

坂東八平氏(平良文)
今回いくところ
- 次大夫堀(じだゆうぼり)公園
- 世田谷の農村風景の典型的なイメージと昔ながらの小川を復元
- 小泉次大夫(1539 – 1624)が昔この地域の用水を確保するために作った堀の名が由来
- 小泉次大夫は戦国時代から江戸時代初期の旗本代官および用水奉行。
- 公式HP
- 喜多見須賀神社(天神塚古墳)
- 承応年間(1652~1654)に喜多見重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりといわれ、近郊では「天王様(てんのうさま)」とよばれて親しまれている。
- 当社は小高い塚の上に建っており、この塚は古墳(天神塚古墳)といわれている。
- 境内には「元治元年(1864)甲子六月申日願主当所祭礼講中」と刻まれた石の手洗鉢がある。
- 慶元寺
- 慶元寺(けいげんじ)は永劫山華林院と号す浄土宗の寺院で、江戸時代に2万石の大名となった喜多見(江戸氏)氏の菩提寺。
- 寺の院号華林院は喜多見勝忠(江戸勝重)の法名「華林宗珍」によるもので、これは大徳寺派の僧・沢庵が授けたものであった。
- 勝忠は古田織部から茶の湯を習い、小堀遠州、沢庵らとも茶道を通じて親交を深めた。勝忠の三男・喜多見久大夫勝重も小堀遠州に師事し皆伝を受け、のちに自ら喜多見流茶道を創始した。
- 江戸氏は関東の武家の名門で、室町時代の中頃、旧領江戸庄を離れ木田見に移住したと伝えられている。
- 後北条氏にかわって関東に入国した徳川家康は、関東各地に潜居していた名族の者を取り立て、江戸勝重(のち喜多見勝忠)も推挙されて家康の御家人となる。
- 勝重の孫・重政は5代将軍家綱の側用人となり2万石の大名に出世したが、元禄2年(1689)一族の刃傷事件に連座して御家断絶となった。
- 墓所には寛永4年(1627)に没した勝忠をはじめ一族の墓石や江戸氏歴代の供養塔、石灯籠などが置かれている。
- 喜多見氷川神社
- 土屋塚古墳(時間あれば)
- 狛江の小さな沖縄資料館
- 沖縄の男子学生寮、南灯寮のある狛江。 この狛江で開催された沖縄復帰50年記念イベント”かじうむい” その思いは第6回キタコマ沖縄映画祭に、さらに大城弘明・山城博明というふたりの沖縄を代表する報道カメラマンの写真展に引き継がれ、そしてアートと自然を取り込んだ資料館へと進化中。館長は余命半年の高山正樹。(https://x.com/kaziumuiより)
- 紹介記事(東京新聞)