(不動前~下目黒)目黒競馬場跡などマニアックな史跡巡り散歩

【紫色:主な見附 白色:主なスポット 青色:現在の主要線路】見附とは見張り番所がある城門のことで、江戸城の見附は主に枡形門と堀に架けられた橋が一体となったものが多かった。実際は36以上あったが俗に江戸城三十六見附と呼ばれている。現在でも一部残っている。
青葉台(あおばだい) 大岡山(おおおかやま) 大橋(おおはし) 柿の木坂(かきのきざか) 上目黒(かみめぐろ) 五本木(ごほんぎ) 駒場(こまば) 下目黒(しもめぐろ) 自由が丘(じゆうがおか) 洗足(せんぞく) 平町(たいらまち) 鷹番(たかばん) 中央町(ちゅうおうちょう) 中町(なかちょう) 中根(なかね) 中目黒(なかめぐろ) 原町(はらまち) 東が丘(ひがしがおか) 東山(ひがしやま) 碑文谷(ひもんや) 三田(みた) 緑が丘(みどりがおか) 南(みなみ) 目黒(めぐろ) 目黒本町(めぐろほんちょう) 八雲(やくも) 祐天寺(ゆうてんじ)

下目黒

東京都目黒区下目黒(しもめぐろ)は一丁目から六丁目がある。東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺(目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。

江戸時代の下目黒は下目黒村を形成し、米・麦・菜・タケノコなどを栽培する普通の農村であったが、下目黒村でも一部、大鳥神社や目黒不動(瀧泉寺)を中心とする寺社群は江戸町民が多く参詣する門前町を形成し茶屋・料理屋・土産物屋で繁盛していた。これらを訪れる目黒詣では江戸市民の四季折々の楽しみとして賑わい、行人坂や権之助坂は参詣及び下目黒村の農産物を運ぶ道として交通が多かった。

目黒一帯は江戸時代から明治にかけてタケノコの名産地として知られていた。目黒不動の門前の数軒の茶屋ではタケノコ飯が名物として、筍の旬にはこれが目当てで参詣する人が多かったとされる[9]。行人坂から目黒川を目黒太鼓橋で渡り、門前まで至る1kmほどの道の両側には、タケノコ飯の他にアワ餅や飴などの店が並んでいた。

目黒競馬場

1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで、現在の東京都目黒区下目黒に存在した1周1マイルの競馬場。閉鎖と同時に、現在の東京競馬場(府中市)に移転された。

1907年12月、馬券黙許時代の到来で日本競馬会によって開設された。1908年には馬券発売は再禁止され、馬券を売れない競馬は不人気で競馬場は閑散とした。1914年(大正3年)勝馬投票券(払い戻しは景品券)の実施、1923年(大正12年)には競馬法(旧競馬法)の制定で再び現金で払い戻す馬券(名称は勝馬投票券のまま)が売れるようになり客足も増えていった。

1932年(昭和7年)に日本の近代競馬の基幹競走となる東京優駿大競走(日本ダービー)が創設され、第1回はこの目黒の地で開催されるなど観客席は満場となる人気を集めていった。この頃には近隣の宅地化進展によって敷地を広げることや施設の拡充が難しくなっていたこと、敷地の大部分が借地であり地主からは地代の値上げを要求されていたことから、府中に土地を取得し移転した。

跡地は住宅地化されているが、当時の外周道路の一部が路地となって残っており、また跡地周辺の道路の一部は非公式に「元競馬場通り」と地元で通称されている。

今回いくところ

以下のリンクはGoogleマップのリンクです。マップの保存をしていれば説明がみれます。マップの保存についてはこちら

  1. かむろ坂公園
  2. 羅漢寺川プロムナード
  3. 羅漢寺川ふれあい広場
  4. 目黒競馬場跡
  5. 元競馬南泉公園
  6. 元競馬場通り
  7. 経由地※目黒競馬場跡の道を歩く
  8. 目黒競馬場跡 「トウルヌソル号」
  9. セブンイレブン 目黒元競馬場店
  10. 豪邸
  11. 豪邸
  12. 豪邸
  13. 行人坂(このまま駅へ)

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 運営者
なかまつ

北海道大学工学部卒。現在はIT系会社員の傍ら、年間400回以上の街歩きイベントを企画し、これまで延べ25,000名以上の方にご参加いただいている、ゆる歴史散歩サークルを運営しています。東京の歴史・文化・建築・地形などを、初心者でも気軽に楽しめるイベントとして企画しています。

なかまつをフォローする
イベント