上野公園の外周を歩く歴史散歩|両大師・東京藝大・寛永寺を巡る

上野公園の中には入らず、その外周を歩きます。両大師、東京国立博物館の外縁、国際子ども図書館、東京藝術大学、都立上野高校、寛永寺へ進むと、現在の公園境界を越えて旧寛永寺の歴史が続いていることが分かります。

公園内を含む上野の歴史全体は、上野公園まるわかりガイド|寛永寺・上野戦争・博物館の森を歩いて学ぶ歴史散歩で時代順にまとめています。このページでは旧寛永寺の寺域が公園の外側まで続いていたことに焦点を当てます。

江戸時代の寛永寺は、現在の上野公園を中心に約30万5千坪、36坊の子院を擁した巨大寺院でした。1868年の上野戦争で主要伽藍の多くを失い、明治以降、その旧寺域には公園、博物館、図書館、学校などが置かれます。外周を歩く今回のコースでは、その土地の転換を公園の外側からたどります。

徳川将軍家の系図
寛永寺は徳川将軍家と深く結びつき、将軍家の菩提寺として発展しました。

上野公園の外にも寛永寺の歴史が続く

寛永寺かんえいじは1625年、天海てんかいによって創建されました。山号の「東叡山」は「東の比叡山」を意味し、江戸城の鬼門にあたる上野の山に、京都の比叡山延暦寺にならう寺院を築きました。のちに徳川将軍家の菩提寺となり、上野の山一帯に伽藍と子院が広がります。

現在の上野公園は旧寛永寺寺域の一部です。公園の外へ出ても両大師や現在の寛永寺があり、旧子院跡には学校や文化施設が建っています。現在の公園境界と江戸時代の寺域を重ねて歩くことが、このコースの特徴です。

両大師――寛永寺を開いた天海を祀る

両大師りょうだいしの開山堂は1644年、寛永寺を開いた天海を祀る堂として建立されました。天海は朝廷から慈眼大師の諡号を贈られ、のちに天海が崇敬した良源りょうげん(慈恵大師)も祀られたため、「両大師」と呼ばれます。

天海は上野の山に吉野の桜を取り寄せ、不忍池には蓮を植えたと伝わります。現在の上野を代表する桜の景観も、寛永寺の寺域整備と結びついています。

博物館の外側――ここには寛永寺本坊があった

東京国立博物館の敷地付近には、江戸時代の寛永寺本坊がありました。本坊は寺務を担う中心施設でしたが、1868年の上野戦争で焼失します。戦火を免れた旧本坊表門は、現在も東京国立博物館の黒門として残っています。

東京国立博物館は1872年の湯島聖堂博覧会を創立の起点とし、1882年に上野へ移りました。外周から博物館を見ると、徳川家と結びついた寺院の中枢が、明治国家の博物館へ変わった土地の履歴が重なります。

国際子ども図書館――帝国図書館から続く建築

上野公園の北東側に建つ国際子ども図書館のレンガ棟は、1906年に帝国図書館として建てられ、1929年に増築されました。戦後は国立国会図書館支部上野図書館となり、2000年に国際子ども図書館として開館しました。

明治期の帝国図書館外観
1906年に開館した帝国図書館。現在の国際子ども図書館レンガ棟(国立国会図書館)

明治期の上野には、博物館だけでなく図書館や美術学校などの文化・教育施設が集まりました。寛永寺の巨大寺域だった土地が、近代日本の文化拠点へ転換していく過程を、この建物が伝えています。

東京藝術大学――教育博物館跡から芸術教育の拠点へ

東京藝術大学美術学部の前身・東京美術学校は1887年に設置され、1888年に旧教育博物館跡の現在地へ移り、1889年に授業を開始しました。設立には岡倉天心おかくらてんしん、アーネスト・フェノロサらが関わりました。

東京藝術大学上野キャンパス正門
東京藝術大学上野キャンパス正門。撮影:Kakidai / Wikimedia Commons(CC BY-SA)

音楽学部の前身は東京音楽学校です。1949年、東京美術学校と東京音楽学校を母体として東京藝術大学が発足しました。公園の外周を歩くと、明治政府が上野に集めた博物館・図書館・芸術教育施設が近い範囲に並んでいることが分かります。上野キャンパスに残る岡倉天心像やロダン作品などは、東京藝術大学の銅像・記念像28体で人物と作者の関係から紹介しています。

東京美術学校の美術祭から続く学生文化は、現在の藝祭にも受け継がれています。1年生が御輿・法被・音楽をつくる藝祭「開口一番」の歴史と見どころで、1903年から現在までの変化を紹介しています。

都立上野高校――寛永寺の子院跡に建つ学校

都立上野高校は1924年、第二東京市立中学校として創立しました。1926年に寛永寺の子院・護国院ごこくいん跡地である現在地への校舎建設が決まり、1928年に完成しました。

旧寺域が近代の教育施設へ変わった例は、東京藝術大学だけではありません。現在の学校配置にも、寛永寺の広大な寺域が解体・転用された歴史が残っています。

現在の寛永寺――公園から離れた場所に本寺がある理由

江戸時代の寛永寺根本中堂は、現在の上野公園噴水広場付近にありました。1868年の上野戦争で焼失し、1879年、旧子院・大慈院跡の現在地に川越喜多院の本地堂を移築して新しい根本中堂としました。

上野の寛永寺根本中堂
現在の寛永寺根本中堂。撮影:Reggaeman / Wikimedia Commons(CC BY-SA)

現在の寛永寺が上野公園の中心から離れて見えるのは、寺が移動したというより、巨大だった旧寺域の多くが明治以降に公園や文化施設へ変わり、寺の中心が旧子院跡で再建されたためです。公園の外周を歩き、最後に現在の寛永寺へ着くと、江戸と現在の土地利用の違いを実感できます。

上野戦争が変えた上野の山

1868年、旧幕府側の彰義隊と新政府軍が上野で戦い、寛永寺の根本中堂や本坊など主要伽藍の多くが焼失しました。その後、寺域の多くは明治政府に接収され、1873年には上野公園が開園します。

上野戦争を境に、将軍家の菩提寺を中心とする寺院都市は、公園と博物館、図書館、学校が集まる近代の文化地区へ変わっていきました。今回歩く外周には、その変化の境界に位置する施設が連なっています。

上野公園外周の散歩ルート

  1. 上野公園口広場周辺
  2. 両大師
  3. 東京国立博物館の外縁
  4. 国際子ども図書館
  5. 東京藝術大学
  6. 都立上野高校周辺
  7. 寛永寺

公園内の定番スポットを巡るのではなく、境界に沿って歩くことで、旧寛永寺寺域の広がりと、明治以降に生まれた文化・教育施設の配置をたどるコースです。

参考資料

  • 東叡山寛永寺「寛永寺の歴史」
  • 寛永寺開山堂 両大師「両大師について」
  • 東京国立博物館「館の歴史」
  • 国立国会図書館 国際子ども図書館「沿革」「建物の歴史」
  • 東京藝術大学「沿革」
  • 東京都立上野高等学校「沿革」

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