2023年11月、JR水道橋駅から日本橋川沿いを歩き、日本橋を越えて河口近くの豊海橋までたどるルートを歩きました。小石川門跡、雉子橋門跡、鎌倉河岸、常盤橋、日本橋、鎧の渡し跡などをつなぐと、江戸城の外堀だった川が、物流と商業を支える水路へ発展していった姿を追えます。
このページでは当日のルート順に見どころをまとめています。日本橋川の成り立ちや各史跡を詳しく知りたい場合は、水道橋から日本橋まで日本橋川を歩く|江戸城外濠・河岸・水運の歴史散歩もあわせてご覧ください。

水道橋から歩き始める|日本橋川は江戸城外郭の水路だった
日本橋川は、水道橋駅付近で神田川から分かれ、大手町、日本橋を通って隅田川へ注ぐ全長4.84kmの一級河川です。現在は首都高速道路の高架下を流れる区間が目立ちますが、江戸時代には江戸城外郭の堀と、町へ物資を運ぶ水路という二つの役割を担いました。
最初の立ち寄り先は小石川門跡です。小石川門は1636年に築かれた江戸城外郭門で、明治期に撤去された石垣の一部は、下流にある常磐橋の石材へ転用されました。上流の門跡と下流の石橋が、同じ石材でつながっている点は、このルートならではの見どころです。
讃岐高松藩上屋敷跡から俎橋へ|大名屋敷と変化した川筋
小石川門跡から日本橋川沿いに進むと、讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡、讃岐高松藩上屋敷の庭園跡があります。発掘調査では庭園の池跡や護岸などが確認され、大名屋敷の生活空間が現在の街路の下に残っていることが分かっています。
さらに下流の俎橋児童遊園周辺は、日本橋川の流路変化を理解しやすい場所です。現在は一本につながる川ですが、江戸時代には一部が埋め立てられ、その後に舟運の必要から再び掘られました。明治期にも再開削が行われ、現在につながる流路が形成されました。
雉子橋門から一橋へ|川沿いに続いた江戸城の防御線
江戸城 雉子橋門石垣跡は、かつて橋と枡形門が一体となって江戸城外郭を守った場所です。日本橋川沿いには小石川門、雉子橋門、一橋門、神田橋門、常盤橋門が並び、川そのものが江戸城を囲む防御線の一部でした。
続く一橋徳川家屋敷跡は、御三卿の一つである一橋徳川家の屋敷が置かれた場所です。8代将軍徳川吉宗の四男・宗尹が一橋門内に屋敷を与えられたことから一橋家が始まり、のちに15代将軍となる徳川慶喜もこの家を継ぎました。

鎌倉河岸から常盤橋へ|江戸を支えた物流の川
鎌倉河岸跡まで来ると、日本橋川は城を守る堀に加えて、江戸の物流を支えた川としての性格がはっきりします。河岸には舟が着き、石材、材木、酒、青物など大量の物資が荷揚げされました。鎌倉河岸は江戸城築城用の石材を運び込んだ場所として知られ、その後も商業地として発展しました。

常盤橋公園には江戸城常盤橋門の石垣が残ります。近くに架かる石造アーチの常磐橋は1877年の架橋で、小石川門など江戸城の門を撤去した際の石材が使われました。散歩の起点近くで見た小石川門の歴史が、ここで再びつながります。
日本橋|街道と水運が交差した江戸の中心
日本橋は1603年に最初の橋が架けられ、五街道の起点となりました。陸上交通の基準点である一方、橋の周辺には魚河岸が広がり、日本橋川を通じて運ばれた魚介が集まりました。川と街道が交差する立地が、日本橋を江戸屈指の商業地へ育てました。


鎧の渡しから豊海橋へ|日本橋の先に続く川を歩く
この日のルートは日本橋で終わらず、さらに下流へ進みました。鎧の渡し跡は、1872年に鎧橋が架けられるまで渡船があった場所です。江戸時代の日本橋川では、橋だけでなく渡し船も両岸を結ぶ交通手段でした。
終点は豊海橋たもと展望テラスです。豊海橋は日本橋川が隅田川へ近づく場所にあり、現在の橋は関東大震災後の復興事業で1927年に完成しました。水道橋から歩いてきた川が、江戸城の外堀、商業地の水路、近代都市の河川へと役割を変えてきた流れを、ここまで歩くと一続きに感じられます。
2023年11月の散歩ルート
日本橋までの区間について、川の成り立ち、外堀、河岸、水運、魚河岸、現在の首都高速地下化まで詳しくまとめた記事は、水道橋から日本橋まで日本橋川を歩く|江戸城外濠・河岸・水運の歴史散歩をご覧ください。

