旧古川邸庭園のバラ〜お札と切手の博物館〜荒川知水資料館〜本郷給水所公苑〜表参道〜新宿地下巡り

08:00~旧古川邸庭園

武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。この庭園はもと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅でしたが、次男が古河家の養子になったのち、古河家の所有となりました。尚、この当時の建物は現存していません。現在の洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920)です。博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを設計し、我が国の建築界に多大な貢献をしました。日本庭園の作庭者は、京都の庭師・七代目植治こと小川治兵衛(1860~1933)。彼は近代日本庭園の先駆者とされる作庭家、庭師と言われ、当園以外にも山縣有朋の京都別邸である無鄰菴平安神宮神苑円山公園南禅寺界隈の財界人の別荘庭園などを作庭しました。

戦後、国へ所有権が移りましたが、地元の要望などを取り入れて、東京都が国から無償で借り受け、一般公開されました。数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例となっています。また、現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない事例として重要であることから、平成18年1月26日に文化財保護法により国の名勝指定を受けました。

10:00~お札と切手の博物館

国立印刷局が大蔵省紙幣司の名で創設されたのは、明治4年のことです。我が国において近代的なお札や切手が誕生したのも、やはり同じ頃のできごとです。それから150年、国立印刷局は日本のお札づくり、切手づくりに一貫して携わり、その製品と共に歩んできました。その結果、今日に至るまで製造された数々の製品は、お札や切手の歴史、印刷技術の歴史を物語る貴重な資料となっております。当館「お札と切手の博物館」は、昭和46年に印刷局創立100年を記念して東京都新宿区市ヶ谷に開設し、平成23年3月に東京都北区王子に移転しました。展示室では、お札、切手、証券など、国立印刷局が製造した各種製品と、明治期以前のお札、諸外国のお札や切手、お札の製造と深いかかわりをもつ銅版画など、様々な資料を展示し、お札の歴史、偽造防止技術などについて解説しております。

エドアルド・キヨッソーネ(1833~1898)
明治政府は、文明開化・殖産興業政策を推し進めるため、法制・産業・軍事・教育・芸術などの幅広い分野にわたって、外国から専門家を招き、その指導を受けた。彼らは「お雇い外国人」と呼ばれ、日本の近代化に大きな役割を果たした。 エドアルド・キヨッソーネも、そうしたお雇い外国人の一人である。彼はイタリア人で、若くして芸術的才能を謳われた銅版画家であったが、1875(明治8)年に紙幣寮(現在の大蔵省印刷局)の招きをうけて来日した。 キヨッソーネの指導により、日本の紙幣製造技術・印刷文化は、一気に世界的水準に高まったと言われる。また、キヨッソーネは宮廷画家としても活躍し、多数の銅版肖像画を製作した。全国に配布された明治天皇の「御真影」や、大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視など明治の元勲たちの肖像画は、みな彼の手になるものである。

エドアルド・キヨッソーネ(Wikipedia)

12:30~荒川知水資料館アモア

荒川「放水路」はじまりの物語

15:30~本郷給水所公苑

かねやす

兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった。享保15年大火があり、防災上から町奉行(犬越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は屋・土蔵造りを奨励し、屋根は非輩を禁じで華くことを許した。江戸の町並みは本郷まで気が続き、それからの社(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。『本郷もかねやすまでは江戸のうち』と川柳にも歌われた由縁であろう。芝神明前の兼康との間に充祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。文京正教育委員会昭和61年3月

旧町名案内 旧弓町

東京都水道歴史館 ※入館しません

文京区立本郷給水所公苑

文京区立本郷給水所公苑は、本郷給水所の上部に構築されている公園。伊藤邦衛(いとう くにえ、1924年~2016年)による造園、作庭。苑内南側の日本庭園(和風庭園)と北側のフランス式庭園(洋風庭園)を採用している。和風庭園には武蔵野の雑木林をイメージして作られている。また神田上水幹線水路の石樋が復原されている。洋風庭園にはパーゴラや地球儀が置かれている。また52種、300株のバラが植えられたバラ園がある。植えられている品種はノックアウトやゴールデン・ボーダーなど。

1892年(明治25年)東京市水道局(現東京都水道局)が給水場を建設
1898年(明治31年)配水池が建設
1974年(昭和49年)配水池の拡張
1976年(昭和51年)配水池の上に文京区が公苑を建設

神田上水懸樋跡

水道橋

17:30~表参道女子会

和をのぞむ 戦争慰霊碑
昭和20年5月25日に起こった山の手空襲の慰霊碑。平成19年1月建立。若者で賑わう表参道交差点のみずほ銀行前に建てられており、ここは、当時多くの方が亡くなった場所なのである。25日の夜間、山の手地区に470機ものB29が来襲、高性能焼夷弾3000トンを投下し、死者3,651名を出した。焼夷弾の量は死者10万人に及んだ3月10日の下町大空襲の倍の量だという。この空襲で東京駅や皇居も被災した。

碑文(碑正面):和をのぞむ 太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域にも大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。 表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点附近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。 戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。 港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。平成十九年一月 港区赤坂地区総合支所 区政六十周年記念事業実行委員会」

エスパス ルイ・ヴィトン東京

同潤会青山アパート

「表参道で生き残ったけやきです」

表参道橋

キデイランド
キデイランドはいつから原宿にあるのでしょうか?その歴史は終戦後の1945年、明治神宮の南側一帯にあった代々木練兵場(現・代々木森林公園)を連合国軍総司令部(GHQ)が占領していた頃にまで遡ります。

表参道にはGHQが建設した宿舎「ワシントンハイツ」をはじめ800世帯以上の洋風家屋が立ち並び、多くの外国人が暮らしていました。程なくして、アメリカ人をターゲットにした店が表参道沿いに立ち並び始め、その中の一件に、1950年にオープンした「キデイランド」の前身となるお店もオープンしました。当時は、進駐軍向けの書籍を中心に、生活雑貨や本国へのお土産品を売る店として運営されていたのですが、外国人顧客の要望に応え、外国人向けの雑貨を他店よりも早い時期から取り扱い。1955年頃、「店舗に馴染みやすい名前を付けよう」ということで「キデイランド(こどもの国)」と決定。表参道では早くから繁盛店として認知されてきたのだそうです。

19:00~新宿地下巡り

①今回は深く触れませんが、関係するエリアなので紹介します。

新宿駅西南口地区開発事業(PDF)

②今回に関係する資料

新宿駅周辺の主な開発動向2024(PDF)

③以下は新宿歩行者専用道第2号線を中心とした歩行者ネットワークの図

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 会長
なかまつ

北海道大学工学部卒。美術館は週に2回、海外旅行は年に6回行く、ゴリゴリの理系出身のIT系ビジネスマン。隣が図書館のため毎月10冊の本を借りている。趣味の延長で、東京の歴史や芸術を楽しむゆる〜いイベントを企画している。

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