解説付き!神保町~駿河台の歴史を巡る夜散歩。学生街に隠れた史跡を巡ります。運動目的の参加もOKです♪

神保町〜駿河台ナイトウォーク イベント

今回訪れる予定の場所

1️⃣日本野球発祥の地
学士会館の敷地内に「日本野球発祥の地」の碑があります。当地は東京大学発祥の地でもあります。東大の前身開成学校が創設された場所で、明治5年(1872)学制施行当初、 第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏が学課の傍ら生徒達に野球を教えたそうです。これが「日本の野球の始まり」といわれています。ボールを握る右手をかたどった碑は ブロンズ製で、高さ2.4メートル。ボール上には世界地図が描かれ、日本と米国を縫い目によって結ぶことで「野球の国際化を表現」しています。

2️⃣東京大学発祥の地
 当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治10年(1877年)4月12日に神田錦町三丁目に在った東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当初は法学部・理学部・文学部・学部の4学部を以て編成され、法学部理学部・文学部の校舎は神田町三丁目の当地に設けられていた。
 明治18年(1885年) 法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一年を割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学に徐々に充実され明治18年までに本郷への移転を完了した。
従って、この地か我が国の大学発祥地すなわち東京大学発の地ということになる。
 明治19年3月東京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校と工芸学部が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農家大学として加えられ、法・工・文・理・濃の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。更に、明治30年(1897年)には京都帝国大学の設立伴い、東京帝国大学と改称された。
 明治40年に東北帝国大学、明治44年に九州市国大学、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪帝国大学、昭和14年に名古屋帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正13年に京城帝国大学、昭和3年に台北帝国大学かそれ設立された。
 昭和22年(1947年)に至って、右の七帝国大学にれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。明治19年7月創立の学士会は以上の九大学の卒業生等をて組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設しの経営に当っている。

3️⃣千代田区町名由来板 小川町三丁目(西部)
 江戸時代、 小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
このあたりはかつて、猿楽(のちの能楽) 師の観世太夫とその一座の屋敷があったため猿楽町、 鷹狩に使う鷹の飼育や調教を行う鷹匠が住んでいたことから元鷹匠町などと呼ばれていました。元禄六年(1693) 小川町と改称されました。 五代将軍綱吉が「生類憐みの令」 を施行、 鷹狩を禁止したため
改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、 「小川の清水」 と呼ばれる池が
あったからともいわれています。 江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を 「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」 と詠んでいます。
 安政三年(1856) の絵図では、この界隈に寄合医師和田春孝、 常陸土浦藩土屋家の上屋敷などが見られます。明治五年(1872) 周辺の武家地を整理し、 富士見坂を境に北側は猿楽町一丁目、南側は小川町となり、 明治十一年(1878)、 神田区に所属します。 ちなみに富士見坂の名は、 坂の上から富士山が見えたことに由来します。
明治時代の猿楽町一丁目には、英語、 漢学、 数学などを教える研精義塾、 裁縫を教える裁縫正鵠女学校や婚姻媒介所などがありました。 小川町には、 西洋料理店やビリヤード場、 小川町警察署などがあり、 学生たちで賑わう街でした。 また、 町内に過ごした昭和期の小説家永井龍男は、文藝春秋社で雑誌編集長を務めたのち、後年には文化勲章を受章しています。
昭和八年(1933) の区画整理により、ここは小川町三丁目となります。 昭和二十二年(1947) に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、 町名も神田小川町三丁目となりました。

4️⃣吾輩は猫である 碑

5️⃣東京音楽大学発祥の地
東京音楽大学は、東洋音楽学校 として明治40年この地に設立されました。校長鈴木米次郎は、音楽教育の先駆者で、恩師でもある伊沢修一, 高楠順次郎, 島崎赤太郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立しました。

6️⃣文化学院創立の地(旧文化学院校舎入口)
1921年4月に文化学院は、西村伊作、与謝野鉄幹、与謝野晶子、石井柏亭らによってこの地に創立され、その他山田耕筰、河崎なつ、有島生馬、高浜虚子らが教鞭をとった。その後、菊池寛、川端康成、佐藤春夫ら著名な文学者もつづいて加わった。

7️⃣山の上ホテル
1954年開業。かつて出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在やカンヅメ(執筆促進目的に強制滞在させられること)に使われることが多く、そのため「文化人のホテル」として知られており、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静らの作家が定宿としていた。三島は1955年当時、「東京の真中にかういふ静かな宿があるとは思はなかつた。設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人つぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」と使い心地の感想を語っている。

8️⃣小栗上野介生誕の地
ここに生まれ育った小栗上野介 (1827~1868)は、幕末この外交・財政政策をリードし、 横須賀に大造船所を建設してわが国の造船業が近代化する道を開いた。
Place of birth of Oguri Kozukenosuke
This is the place of birth of Oguri Kozukenosuke (1827-1868), who took the lead of the fiscal policy and the Japanese diplomacy in the late days of the Tokugawa shogunate. Through construction of big shipbuilding yard in Yokosuka city, he inaugurated the way for the modernization of the Japanese shipbuilding industry.

9️⃣軍艦山
大正12年(1923)の関東大震災では神田駿河台周辺においても火災により多くの建物が焼失しました。 震災後の復興区画整理事業により本郷通りと聖橋が整備され、 本郷通りと幽霊坂の交差部分には、 石垣による鋭角の角地ができました。 石垣をよく見ると、 幽霊坂側と本郷通り側では、 石種や石組みが異なるのがわかります。 この辺りは 「軍艦山」 と呼ばれ、特に昭和10年代には子ども達の遊び場となっていました。 軍艦山先端の石垣とクスノキは往時のまま残され、 岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を再利用したこの歴史案内板や広場のベンチと共に、神田駿河台の歴史ある風景を継承しています。

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イベントの様子

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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