


下目黒
東京都目黒区下目黒(しもめぐろ)は一丁目から六丁目がある。東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺(目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。
江戸時代の下目黒は下目黒村を形成し、米・麦・菜・タケノコなどを栽培する普通の農村であったが、下目黒村でも一部、大鳥神社や目黒不動(瀧泉寺)を中心とする寺社群は江戸町民が多く参詣する門前町を形成し茶屋・料理屋・土産物屋で繁盛していた。これらを訪れる目黒詣では江戸市民の四季折々の楽しみとして賑わい、行人坂や権之助坂は参詣及び下目黒村の農産物を運ぶ道として交通が多かった。
目黒一帯は江戸時代から明治にかけてタケノコの名産地として知られていた。目黒不動の門前の数軒の茶屋ではタケノコ飯が名物として、筍の旬にはこれが目当てで参詣する人が多かったとされる[9]。行人坂から目黒川を目黒太鼓橋で渡り、門前まで至る1kmほどの道の両側には、タケノコ飯の他にアワ餅や飴などの店が並んでいた。
目黒競馬場
1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで、現在の東京都目黒区下目黒に存在した1周1マイルの競馬場。閉鎖と同時に、現在の東京競馬場(府中市)に移転された。
1907年12月、馬券黙許時代の到来で日本競馬会によって開設された。1908年には馬券発売は再禁止され、馬券を売れない競馬は不人気で競馬場は閑散とした。1914年(大正3年)勝馬投票券(払い戻しは景品券)の実施、1923年(大正12年)には競馬法(旧競馬法)の制定で再び現金で払い戻す馬券(名称は勝馬投票券のまま)が売れるようになり客足も増えていった。
1932年(昭和7年)に日本の近代競馬の基幹競走となる東京優駿大競走(日本ダービー)が創設され、第1回はこの目黒の地で開催されるなど観客席は満場となる人気を集めていった。この頃には近隣の宅地化進展によって敷地を広げることや施設の拡充が難しくなっていたこと、敷地の大部分が借地であり地主からは地代の値上げを要求されていたことから、府中に土地を取得し移転した。
跡地は住宅地化されているが、当時の外周道路の一部が路地となって残っており、また跡地周辺の道路の一部は非公式に「元競馬場通り」と地元で通称されている。
今回いくところ
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- かむろ坂公園
- 羅漢寺川プロムナード
- 羅漢寺川ふれあい広場
- 目黒競馬場跡
- 元競馬南泉公園
- 元競馬場通り
- 経由地※目黒競馬場跡の道を歩く
- 目黒競馬場跡 「トウルヌソル号」
- セブンイレブン 目黒元競馬場店
- 豪邸
- 豪邸
- 豪邸
- 行人坂(このまま駅へ)