文明9年(1477)、現在の東京都中野区江古田・沼袋周辺で、太田道灌の軍勢と豊島氏の軍勢が戦いました。江古田・沼袋原の戦いは、関東の武士勢力が対立した長尾景春の乱と深く関係しています。豊島氏は練馬城・石神井城を拠点とし、道灌は江戸城と河越城を結ぶ交通路を守る必要がありました。
1477年の関東で何が起きていたのか
室町時代の関東では、古河公方と上杉氏の争いに加え、上杉方の内部対立も続いていました。文明8年(1476)に始まる長尾景春の乱では、山内上杉氏の家宰だった長尾景春が反旗を翻し、周囲の武士たちも陣営を分けました。豊島氏は景春方に加わり、江戸城を守る扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と対立しました。
道灌と豊島氏が江古田で戦った理由
豊島氏の勢力圏には石神井城と練馬城がありました。両城は石神井川の流域に位置し、江戸城から武蔵国西部へ向かう連絡に影響する場所でした。道灌は練馬城を攻撃し、豊島氏の軍勢を動かしました。石神井城主の豊島泰経と練馬城主の豊島泰明は協力して出撃し、江古田原付近で道灌軍と衝突しました。
江古田・沼袋原の戦いと豊島氏の敗北
戦いは文明9年4月13日(旧暦)に起こりました。豊島方は敗れ、豊島泰明らが戦死したと伝えられています。豊島泰経は石神井城へ退き、その後も道灌の攻撃を受けました。中野区はこの戦いを、中野の地名「江古田」が史料に現れる重要な出来事として紹介しています。道灌の書状である「道灌状」にも江古田原の地名が記されています。
江古田古戦場の場所と周辺に残る史跡

中野区松が丘の江古田公園には江古田古戦場の碑があります。周辺には合戦の戦死者に関係すると伝えられる塚や、太田道灌の伝承を持つ寺社が点在しています。これらは合戦の記憶が地域に継承されてきたことを伝えますが、碑や伝承の位置だけから戦闘の全範囲を確定することはできません。
江古田から練馬城、石神井城までを関連づけると、豊島氏が石神井川流域に築いた拠点と道灌の軍事行動が理解できます。江古田古戦場を歩く歴史散歩にも周辺の寺社・史跡が記録されています。
江古田原の戦いが起こった地域には、国指定名勝の哲学堂公園や旧野方配水塔など異なる時代の文化財も残っています。江古田・哲学堂周辺の歴史と文化財では周辺の史跡を地域史のなかで紹介しています。

