赤坂4〜8丁目の歴史散歩|高橋是清邸跡・二・二六事件・武家屋敷門を巡る

歌川広重「名所江戸百景 赤坂桐畑」に描かれた江戸時代の赤坂と溜池

赤坂4丁目から8丁目へ歩くと、坂の名や旧町名の向こうに、江戸の武家地、明治以降の軍用地、昭和の政治史、戦後の放送の街が重なって見えてきます。高橋是清邸跡、近衛歩兵第三聯隊跡、円通寺坂、弾正坂、国指定重要文化財の武家屋敷門、丹後坂、乃木坂をたどり、赤坂見附へ向かいます。

赤坂4〜8丁目の歴史|武家地から軍都、放送の街へ

港区の地名資料によると、江戸時代の赤坂は大半が武家地でした。1878年(明治11)に赤坂・青山地区が赤坂区となり、1947年(昭和22)の港区成立を経て、1966年(昭和41)の住居表示で赤坂一ツ木町、赤坂丹後町、赤坂表町、赤坂台町、赤坂新坂町などの旧町名が現在の「赤坂」へまとめられました。

現在の赤坂4丁目には旧赤坂丹後町や赤坂一ツ木町の一部、5丁目には赤坂一ツ木町の一部、7丁目には赤坂台町など、8丁目には赤坂新坂町や赤坂檜町などの記憶が重なります。坂道と旧町名を追うと、ビル街の下に江戸以来の土地の輪郭が残っています。

高橋是清翁記念公園|二・二六事件の現場

高橋是清翁記念公園(赤坂7丁目3番39号)は、高橋是清たかはしこれきよの邸宅跡です。高橋は日本銀行総裁、首相、大蔵大臣などを務め、日露戦争では外債募集に関わり、昭和恐慌後には積極財政を進めました。晩年は軍事費の抑制を図り、1936年(昭和11)2月26日、二・二六事件で邸宅を襲撃されて亡くなりました。

二・二六事件では、陸軍の青年将校らが約1400人の部隊を率いて政府中枢を襲撃し、高橋是清、内大臣の斎藤実らを殺害しました。反乱部隊は東京中心部を占拠しましたが、2月29日までに鎮圧されました。赤坂の邸宅跡は、昭和前期の政治と軍部の緊張が現実の事件となった場所です。

邸宅の主屋は1902年(明治35)に建てられました。現在は江戸東京たてもの園へ移築保存され、2階の書斎・寝室は二・二六事件の現場として伝えられています。赤坂には庭園の一部が残り、1938年(昭和13)に記念事業会から東京市へ寄付され、1941年(昭和16)に記念公園として開園しました。

江戸東京たてもの園に移築された高橋是清邸
江戸東京たてもの園に移築保存されている高橋是清邸。

円通寺坂|1695年の寺院移転が残した坂名

円通寺坂えんつうじざかは、赤坂4丁目13番と5丁目2番の間を通る坂です。港区によると、元禄8年(1695)に付近から坂上南側へ移転した円通寺にちなみ、この名で呼ばれるようになりました。現在は円通寺坂公園があり、坂を歩きながら旧町の高低差を確かめられます。

近衛歩兵第三聯隊跡|軍用地からTBS・赤坂サカスへ

近衛歩兵第三聯隊跡は、赤坂5丁目の近代史を知る重要な地点です。近衛このえ歩兵第三聯隊は1885年(明治18)、当時の赤坂一ツ木町に置かれました。二・二六事件では同聯隊の兵も反乱部隊に加わり、赤坂周辺は事件の主要な舞台の一つとなりました。

戦後、旧軍用地の一帯には被災者や引き揚げ者のための住宅が置かれました。その後、1955年(昭和30)にラジオ東京がこの地でテレビ放送を開始します。現在はTBS放送センターや赤坂サカスが立ち、軍隊の街から放送・文化の街へ土地利用が大きく変わりました。

弾正坂|吉井藩松平家の屋敷が残した名

弾正坂だんじょうざかは、赤坂4丁目9番と18番の間にあります。坂の西側には江戸時代、吉井藩松平家の屋敷があり、同家では代々「弾正大弼」に任ぜられることが多かったため、弾正坂と呼ばれるようになりました。現在の道幅や建物が変わっても、坂名には大名屋敷の記憶が残っています。

武家屋敷門(志の門)|丸の内から赤坂へ移った重要文化財

山脇学園に立つ武家屋敷門ぶけやしきもん(志の門)は、国指定重要文化財です。文化庁の登録では1862〜1864年の建築で、桁行21.8メートル、梁間4.7メートルの二階建て長屋門です。

もとは江戸幕府の老中を務めた岡崎藩主・本多忠民ほんだただもとの上屋敷門で、屋敷は現在の丸の内・東京中央郵便局付近にありました。門は移築を重ね、1974年(昭和49)に山脇学園の臨海施設へ移され、2016年(平成28)に赤坂の校地へ移築されました。山脇学園では「志の門」と呼ばれています。

通常は道路側から外観を望めます。門の内部や通り抜けは特別公開の機会に限られるため、現地では巨大な長屋門の外観と、赤坂の街路との対比が見どころです。

丹後坂と赤坂丹後町|旧町名を地形から読む

丹後坂たんござかは、赤坂4丁目2番と5番の間にあります。港区は、元禄年間(1688〜1704)に開かれたと推定し、坂の北東側に米倉丹後守の屋敷があったことを名の由来として紹介しています。西尾丹後守の屋敷に由来するという説も伝わります。

この一帯には1966年まで赤坂丹後町の町名が残っていました。現在の赤坂4丁目を歩くと、丹後坂や高低差の大きい路地が、旧町名と江戸の武家地をつなぐ手掛かりになります。

赤坂8丁目・乃木坂|乃木希典の名が残る坂

赤坂8丁目から9丁目の境にある乃木坂のぎざかは、かつて幽霊坂、行合坂などと呼ばれていました。港区の資料では、大正元年(1912)、乃木希典のぎまれすけの葬儀と同時に幽霊坂から乃木坂へ改称されたとされています。乃木は1879年(明治12)から赤坂のこの地に住み、現在の乃木公園には旧乃木邸が残っています。

1930年の旧乃木邸
旧乃木邸、1930年。『大東京写真帖』/国立国会図書館/Wikimedia Commons/Public Domain。

乃木坂から六本木7丁目へ続く軍用地と街の変化は、六本木7丁目・乃木坂の歴史散歩で、歩兵第三連隊、国立新美術館、東京ミッドタウンまでつなげて紹介しています。

赤坂見附へ|旧町名と江戸城外郭の記憶

散歩の終点は、赤坂地区旧町名由来板がある赤坂見附駅周辺です。「見附」は江戸城の城門と見張りの施設を指す言葉で、赤坂見附という駅名には江戸城外郭の記憶が残っています。

1930年代後半の赤坂見附駅の改札口と駅通路
1930年代後半の赤坂見附駅。東京高速鉄道時代の改札口と駅通路。東京都立図書館/Wikimedia Commons/Public Domain

溜池、赤坂氷川神社、勝海舟ゆかりの地、三分坂まで含めて歩くなら、赤坂の歴史散歩|溜池・赤坂氷川神社・勝海舟・江戸の坂道を巡るへ続けられます。青山一丁目から高橋是清邸や武家屋敷門へ向かう別ルートは、青山一丁目から赤坂まで、史跡を巡りながら歩くコースにまとめています。

参考資料