江戸川橋~市ヶ谷の歴史散歩!近藤勇の道場「試衛館」や文豪ゆかりの地も立ち寄ります

生田春月旧居跡

生田 春月( いくた しゅんげつ、1892~1930、本名・清平)は鳥取県米子市に生まれた。生家の事業の失敗から転居を重ね、幼少年期に朝鮮や大阪などで流浪の生活を送るなど辛酸をなめた。9歳頃より詩作を始め16歳で上京、同郷の先輩で小説家の生田長江の書生として創作活動を開始した。この時、同じく書生として長江宅に寄寓していたのが詩人・佐藤春夫である。春月は、大正3年以来、亡くなる昭和5年までの足かけ16年間を、弁天町・天神町など牛込の地で過ごした。詩作のかたわら独逸語専修学校の夜学でドイツ語を学んだ春月は、ハイネなどドイツ文学を紹介したり、ツルゲーネフ、ゴーリキーらの作品を翻訳したりもした。大正6年、天神町在住時には第一詩集『霊魂の秋』を発表、翌年発表した第二詩集『感傷の春』により詩人としての地位を確立した。その後も『春月小曲集』『慰めの国』『夢心地』『自然の恵み』などの詩集や、長編小説『相寄る魂』、評論『真実に生きる悩み』『山家文学論集』など、すべて牛込の地で著されたが、さまざまな相克に苦悩し、昭和5年5月19日別府行きの船上より播磨灘に投身自殺した。(出典:新宿ゆかりの文学者)

泉鏡花旧宅跡

泉 鏡花(いずみ きょうか、1873~1939)は、金沢生れで、本名は鏡太郎。北陸英和学校中退。1890(明治23)年上京、翌年より尾崎紅葉に師事。1895年発表の「夜行巡査」「外科室」が“観念小説”の呼称を得て新進作家としての地歩を確立。以後、「照葉狂言」「高野聖」「婦系図」「歌行燈」、戯曲「天守物語」等、浪漫的・神秘的作風に転じ、明治・大正・昭和を通じて独自の境地を開いた。絶筆「縷紅新草」も三島由紀夫の絶賛を受ける。生誕百年の1973(昭和48)年には金沢市により泉鏡花文学賞が創設された。

尺家旧居跡

試衛館跡

士学館【鏡新明智流】
1773年、桃井直由が現在の中央区日本橋茅場町に開設、のちに中央区新富に移転。明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設される。道場主の桃井や士学館四天王が採用され、桃井門下は警視庁剣道の一大勢力となった。鏡新明智流は途絶えているが、今の警視庁にわずかに形を残している。

玄武館【北辰一刀流】
1822年、千葉周作が日本橋品川町に開設、のちに神田於玉ヶ池に移転。門弟には坂本龍馬、浪士組を作った清河八郎、江戸無血開場立役者の山岡鉄舟、新選組の山南敬助などがいる。

練兵館【神道無念流】
1826年、斎藤弥九郎が九段坂下(俎橋付近)に開設、のちに九段坂上に移転し、東京招魂社(現靖国神社)創建により立ち退き牛込見附内に移転。門弟には長州藩の桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文、品川弥二郎などがいる。

以上が、江戸三大道場で「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と呼ばれる。

試衛館【天然理心流】
1839年、天然理心流宗家3代目・近藤周助(周斎)が現在の新宿区市谷に開設。門弟には近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一などがいる。近藤勇は3代目である近藤周斎の養子で天然理心流宗家4代目となっている。

旧野本耳鼻科医院の洋館

柳田國男旧居跡

柳田 國男(やなぎた くにお、1875~1962)「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家。明治8年7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川と いう農村の医者・国学者であった父松岡操の六男として生まれる。東京帝国大学法科大学(現東京大学)で農政学を学ぶ。大学卒業後、「農政官僚」となり、明治34年に信州飯田藩出身の柳田家の養嗣子となる。視察や講演旅行で日本各地の実情に触れ、普通の人々への関心を深め、文書に書かれた政治や事件が中心の従来の歴史学を批判、名もなき庶民(常民)の歴史や文化を明らかにしたいと考え、「常民文化の探求」と「郷土研究」 の必要性を説く。新宿区市谷加賀町は明治34年(1901)から27年間(26歳~52歳)を過ごした場所であり、この地において民俗学への関心を深め『遠野物語』などの初期の著作を執筆。まさに「民俗学者柳田國男」誕生の地といえる場所である。

浄瑠璃坂の仇討跡

浄瑠璃坂の仇討(じょうるりざかのあだうち)は、寛文12年2月3日(西暦1672年3月2日)に宇都宮藩元藩士の「奥平源八」が父の仇である同藩元藩士奥平隼人を討った事件。筆写本や出版によって全国に普及され、講談や芝居にも仕組まれ、江戸時代における三大仇討のひとつと称された。「伊賀越の仇討ち」、「赤穂浪士の討ち入り」と合わせて江戸三大仇討ちと称されることも多いが、近年では仇討ちの原因の分かりにくさや当事者の関係の煩雑さもあり取り上げられることが少なくなっている。

女人芸術社跡

女人芸術(にょにんげいじゅつ)、長谷川時雨が主宰して、1928年(昭和3年)7月から1932年(昭和7年)6月まで48冊を出した女性の文芸・総合雑誌で、次第に女性解放の理論誌的色彩を濃くした。当時「女性進出」に意欲を持っていた女流作家で、姉御的気質とも言われた長谷川時雨は、1928年7月に後進に発表の場を開き、婦人の解放を進めるため、女性が書いて編集してデザインして出版する商業雑誌、『女人芸術』を発刊した。

定火消発祥の地(市ヶ谷駅)

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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