新御徒町から鳥越、秋葉原へ歩くと、江戸の大名屋敷、明治の盛り場と商店街、キリシタン殉教の記憶、近代歌舞伎、近代薬事行政まで、異なる時代の歴史が短い距離に重なっています。中心になるのは、秋田藩佐竹家の上屋敷跡から生まれた佐竹商店街、鳥越のカトリック浅草教会と殉教記念碑、二長町の市村座跡です。
現在の新御徒町駅周辺は台東区の東上野・台東・小島などにまたがり、JR御徒町駅や秋葉原駅、蔵前・浅草橋方面へも歩いてつながります。華やかな観光名所より、町名や路地、商店街、記念碑に残る歴史を拾って歩くのに向いたエリアです。
今回の散歩コース
- おかちまちパンダ広場
- 西町太郎稲荷神社
- 佐竹商店街・佐竹っ原跡
- おかず横丁
- カトリック浅草教会・浅草鳥越きりしたん殉教記念碑
- 二長町市村座跡
- 旧東京司薬場・東京衛生試験所ゆかりの地
- 台東区秋葉原から秋葉原駅へ
東上野の西町太郎稲荷神社――柳川藩中屋敷の記憶
西町太郎稲荷神社は、東上野1丁目にある小さな稲荷社です。台東区公式観光情報によると、この一帯は万治年間(1658~1661)に筑後柳川藩立花家の江戸中屋敷となった場所で、神社は立花左近将監の母・みほ姫の守り本尊として祀られたと伝わります。現在の住宅・事業所が並ぶ街区の中に、江戸の大名屋敷地だった記憶が残る地点です。
佐竹っ原から佐竹商店街へ――秋田藩上屋敷が町になった
現在の台東2~4丁目付近には、江戸時代、出羽国久保田藩の佐竹家上屋敷がありました。台東区の史跡案内では、屋敷の設置は元禄2~3年(1689~1690)ごろとされ、現在の台東3・4丁目東半分に及ぶ広い敷地だったと紹介されています。
8代藩主の佐竹義敦は号を曙山といい、藩士の小田野直武らとともに西洋画法を取り入れた秋田蘭画の形成に関わりました。小田野直武は『解体新書』の付図を描いた人物としても知られます。大名屋敷の歴史をたどると、佐竹の名が政治だけでなく江戸後期の文化史にもつながります。
明治維新後、屋敷が撤去されて広い空地になった場所は佐竹っ原と呼ばれ、見世物小屋や寄席、飲食の屋台が集まる盛り場になりました。やがて民家や商店が増え、現在の佐竹商店街へ発展します。台東区公式観光情報では、全長約330mの全蓋式アーケードを持ち、「日本で二番目に古い商店街」といわれる商店街として紹介されています。

アーケードを歩くときは、商店街そのものを江戸の「佐竹家上屋敷」から明治の「佐竹っ原」、現在の商業地へ変化した一本の歴史として見ると位置づけが分かりやすくなります。
おかず横丁――鳥越の生活を支えた商店街
鳥越1丁目の「おかず横丁」は、鳥越本通商盛会の通称です。台東区公式観光情報では、約230mの通りに日用食料品を扱う店が並び、戦後まで東西に分かれていた商店街が昭和24年(1949)に一本化されたとされています。
この付近にはかつて鳥越川が流れ、江戸時代には川を掘り広げた三味線堀もありました。現在は埋め立てられていますが、町割りや道路に水辺の歴史が重なっています。鳥越川や三味線堀をさらに追うなら、鳥越川と蔵前の史跡を歩く記事と、東京の暗渠まるわかりガイドがつながります。
カトリック浅草教会と鳥越きりしたん――1613年の殉教地
カトリック浅草教会の歴史は、江戸初期のキリスト教布教と禁教の記憶に結びついています。カトリック東京大司教区によると、フランシスコ会のルイス・ソテロ神父らは1613年、浅草のハンセン病者の施設近くに小さな礼拝堂を設けました。幕府に知られると関係者が捕らえられ、同年8月16日から、現在の教会より東へ約500mの当時の刑場で27人が処刑されました。
現在、教会の裏手には「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」が建っています。江戸初期の殉教地と、明治10年(1877)に創立された浅草教会が近接しているため、禁教期と明治以降のキリスト教再出発を一つの場所でたどれるのが大きな特徴です。
浅草教会は、本多善ヱ門らが学校「玫瑰塾」を設け、その一室に小聖堂を置いたことから始まりました。東京大司教区の沿革では、1877年の創立日に40名が洗礼を受けたと記録されています。
二長町市村座跡――歌舞伎の「二長町時代」
台東1丁目には市村座の跡があります。市村座は寛永11年(1634)に日本橋葺屋町で始まり、中村座・森田座とともに江戸三座に数えられた歌舞伎劇場です。天保13年(1842)に浅草猿若町へ移り、明治25年(1892)に当時の下谷二長町へ移転しました。
二長町の市村座は火災と再建を繰り返しながら、六世尾上菊五郎や初代中村吉右衛門が活躍した劇場として人気を集めました。関東大震災後も再興されましたが、昭和7年(1932)の火災を最後に姿を消します。現在は劇場建築そのものは残らず、史跡表示がここに大劇場があったことを伝えています。
東京司薬場から国立医薬品食品衛生研究所へ――近代薬事行政の出発点
秋葉原駅に近い神田和泉町は、日本の近代薬事行政をたどる場所でもあります。現在の国立医薬品食品衛生研究所の前身は、明治7年(1874)に医薬品の試験機関として設けられた東京司薬場です。同研究所の150年史によると、3月27日に日本橋馬喰町で発足し、8月29日に神田和泉町で本格的な業務を始めました。
明治20年(1887)には東京衛生試験所と改称。第一次世界大戦で医薬品輸入が滞ると重要医薬品の製造研究を進め、国内製薬産業の近代化にも関わりました。昭和20年(1945)の空襲で神田和泉町庁舎を失い、翌年に世田谷へ移転。現在は川崎市川崎区殿町に国立医薬品食品衛生研究所があります。
台東区の「秋葉原」と駅前の秋葉原はどう違う?
「秋葉原」は駅や電気街の名称として広い範囲を指しますが、住所としての東京都台東区秋葉原は、秋葉原駅の北東側にある小さな町域です。電気街の中心は千代田区外神田などに広がります。新御徒町から南西へ歩いて台東区秋葉原を抜けると、行政上の町名と、一般に「秋葉原」と呼ばれる街の広がりの違いを実感できます。
秋葉原駅周辺の江戸の街道、神田青果市場、万世橋駅、交通博物館、電気街への変化は、秋葉原の歴史散歩で詳しく紹介しています。
新御徒町周辺は「大名屋敷の跡」から読むと歩きやすい
西町太郎稲荷の柳川藩立花家、佐竹商店街の久保田藩佐竹家。新御徒町周辺では、現在の商店街や住宅地の下に江戸の大名屋敷地が重なっています。明治になると屋敷跡は盛り場や商店街、劇場、近代的な行政・医療施設へ姿を変えました。鳥越ではさらに、江戸初期のキリシタン殉教の記憶と、明治の教会史が同じ地域に残ります。
蔵前・鳥越一帯の江戸時代の土地利用を古地図で確認したい場合は、嘉永6年「浅草御蔵前辺図」の解説も参考になります。
TimeWalkで周辺の史跡を探す
TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。新御徒町・鳥越・秋葉原周辺で、このコース以外の史跡も探したいときに使えます。

