京橋・八丁堀・新富町・築地の歴史散歩|与力同心、新富座、外国人居留地を歩く

京橋〜築地ナイトウォーク

京橋から八丁堀、新富町、築地、明石町へ。数キロの徒歩圏に、江戸の水路と町奉行所の組屋敷、幕末の剣術道場、明治の大劇場、外国人居留地、近代産業の発祥地、昭和の名建築が重なっています。現在の道路や石碑をたどりながら、江戸の町人地と武家地が近代東京へ変わっていく流れを歩ける歴史散歩です。

今回の散歩コース

  1. 京橋の親柱・京橋川跡
  2. 八丁堀の与力・同心組屋敷跡
  3. 八丁堀(桜川)跡
  4. 士学館跡
  5. 新富座跡
  6. 靴業発祥の地
  7. 築地・明石町の外国人居留地跡
  8. アメリカ公使館跡・各学校の発祥碑
  9. 築地本願寺

出発地から到着地まで一直線に史跡を並べるより、かつての水路と土地利用の変化を意識すると、この地域の歴史がつながります。京橋・八丁堀では江戸の都市構造、新富町では明治の娯楽と産業、築地・明石町では外国人居留地と近代教育・医療が主な見どころです。

京橋――東海道と水運が交わった江戸の玄関口

京橋は、日本橋から東海道を京都方面へ進んだ最初の主要橋として名が生まれ、のちに町名となりました。橋が架かっていた京橋川は、隅田川側から八丁堀方面へつながる船入堀として江戸初期に整備され、橋の創架も日本橋とほぼ同時期とされています。

江戸時代の京橋周辺は商人や職人が集まる町人地でした。京橋川沿いには、橋の東側に竹河岸、西側に大根河岸が発達し、水運で届く物資を扱いました。現在、京橋川そのものは昭和38年から40年にかけて埋め立てられましたが、中央通り沿いには明治・大正期の「京橋の親柱」が残り、橋と水路があった位置を伝えています。

銀座一丁目から新橋まで、京橋川や銀座の近代化を続けて歩くなら、銀座の歴史散歩|京橋から新橋へもあわせて見ると街のつながりが分かりやすくなります。

八丁堀――与力・同心の組屋敷と、消えた水路

八丁堀と聞いて時代劇の同心を思い浮かべる人が多いのは、この一帯に江戸町奉行所配下の与力よりき・同心の組屋敷が集中していたためです。町奉行所は江戸市中の行政、警察、裁判などを担い、与力と同心が実務を支えました。中央区の発掘調査でも、現在の八丁堀から日本橋茅場町にかけて組屋敷が広がっていた歴史が確認されています。

八丁堀一帯は徳川家康の江戸入府後に埋め立て造成され、明暦3年(1657)の大火以前は寺院が密集する寺町でした。大火後の都市再編で寺院が移転し、武家地へ変化します。江戸の防災と都市計画による土地利用の転換をたどれる地域です。

八丁堀の南側には、かつて八丁堀川とも呼ばれた桜川が流れていました。さらに西の京橋川、東の亀島川などと水路がつながり、京橋から築地へ向かう一帯は、陸路だけでなく水運によって形づくられた市街地でした。現在は道路や首都高速の下に水路の痕跡が残ります。

士学館――幕末江戸を代表した剣術道場の一つ

八丁堀周辺には、鏡新明智流の剣術道場士学館しがくかんがありました。桃井春蔵もものいしゅんぞうの道場として知られ、幕末江戸の有力道場の一つに数えられます。町奉行所の与力・同心が暮らす地域の近くに武術道場があったことは、八丁堀の武家地としての性格をよく伝えています。

現在、道場建築は残っていません。跡地周辺では、現代のオフィス街の区画に江戸の組屋敷と道場の位置を重ねて歩けます。

新富町――遊郭から新富座へ、明治東京の劇場街

八丁堀から南へ進むと新富町です。江戸時代には大部分が武家地でしたが、明治初年には隣接する築地外国人居留地の開設に伴って新島原遊郭が置かれました。現在の「新富」という地名は、旧大富町との関係や、新島原の「新」と大富町の「富」を組み合わせたという説が伝わります。

新富座はなぜ重要なのか

新富座は、江戸以来の芝居小屋が近代的な劇場へ変わる過程を象徴する存在です。明治5年(1872)に守田座が浅草の猿若町から新富町へ移転し、明治8年(1875)に新富座へ改称。翌年の火災後、明治11年(1878)に新築開場しました。

新しい劇場にはガス灯など文明開化を象徴する設備が取り入れられました。三代歌川広重が描いた新富座の錦絵には、大きな劇場建築と人力車が行き交う街路が描かれています。新富町は江戸の芝居文化を受け継ぎながら、明治東京の新しい娯楽街へ変化した地域でした。新富座は大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、その後は再建されていません。

入船の靴業発祥の地――外国人居留地の隣で始まった近代産業

新富町から入船へ進むと、「靴業発祥の地」の碑があります。明治3年(1870)3月15日、西村勝三にしむらかつぞうが旧築地入船町に伊勢勝造靴場を開き、国内で西洋式の靴を製造する工場が始まりました。

近くの明石町には外国人居留地が置かれ、西洋式の生活用品への需要が生まれていました。軍や官庁向けの需要も加わり、入船周辺は近代的な製靴産業が育つ場所になります。石碑一つから、築地の国際化が周辺産業へ波及した様子をたどれます。

築地・明石町――武家地から東京の外国人居留地へ

新富町から築地・明石町あかしちょうへ入ると、江戸の武家地から明治の国際地区へ歴史が切り替わります。現在の明石町一帯は、江戸時代には「鉄砲洲」と呼ばれた埋立地で、大部分が武家地でした。赤穂藩主・浅野家の上屋敷もこの一帯にあり、現在は浅野内匠頭あさのたくみのかみ邸跡の史跡表示が残ります。

幕末の条約で江戸の開市が定められ、明治元年11月19日に築地外国人居留地が設定されました。横浜のような貿易港とは性格が異なり、築地には外国公使館、教会、学校、病院が集まりました。宣教師、教師、医師などが活動したため、明石町には現在も立教、明治学院、女子学院など近代教育に関わる発祥碑が点在しています。

1869年に描かれた築地外国人居留地と鉄砲洲の風景
1869年の「東京築地鉄砲洲景」。外国人居留地が置かれた明石町周辺の姿を伝えます。歌川国輝(二代)/Public Domain

アメリカ公使館跡に残る石造彫刻

アメリカ公使館は明治7年(1874)から明治23年(1890)まで築地外国人居留地に置かれました。現在の聖路加ガーデンや聖路加国際病院トイスラー記念館の周辺には、公使館建物に使われていた白頭鷲、盾形の星条旗、星などの石造彫刻が保存されています。建物が失われた居留地の歴史を、実物の部材から確認できる貴重な場所です。

築地外国人居留地の学校・教会・公使館を詳しくたどるなら、築地外国人居留地を歩く歴史散歩で個別の史跡を紹介しています。

築地本願寺――「築地」の地名と昭和の名建築

築地本願寺は元和3年(1617)に浅草近くで創建され、明暦3年(1657)の大火で焼失しました。幕府から再建地として与えられた現在地は当時まだ海上だったため、海を埋め立てて土地を築き、本堂を建立します。築地という地名そのものが、こうした「築いた土地」の歴史と結びついています。

現在の本堂は関東大震災後の昭和9年(1934)に再建され、設計は建築史家の伊東忠太いとうちゅうたです。外観にはインドなどアジアの古代仏教建築を参照した意匠が取り入れられ、正面の大きなヴォールト屋根、塔状の鐘楼・鼓楼、ステンドグラス、動物彫刻などが見どころです。本堂、石塀、三門門柱は国の重要文化財に指定されています。

銀座から築地本願寺、明石町を抜けて月島まで歩くなら、銀座~月島の歴史散歩もつながりの良いコースです。中央区全体の埋め立てや水路の変化を地図で見たい場合は、中央区立郷土資料館から新富・築地・銀座を歩いた開催レポートも参考になります。

このコースで見える東京の変化

京橋では東海道と水運、八丁堀では町奉行所の組屋敷、新富町では近代劇場と産業、明石町では外国人居留地と教育・医療、築地本願寺では埋め立てと近代建築をたどれます。現在は水路も劇場も居留地の街並みも多くが失われましたが、橋の親柱、道路の形、石碑、建築がそれぞれの時代をつないでいます。

TimeWalkで現在地から史跡を探す

TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。京橋・八丁堀・築地を歩くときは、現在地から歩ける史跡を地図で探すと、今回のコース周辺にある別の史跡も見つけられます。