富岡八幡宮殺人事件と宮司

富岡八幡宮殺人事件と宮司の話1

2017年12月7日、東京都江東区の富岡八幡宮周辺で、宮司の富岡長子と専属運転手が、長子の弟で元宮司の富岡茂永夫妻に襲われました。長子を含む3人が死亡し、運転手1人が負傷しました。

事件の背景として注目されたのが、富岡家で長く続いていた宮司職の継承争いです。富岡八幡宮が神社本庁から離脱し、長子が正式に宮司へ就任してから約2か月後に事件が起きました。この記事では、事件の概要、宮司人事、神社本庁離脱、事件後の体制を時系列で整理します。

富岡八幡宮殺人事件の概要

項目内容
発生日2017年12月7日
場所東京都江東区・富岡八幡宮周辺
被害富岡長子を含む3人が死亡、専属運転手1人が負傷
事件に関与した人物長子の弟・富岡茂永とその妻
背景として注目された問題富岡家の宮司職継承、神社本庁からの離脱、経済的支援をめぐる対立
事件後茂永夫妻は容疑者死亡のまま書類送検され、2018年9月に不起訴

事件当夜、長子と運転手は車で帰宅したところを襲われました。防犯カメラの映像などから、茂永が妻を刺した後、自身を刺したとみられています。事件前には、長子の退任と茂永の息子への宮司継承を要求する手紙が、神社関係者や報道機関などへ約2,800通送られていました。

事件の詳細は、宗教情報リサーチセンターの「富岡八幡宮宮司殺傷事件をめぐって」と、事件直後の毎日新聞の報道で確認できます。

宮司とは何か|富岡八幡宮では世襲だったのか

宮司(ぐうじ)は、神社を代表し、祭祀や神社運営を統括する神職です。禰宜(ねぎ)は宮司を補佐する神職で、権宮司権禰宜の「権」には副・代理という意味があります。

富岡八幡宮では、明治初年に富岡有永が初代宮司となって以降、富岡家が宮司職を継承してきました。事件後は、富岡家の血縁者ではない丸山聡一が宮司となり、富岡家による継承は終わりました。

事件の関係者と宮司職をめぐる関係

  • 富岡興永:19代宮司。長子と茂永の父。茂永の退任後、宮司へ復帰しました。
  • 富岡茂永:20代宮司。長子の弟。2001年に宮司を退任しました。
  • 富岡長子:興永の長女。2012年から宮司代務者を務め、2017年に21代宮司となりました。
  • 丸山聡一:事件当時の権宮司。事件後に宮司代務者となり、2018年6月28日に22代宮司へ就任しました。

事件を理解する鍵は、姉弟の私生活よりも、宮司職が誰に引き継がれるのか、神社本庁の承認を得られるのか、富岡家と神社の関係がどうなるのかという制度と継承の問題です。

富岡八幡宮の歴代宮司と事件までの年表

時期宮司・出来事
明治初年富岡有永が初代宮司となり、以後は富岡家が宮司職を継承
1974年富岡興永が19代宮司に就任
1994年11月富岡茂永が宮司代行に就任
1995年3月茂永が20代宮司に就任
2001年5月茂永が退任し、父の興永が宮司へ復帰
2002年長子が宮司職をめぐる親族間の争いを警視庁へ相談
2006年1月茂永が長子を脅す内容の手紙を送ったとして逮捕・起訴され、罰金刑
2010年10月興永が退任。長子の宮司就任を求める具申が始まる
2012年長子が宮司代務者に就任
2013~2017年責任役員会や氏子側が長子の宮司就任を繰り返し要望
2017年5月富岡八幡宮の責任役員会が神社本庁からの離脱を議決
2017年9月28日神社本庁から離脱し、単立の宗教法人となる
2017年秋長子が21代宮司に就任
2017年12月7日殺傷事件が発生
2017年12月9日丸山聡一が宮司代務者となる
2018年6月28日丸山聡一が22代宮司に就任

1995年に宮司となった茂永は、金銭や女性に関するトラブルなどを理由に2001年に退任し、父の興永が復帰しました。長子は2002年に宮司職をめぐる親族間の争いを警察へ相談し、2006年には茂永が長子を脅す内容の手紙を送ったとして処罰されています。姉弟の対立は事件の10年以上前から表面化していました。

なぜ神社本庁から離脱したのか

神社本庁に所属する神社では、宮司の任免に神社本庁の承認が関わります。興永が退任した後、富岡八幡宮は長子を宮司に任命するよう繰り返し求めました。長子は宮司代務者として神社運営を担い、責任役員会は計4回、氏子総代や神輿総代連合会長らも宮司就任を要望しました。

神社本庁は富岡家の家族間対立などを理由に地元の要望を認めず、2015年には長子への宮司発令を不適当として具申書を返却しました。富岡八幡宮の責任役員会は2017年5月に離脱を議決し、同年9月28日に神社本庁との包括関係を解消しました。これにより富岡八幡宮は単立の宗教法人となり、長子が正式な宮司に就任しました。

離脱までの経緯は、宗教情報リサーチセンターの「富岡八幡宮、神社本庁を離脱」に整理されています。

事件の背景は「跡目争い」だけだったのか

事件の背景を一つの理由に絞ると、実際の経緯を単純化してしまいます。確認できる要素は、宮司職の継承、長子の正式就任、茂永の息子への継承要求、富岡八幡宮から茂永への経済的支援をめぐる問題です。

茂永は宮司退任時に退職金を受け取り、その後も富岡八幡宮から月額の支援を受けていたと報じられています。富岡八幡宮側は、迷惑行為が続く場合には経済的支援を打ち切るという警告書を2017年7月に送っていました。一方、事件前に送られた手紙は、長子の退任と茂永の息子への宮司継承を要求していました。

報道では金銭問題や姉弟双方の私生活も大きく取り上げられました。ただし、匿名証言を中心とする私生活の話題と、資料で確認できる宮司人事・神社本庁離脱の経緯は分けて考える必要があります。事件の動機を確定する裁判は行われておらず、背景は複数の対立が重なったものとして整理するのが適切です。

事件後の捜査と富岡八幡宮

長子の神社葬は2018年1月24日に富岡八幡宮近くの富岡斎場で営まれ、神職や氏子ら約300人が参列しました。茂永夫妻は容疑者死亡のまま、殺人や殺人未遂などの容疑で書類送検されました。東京地検は2018年9月28日、両名を不起訴としました。

事件後は権宮司だった丸山聡一が宮司代務者を務め、2018年6月28日に宮司へ就任しました。富岡八幡宮の公式な御鎮座四百年記念事業にも丸山聡一宮司の名が掲載され、神社は祭礼や参拝、記念事業を続けています。

不起訴までの経過は、宗教情報リサーチセンターの「富岡八幡宮の殺傷事件、弟らは不起訴へ」で確認できます。

現地に残るものと事件後に変わった景観

富岡八幡宮殺人事件と宮司の話2
富岡長子元宮司が住んでいた豪邸(賽銭御殿)。境内に隣接してあったが事件後ほどなくして取り壊された。

写真は、富岡長子が住んでいた境内隣接地の旧宅です。建物は事件後に取り壊され、現在の景観から当時の様子を読み取ることは難しくなっています。

賽銭御殿があった場所はここ!

富岡八幡宮の歴史は事件以外にも広がります。寛永4年(1627)の創建と伝わり、深川八幡祭り、勧進相撲、伊能忠敬との関わりなど、江戸・東京の歴史を伝える場所です。境内や門前町を歩く際は、事件の現場としてだけでなく、地域の信仰と都市形成を支えてきた神社として見ると、深川の歴史が立体的に理解できます。

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よくある質問

富岡八幡宮の宮司は代々世襲だったのですか

明治初年から事件まで、富岡家が宮司職を継承してきました。事件後は丸山聡一が宮司となり、富岡家による継承は終わりました。

富岡長子はいつ宮司になったのですか

長子は2012年から宮司代務者を務め、富岡八幡宮が神社本庁を離脱した2017年秋に正式な宮司となりました。

富岡八幡宮が神社本庁を離脱した理由は何ですか

責任役員会と氏子側が長子の宮司就任を繰り返し求めたものの、神社本庁の承認を得られなかったためです。富岡八幡宮は地元の総意が反映されていないとして離脱を決めました。

事件後の宮司は誰ですか

事件当時に権宮司だった丸山聡一です。事件後に宮司代務者となり、2018年6月28日に宮司へ就任しました。

事件の裁判は行われたのですか

茂永夫妻が死亡したため、公判による動機や事実関係の審理には進まず、両名は容疑者死亡のまま書類送検され、2018年9月に不起訴となりました。

参考文献・参考資料

TimeWalkで富岡八幡宮と深川の歴史を現地でたどる

富岡八幡宮の周辺には、深川不動堂、伊能忠敬像、横綱力士碑、大関力士碑、永代橋、木場の水運史など、江戸から東京へ続く歴史が集まっています。記事を読んだ後に現地を歩くと、神社と門前町、川や運河、祭礼の関係がつながります。

TimeWalkでは、現在地から近い歴史スポットを探し、解説を読みながら街を歩けます。富岡八幡宮だけでなく、門前仲町や深川一帯の歴史散歩の予習・復習にも活用できます。

この記事を書いた人
ゆる歴史散歩会 運営者
なかまつ

北海道大学工学部卒。現在はIT系会社員の傍ら、年間400回以上の街歩きイベントを企画し、これまで延べ25,000名以上の方にご参加いただいている、ゆる歴史散歩サークルを運営しています。東京の歴史・文化・建築・地形などを、初心者でも気軽に楽しめるイベントとして企画しています。

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