です。
東京タワーと「333mの記憶」|戦後の放送を支えた電波塔
東京タワーは1958(昭和33)年12月23日に完成しました。高さ333mで、完成当時は世界一高い自立式鉄塔でした。設計指導を担ったのは、耐震構造と鉄塔設計で知られる内藤多仲です。名古屋テレビ塔や二代目通天閣なども手がけ、「塔博士」と呼ばれました。
足元にある「333mの記憶」は、東京タワー最頂部で実際に使われていたアンテナと支柱の一部を残したモニュメントです。アンテナは1958年からアナログテレビ放送が終了した2011年まで放送を支えました。2011年の東日本大震災ではアンテナ支柱が変形し、放送を止めないための復旧作業が行われています。戦後復興の象徴として見える東京タワーを、放送インフラの歴史から見直せる場所です。
御成門と有章院霊廟二天門|将軍の参詣路に残る江戸
御成門は増上寺の裏門として造られ、将軍が参詣する際に主に使ったことから、この名で呼ばれるようになりました。もとは現在の御成門交差点付近にあり、明治期の道路整備に伴って現在地へ移築されました。現在の駅名・地名として残る「御成門」は、増上寺の寺域が現在より広かった時代の名残です。
近くの有章院霊廟二天門は、七代将軍徳川家継の霊廟に属した1717(享保2)年建立の国指定重要文化財です。1945年の空襲で有章院霊廟の主要建築は焼失しましたが、二天門は残りました。門内の広目天・多聞天像は1716(享保元)年の作で、京都七条仏師の法橋康傅らが制作したことが像内の墨書から確認されています。
伝染病研究所発祥の地|北里柴三郎と日本の感染症研究
御成門周辺には「伝染病研究所発祥の地」の碑があります。1892(明治25)年、芝区芝公園に大日本私立衛生会附属伝染病研究所が設立され、初代所長となったのが北里柴三郎です。研究所は1894(明治27)年に芝区愛宕町へ移り、その後、現在の港区白金台へ移転しました。現在の東京大学医科学研究所につながる組織です。
北里はドイツ留学中に破傷風菌の純粋培養や血清療法で成果を上げ、帰国後の日本で感染症研究の基盤づくりを進めました。芝・御成門は、徳川将軍家の寺院都市だった土地に、明治以降の公園、研究機関、道路、放送施設が重なっていった地域でもあります。
三田から御成門まで歩くと見える東京の時間
三田の薩摩藩邸跡では幕末の政治対立、惟一館跡では明治・大正の社会運動、芝公園では増上寺の旧境内と近代公園、東京タワーでは戦後の放送史、御成門では将軍参詣の記憶と近代医学の出発点に触れられます。時代ごとの史跡を別々に見るより、歩いてつなぐことで芝・三田の土地が何度も役割を変えてきたことが分かります。
2023年7月12日開催レポート|10人で歩いた三田~東京タワー~御成門
19:30に三田からスタートしました。参加者は10人。オフィス街を抜けながら幕末の薩摩藩邸跡、近代労働運動の発祥地、芝公園と増上寺旧境内、東京タワーへと歩き、御成門方面へ向かいました。写真には傘を差す場面や濡れた路面も残っており、雨の夜ならではの光の反射と緑の濃さが印象に残る散歩でした。
三田の街から夜散歩をスタート

最初は現在の三田・芝の街並みを歩きながら、江戸時代には大名屋敷が並んでいた土地の変化をたどりました。高層ビルの足元に残る案内板や碑を順に見ていくと、幕末の政治史が現在の道路や街区の中に重なっていることが分かります。
「芝さつまの道」で薩摩藩邸の記憶をたどる

「芝さつまの道」の解説パネルでは、古い地図と現在の街区を見比べました。三田には薩摩藩の江戸屋敷があり、慶応3年12月25日には幕府方による薩摩藩邸焼き討ちが起きています。数日後に鳥羽・伏見の戦いが始まるため、この一帯は幕末の江戸と戊辰戦争をつなぐ場所として押さえておきたい地点です。
日本労働運動発祥の地と友愛会館

続いて友愛会館へ。「日本労働運動発祥之地」の碑と、惟一館を囲んでいた煉瓦塀に由来する煉瓦を現地で確認しました。1894(明治27)年に建てられた惟一館はユニテリアンの活動拠点となり、1912(大正元)年8月1日には鈴木文治らがここで友愛会を創立しました。友愛会はのちに総同盟へ発展し、日本の近代労働運動の大きな流れを形づくります。

館内の「友愛会館の記」には、この土地で友愛会が生まれ、総同盟・同盟へと受け継がれてきた経緯が刻まれています。史跡の碑だけでなく、現在の施設の中に運動の系譜を伝える資料が残っているため、芝の近代史を具体的に追える場所です。

胸像は鈴木文治、松岡駒吉、西尾末廣の3人です。友愛会から総同盟へ続く運動を人物の顔と名前で結び直せる展示でした。近代日本のキリスト教と社会運動の関係は、日本のキリスト教近代史、労働・協同組合運動へ活動を広げた人物については賀川豊彦と協同組合運動でも詳しく紹介しています。
雨の芝公園へ。東京タワーが夜景の目印に


芝公園に入ると東京タワーが大きく見え始めます。1873(明治6)年に公園として開かれた芝公園は、もともと増上寺境内を含む広い寺社地でした。現在の公園と増上寺が入り組む配置には、近代以降の土地利用の変化がそのまま残っています。大正期の芝の土地利用は、大正東京・芝区を古地図で徹底解説でも確認できます。
旧台徳院霊廟惣門で江戸と昭和が重なる

旧台徳院霊廟惣門は、二代将軍徳川秀忠の霊廟を伝える国指定重要文化財です。戦災で霊廟の多くが失われたなか、惣門は芝に残りました。赤い門の向こうに1958年開業の東京タワーが立つ景色は、17世紀の将軍霊廟と20世紀の電波塔が同じ画面に入る、この夜散歩を象徴する眺めでした。増上寺の徳川将軍家墓所や建築については増上寺の見どころと歴史でも詳しくまとめています。
芝公園の高低差と増上寺の夜景


芝公園は平坦な広場だけでなく、階段や斜面、樹林が続きます。増上寺周辺まで進むと、寺院建築の屋根越しに東京タワーが見えました。昼間は建築細部を追いやすい場所ですが、夜は輪郭と照明が際立ち、増上寺と東京タワーの位置関係をつかみやすくなります。
もみじ谷で長岡安平の造園を歩く



もみじ谷では、近代公園づくりを担った長岡安平の仕事を現地の解説板で確認しました。もみじの滝は1905(明治38)年の設計で、深山幽谷を思わせる地形を利用した景観が特徴です。東京都公園協会によると、長岡は芝公園に隣接する「長柏園」に1925(大正14)年に亡くなるまで住みました。雨で濡れた樹木と園路のなかを歩くと、東京タワーの足元にこうした緑の谷が残ること自体が芝公園の面白さとして感じられます。
「333mの記憶」で東京タワーの放送史を見る

東京タワーでは「333mの記憶」を見学しました。1958(昭和33)年12月23日に開業した東京タワーは、高さ333mの電波塔としてテレビ放送の時代を支えました。モニュメントとして残されたアンテナを見ると、東京タワーが夜景のランドマークであると同時に、戦後の情報インフラだったことが実物の大きさで分かります。
御成門方面へ歩いて夜散歩を締めくくる
東京タワー周辺から御成門方面へ進んで、この日の夜散歩を締めくくりました。三田の薩摩藩邸跡から始まり、友愛会館、増上寺旧境内、芝公園、東京タワーへと歩くと、幕末・明治・江戸の遺構・戦後の都市インフラが数十分おきに切り替わります。10人で同じ場所に立ち、案内板や遺構を一緒に確認できたことで、街の景色と歴史年表が結びつく散歩になりました。
参考資料
- 鶴岡市「薩摩藩三田藩邸跡」
- 港区「地域情報誌 芝 第35号」―ユニテリアン教会・惟一館と友愛会
- 友愛会館「友愛会館について」
- 東京都公園協会「芝公園は150周年」
- 港区「港区にある重要文化財」
- 東京タワー公式「東京タワーがみつめた60年」
- 東京大学医科学研究所「医科研の歴史」
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今回の2023年7月12日開催ではTimeWalkは利用していません。TimeWalkは、現在地や指定した地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分のペースで歴史散歩を楽しめるWebアプリです。三田・芝公園・東京タワー・御成門周辺を個人で歩くときにも、近くの史跡を探す手がかりになります。現在地から歩ける史跡を地図で探す。

