太宰治が愛した三鷹跨線人道橋|撤去前の記録と玉川上水・文学散歩

青空の下の三鷹跨線人道橋を歩く参加者

2023年7月17日、ゆる歴史散歩会では参加者7名で、当時まだ渡ることのできた三鷹跨線人道橋と太宰治ゆかりの場所を巡りました。太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」から撤去前の跨線橋へ向かい、三鷹駅周辺の太宰治ゆかりの街並みをたどって太宰治文学サロンへ。真夏の暑さが厳しかったため、街歩きは文学サロンで中断しました。三鷹跨線人道橋は同年12月10日に一般通行を終え、その後JR東日本により解体・撤去されました。2026年3月28日には南側階段跡地に「三鷹跨線人道橋跡ポケットスペース」が開設されています。

橋そのものは姿を消しましたが、三鷹には太宰が暮らした町並みの記憶と、江戸の上水、近代の鉄道、日本の天文学をつなぐ史跡がまとまって残っています。撤去前に歩いた2023年の記録と、現在訪ねられる場所を重ねてたどります。

2023年7月17日開催レポート――撤去前の跨線橋と太宰治をたどる

2023年7月17日10時、参加者7名で「撤去される前に!太宰治が愛した跨線橋と三鷹の史跡」を開催しました。テーマは、太宰治だざい おさむが暮らした三鷹と、当時まだ自由に渡ることができた三鷹跨線人道橋みたかこせんじんどうきょうです。太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」で生活と創作の背景を学び、跨線橋を実際に歩いたあと、太宰治文学サロンへ向かいました。

この日の最大の見どころは、のちに閉鎖・撤去される三鷹跨線人道橋を、橋上の風景ごと体験できたことです。三鷹車両センターに何本もの線路が広がる眺め、錆の浮いた鋼材や金網、長い橋の直線的な通路は、写真だけでは分かりにくいスケール感がありました。一方で真夏の暑さは非常に厳しく、文学サロンに到着したところで街歩きを中断。館内があまりに涼しく、外へ戻る気になれないほどだったため、そのままサロンで太宰の資料や書籍をじっくり見る時間に切り替えました。

今回のコース概要

  1. 太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」
  2. 三鷹跨線人道橋
  3. 三鷹駅周辺の太宰治ゆかりの街並み
  4. 太宰治文学サロン

当初はこの先も玉川上水方面へ歩く想定でしたが、当日は暑さを優先して文学サロンで終了しました。したがって、本記事後半で紹介している玉川上水や山本有三記念館などは、三鷹の歴史散歩を理解するための関連スポットとして掲載しています。2023年7月17日の実際の訪問先とは区別してご覧ください。

太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」からスタート

最初に訪れたのは、三鷹駅南口の三鷹市美術ギャラリー内にある太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」です。太宰が家族と暮らした約12坪半の借家の一部を資料に基づいて再現した施設で、作品名だけを追うのではなく、三鷹で生活した一人の作家として太宰を捉えられます。机や畳、障子などの空間を目の前にすると、三鷹で書かれた数々の作品が日常生活の延長上に生まれたことを想像しやすくなります。

太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」を見学する参加者
2023年7月17日、太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」で太宰治の三鷹での暮らしを学びました。
太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」の再現展示
太宰治が家族と暮らした三鷹の借家の一部を再現した展示。

展示室は2020年12月8日に開設されました。三鷹市スポーツと文化財団によると、太宰は1939年9月から1948年6月まで三鷹の下連雀で暮らし、この借家から一度も転居しませんでした。家庭人として過ごした場所と作家としての仕事場が近接していたことは、三鷹時代の太宰を理解するうえで重要です。

撤去前の三鷹跨線人道橋を歩く

続いて向かったのが、この日の主役である三鷹跨線人道橋です。1929年に三鷹電車庫の開設に伴って設置された約90メートルの人道橋で、三鷹駅が開業する1930年より一足早く誕生しました。太宰治が好んで訪れた場所としても知られ、鉄道の歴史と文学の記憶が一つの場所で重なる、三鷹を象徴する史跡でした。

撤去前の三鷹跨線人道橋南側階段と参加者
2023年7月17日、撤去前の三鷹跨線人道橋へ。南側階段から橋上へ向かいました。

橋へ上がる階段や金網、鋼材には長年使われてきた痕跡がはっきり残っていました。2023年7月の時点では、まだ日常の歩行者通路として利用でき、私たちも橋の南北を歩いて渡ることができました。

三鷹跨線人道橋の橋上を歩く参加者
三鷹車両センターをまたぐ三鷹跨線人道橋。2023年当時はまだ自由に渡ることができました。

橋上からは三鷹車両センターの線路群を広く見渡せました。中央線の車両が行き交う現在進行形の鉄道風景と、昭和初期から残る橋の構造物が同じ視界に入るのが、この場所ならではの面白さです。太宰がここを訪れた時代とは車両も街並みも大きく変わっていますが、「線路を高い位置から眺める」という体験そのものは共有できました。

三鷹跨線人道橋から見下ろした三鷹車両センター
三鷹跨線人道橋から三鷹車両センターを望む。多数の線路と車両を見渡せる眺望も橋の魅力でした。
青空の下の三鷹跨線人道橋を歩く参加者
真夏の三鷹跨線人道橋。太宰治ゆかりの橋を実際に歩けた時代の開催記録です。
三鷹跨線人道橋を渡る参加者の後ろ姿
撤去前の三鷹跨線人道橋を渡る参加者。錆びた鋼材や金網にも長い歴史が刻まれていました。

暑さで予定変更、太宰治文学サロンでじっくり学ぶ

跨線橋を歩いたあと、太宰の仕事場跡などをたどりながら太宰治文学サロンへ。サロンは、太宰一家が利用した伊勢元酒店いせもとさけてんの跡地に2008年に開設され、2022年にはブックカフェ機能を備えた施設としてリニューアルされました。太宰関連の書籍や資料を手に取れるため、街を歩いた直後に背景を掘り下げるのに向いた場所です。

太宰治文学サロン館内で展示を見る参加者
太宰治文学サロンで太宰と三鷹の関わりを学びました。暑さのため、この日はここで街歩きを中断しました。

この日はとにかく暑く、サロンの涼しさに入った瞬間、外へ戻るのが難しいほどでした。そこで無理に予定を続行せず、街歩きはここで終了。予定変更そのものも、真夏の歴史散歩らしい開催記録です。サロンでは、展示パネルや関連書籍を見ながら、午前中に歩いた場所と太宰の生活圏を結び直す時間にしました。

太宰治文学サロンの太宰治関連書籍
太宰治文学サロンには太宰治に関する書籍が並び、作品や研究を深められます。

太宰治と三鷹――名作が生まれた9年間

太宰治だざい おさむは1939(昭和14)年9月から1948(昭和23)年6月まで三鷹で暮らしました。住まいがあったのは下連雀しもれんじゃく。三鷹時代には『走れメロス』『斜陽』『人間失格』『ヴィヨンの妻』など、現在まで読み継がれる作品が次々と生まれています。

戦後は自宅だけでなく、三鷹駅周辺にいくつもの仕事部屋を借りました。編集者や友人が集まる生活と執筆の場が、駅前の路地や商店、玉川上水の周辺に重なっていたのです。

黒マント姿の太宰治
太宰治。Wikimedia Commons(Public domain)

太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」――自宅の空気をたどる

三鷹駅南口の三鷹市美術ギャラリー内には、太宰治だざい おさむ展示室「三鷹の此の小さい家」があります。2020(令和2)年12月8日に開設された施設で、太宰が妻子と暮らした約12坪半の借家の一部を再現しています。

太宰は1939年に三鷹へ移ってから、一度も転居せずこの家を生活の本拠にしました。展示室には常設・企画・体験型の展示があり、作品名だけでは見えにくい「三鷹で暮らす作家」の姿に近づけます。駅前から文学散歩を始める場所としても位置が分かりやすく、現在の展示情報は三鷹市スポーツと文化財団の太宰治展示室案内で公開されています。

三鷹跨線人道橋――駅より古かった約90メートルの橋

三鷹跨線こせん人道橋は、1929(昭和4)年、三鷹電車庫(現在の三鷹車両センター)の開設に伴って線路で分断される上連雀地区の通行を確保するために設けられました。南北約90メートル。三鷹駅の開業は翌1930年で、橋は駅より一足早くこの場所に生まれています。

太宰治だざい おさむが好んで訪れた場所としても知られます。太宰は友人をこの陸橋へ案内し、写真家・田村茂が橋上や階段で撮影した姿も残りました。電車庫を見下ろし、遠く富士山も望めた橋は、文学史と鉄道史が交わる三鷹らしい場所でした。

三鷹市上連雀の三鷹跨線人道橋
三鷹跨線人道橋。Mikagekawase / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

2023年の閉鎖から、2026年のポケットスペースへ

ゆる歴史散歩会が歩いた2023年7月には、まだ橋を渡ることができました。その約5か月後の12月10日に一般通行を終え、94年にわたる人道橋としての役割を終えます。その後、老朽化を理由にJR東日本が解体・撤去しました。三鷹市が2026年4月に公表した資料では、解体・撤去は2024(令和6)年とされています。橋そのものを全面保存するのではなく、三鷹市がJR東日本から階段・橋桁の一部を譲り受け、記録と記憶を残す方針が採られました。

閉鎖最終日の三鷹跨線人道橋
閉鎖最終日の三鷹跨線人道橋(2023年12月10日)。ITA-ATU / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

現在、南側階段跡地には三鷹跨線人道橋跡ポケットスペースがあります。JR東日本から三鷹市へ譲られた階段・橋桁の一部や古レール、橋の歴史と太宰を紹介するパネル、ARコンテンツが整備されました。かつての橋を渡ることはできませんが、現地で部材と位置関係を確かめられます。

三鷹の町はどう生まれたのか

三鷹の下連雀しもれんじゃくは、1657(明暦3)年の明暦の大火をきっかけに生まれた土地です。江戸・神田連雀町の被災者に替え地が与えられ、1658(万治元)年に連雀新田の開墾が始まりました。江戸の大火と武蔵野の新田開発が、現在の地名につながっています。

1889(明治22)年には周辺の村々がまとまって三鷹村が成立し、同じ年に甲武鉄道が開通しました。1930(昭和5)年の三鷹駅開業後、東京郊外の住宅地として発展します。鉄道で都心と結ばれた一方、玉川上水や武蔵野の緑も残る環境は、太宰だけでなく山本有三ら多くの文化人の生活の舞台になりました。

中鉢家跡・千草跡・野川家跡――太宰の仕事場を追う

疎開先から三鷹へ戻った太宰治だざい おさむは、1946(昭和21)年11月、三鷹駅前郵便局のはす向かいにあった中鉢家の2階を仕事場として借りました。ここで『ヴィヨンの妻』などを執筆し、短編『朝』にはこの部屋が舞台として登場します。現在は建物が替わり、ゆかりの案内板が場所を伝えています。

1947(昭和22)年には仕事場を移し、7月ごろから小料理屋「千草」の2階を使いました。9月には、その斜め前にあった山崎富栄やまざき とみえの下宿先・野川家の部屋を仕事場とします。三鷹駅南口の狭い範囲に仕事場が点在しており、太宰の戦後の執筆生活を徒歩で追えるのがこの町の特徴です。

1948(昭和23)年6月13日夜、太宰と山崎富栄は野川家から玉川上水へ向かい、19日に遺体が見つかりました。同年7月、太宰は三鷹の禅林寺に葬られています。

太宰治文学サロン――伊勢元酒店の記憶を受け継ぐ場所

太宰治だざい おさむ文学サロンがあるのは、太宰一家が利用した伊勢元酒店いせもとさけてんの跡地です。店名は太宰の『十二月八日』にも登場します。生活圏の中にあった一軒の酒店の記憶が、現在の文学施設へ受け継がれました。

サロンは2008(平成20)年に開設され、2022(令和4)年にブックカフェ機能を加えてリニューアル。太宰の写真や資料、関連書籍に触れられる、三鷹の文学散歩の拠点です。所在地や開館情報は三鷹市「太宰ゆかりの場所」で確認できます。

玉川上水――江戸の水路から太宰文学の舞台へ

玉川上水たまがわじょうすいは、江戸市中への給水を目的に1653(承応2)年に開削が始まり、翌1654年に完成しました。羽村取水口から四谷大木戸まで約43キロメートルを、約92メートルの標高差で流す大規模な水路です。江戸の生活用水を支え、分水は武蔵野台地の新田開発にも大きな役割を果たしました。2003(平成15)年には約30キロメートルが国の史跡に指定されています。

三鷹駅南口から見た玉川上水
三鷹駅南口から見た玉川上水。sewmew / Wikimedia Commons(Public domain)

三鷹駅から上水沿いに延びる「風の散歩道」には、太宰が玉川上水を描いた『乞食学生』の一節を刻んだレリーフがあります。近くには玉鹿石ぎょっかせきと呼ばれる無銘碑も置かれています。太宰の故郷・青森県金木町から取り寄せた石で、太宰を偲ぶ場所として知られています。

玉川上水が江戸から現代まで東京の水道をどう支えたのかは、関連記事「東京水道の歴史|江戸の上水から浄水場・ダム・巨大水道網まで」でも詳しく紹介しています。

天文・科学情報スペース――三鷹は天文学の町でもある

三鷹には文学とは別の大きな歴史があります。1888(明治21)年に麻布飯倉町に設けられた東京天文台は、1924(大正13)年に三鷹村大沢へ移転しました。1988(昭和63)年には緯度観測所などと統合して国立天文台となり、三鷹は100年以上にわたり日本の天文学を支える拠点です。

国立天文台三鷹キャンパス
国立天文台三鷹キャンパス。Osamu Iwasaki / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0

三鷹駅南口から徒歩約5分の「天文・科学情報スペース」は、国立天文台、三鷹市など4者が共同で2015(平成27)年に開設しました。天文学や科学の展示を駅前で楽しめる施設で、2025年9月に開設10周年を迎えています。

国立天文台そのものを歩いた記録は、関連記事「三鷹|国立天文台の見学と4D2Uドームシアター」にまとめています。

山本有三記念館――文学者の暮らしを残す洋館

山本有三やまもと ゆうぞうは1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで、現在の三鷹市山本有三記念館となっている洋館で家族と暮らしました。ここで『路傍の石』や戯曲『米百俵』を執筆し、自らの蔵書を使って「ミタカ少国民文庫」も開いています。

戦後、建物は進駐軍に接収され、有三は転居しました。その後は研究所や文庫として使われ、1996(平成8)年に記念館として開館。作家の作品だけでなく、三鷹に文化人が暮らした時代の住環境を建物そのものから感じられる場所です。

三鷹市山本有三記念館の洋館
三鷹市山本有三記念館。Kakidai / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

当日の実際のコースと、三鷹であわせて巡りたい関連スポット

2023年7月17日の実際の街歩きは、太宰治展示室「三鷹の此の小さい家」から三鷹跨線人道橋へ向かい、三鷹駅周辺の太宰治ゆかりの場所をたどって太宰治文学サロンまで進んだところで終了しました。厳しい暑さのため、文学サロンより先の行程は中断しています。以下は、当日の訪問先に加え、既存記事で紹介してきた三鷹の関連史跡をまとめた一覧です。野川家跡、玉鹿石、山本有三記念館などはこの日の訪問先ではなく、別日に組み合わせやすい関連スポットです。

  1. 太宰治展示室 三鷹の此の小さい家――三鷹で暮らした太宰の生活を展示で知る
  2. 三鷹跨線人道橋跡ポケットスペース――1929年の橋と太宰の記憶をたどる
  3. 中鉢家跡――『ヴィヨンの妻』『朝』につながる最初の仕事場
  4. 太宰治のレリーフ――『乞食学生』に描かれた玉川上水の風景を読む
  5. 天文・科学情報スペース――「天文台のあるまち三鷹」の駅前拠点
  6. 太宰治文学サロン――伊勢元酒店跡に立つ文学施設
  7. 野川家跡――山崎富栄の下宿先で、太宰晩年の仕事場
  8. 玉鹿石――金木町から運ばれた太宰を偲ぶ無銘碑
  9. 三鷹市山本有三記念館――山本有三が暮らした洋館

現在の三鷹で、撤去前の景色を重ねる

2023年に歩いたとき、三鷹跨線人道橋はまだ線路の上に延び、太宰が訪れた場所を同じ高さから眺めることができました。現在は階段と橋桁の一部が地上に残り、その背後を中央線の電車が行き交います。失われた橋の輪郭を、保存された部材と写真からたどる場所へ変わりました。

そこから駅前の仕事場跡、伊勢元酒店跡の文学サロン、玉川上水、山本有三の洋館へ歩くと、三鷹が江戸の新田から鉄道の町へ、さらに文学と科学の文化拠点へ移っていった時間が一続きになります。橋があった時代を知る写真と、橋のない現在を同じ町で見比べられることが、この散歩の大きな魅力です。

現在地から歩ける史跡をTimeWalkで探す

三鷹のように文学・鉄道・水路の史跡が徒歩圏に重なる地域では、現地で次の立ち寄り先を探す楽しみもあります。TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。

現在地から歩ける史跡を地図で探す

参考資料