今回行くところ1〜10。リンクはGoogleマップです。
1)試衛館跡
試衛館(しえいかん)は幕末に江戸市中にあった、天然理心流剣術の道場。天保10年(1839)、近藤勇(1834-1868)の養父である天然理心流3代目近藤周助が創設。文久元年(1861)、4代目を勇(1834-1868)が継ぐが、勇の上洛により、佐藤彦五郎(1827-1902)と幕臣寺尾安次郎が留守を預かり、慶応3年(1867)まで存続した。門弟として土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一等がいたとされる。詳細な位置は試衛館の名称と共に今後の研究課題であるがひとまず推定される位置に記念碑を建立している。
2)幸国寺山門
区内では数少ない江戸時代の建築で、構造や形式等から江戸後期の建築と推定される。幕末から明治初頭に、幸国寺の檀家(だんか)長嶋家の寄進により移築されたもので、長嶋家には大名屋敷の門を移築したとの伝承があるがどの大名家であるかは史料で確認できない。田安徳川家屋敷門とのうわさがある。現在は片側にしか出番所がないが、本来は両側に出番所があったと思われる。田安徳川家は8代将軍徳川吉宗が設置した徳川御三卿(田安家、一ツ橋家、清水家)の一つで十万石の格式が与えられている。現在の北の丸公園(日本武道館があることろ)の田安門近くに屋敷があった。
大和田建樹(たけき、1857-1910)は伊予国宇和島出身の詩人、作詞家、国文学者で東京高等師範学校(現・筑波大学)教授。「鉄道唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」などの作詞者として知られている。1910年(明治43年)10月1日、脊髄炎のため死去。東京新橋駅構内に「鉄道唱歌の碑」、宇和島駅前に「大和田建樹詩碑」がある。
学校法人日本体育大学は明治24(1891)年8月11日、先覚者日高藤吉郎先生の手により「体育会」の名称をもって東京牛込区に創立されたのが始まり。当時の国内情勢は、明治維新による近代国家体制への移行期にあたり、教育の分野においても義務教育が普及し、知育・徳育・体育を3本柱に掲げていたが、体育は指導者の不足等によって知育・徳育に比して停滞する傾向にあった。このような状況下、日本の近代化から取り残されていた課題である体育に着目し、国民体育の振興」を目標に掲げて設立されたのが「体育会」である。体育会は、翌25(1892)年6月「日本体育会」と改称された。
5)陸軍經理學校跡碑
陸軍經理學校は日本陸軍の軍学校のひとつで陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、陸軍経理に関する調査と研究、図書の出版などを行った。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれる。1886年(明治19年)8月に設立された陸軍軍吏学舎を前身とし、1890年(明治23年)11月に陸軍経理学校が開校された。
以下の「東京拘置所の変遷」の❷の部分
❶鍛冶橋時代(1869年~1903年)
東京拘置所の歴史は、明治3年に旧八重洲町鍛冶橋門内(現在の東京駅)に監倉事務取扱所として始まります。明治7年に初の西洋式獄舎として木造十字型獄舎が新築されました。また、周囲には裁判所や警視庁、法務省などがあり、官公庁が立ち並ぶ一等地に設けられており、拘置所は、当時から国の重要な施設の一つであったことがわかります。明治14年に鍛冶橋監獄署と改称し、明治36年の東京駅の建設に伴い旧牛込区富久町(現東京医科大付近)に東京監獄として移転しました。
❷市谷時代(1903年~1937年)
鍛冶橋時代の十字型獄舎を発展させた処遇管理棟一体の放射型獄舎を採用し、管理運営の効率化を図っています。また、放射状の運動場を整備し、今日の拘置所に近い考えで整備されたことがわかります。大正11年、全国の監獄を刑務所と名称変更したことに伴い「市谷刑務所」と改称されます。その後、昭和12年に震災で損壊した巣鴨刑務所跡地(現サンシャインシティ)に新築移転し、初めて「東京拘置所」の名称を用います。
❸巣鴨時代(1937年~1945年)
初めて「拘置所」が用いられ、東京拘置所となった。移転整備に当たってのもう一つの難関は、巣鴨刑務所の跡地にまた行刑施設が来ることへの住民の反対であったが、刑務所とは全く違った拘置所建物にするとして説得に努めました。新たな拘置所として、施設の顔となる庁舎は外塀の外側に設置しました。また、収容棟は、これまでの放射型から並列型に変更し、昼夜居房内生活となる拘置所の被収容者に対し、太陽の光と新鮮な空気を取り入れた健康的な環境を確保すべきとの考え方を採用しました。所内を通じてできる限り「消新明朗の気分を横溢(おういつ)」させることに配意されていること、市街にあるので特に建築の外観には考慮を払って一見して清楚、閑雅の趣を感じさせることが強調されています。
❹豊多摩時代(1945年~1946年)
終戦間近の昭和20年8月に司法省(現法務省)が、巣鴨の東京拘置所の一部に移転することになり、東京拘置所の一部は、豊多摩刑務所に移転しました。移転部分を第一拘置所、存置部分を第二拘置所と称しました。終戦直後の同年11月に巣鴨の東京拘置所施設が、連合軍に接収された(巣鴨プリズン)ことに伴い、豊多摩刑務所跡に完全に移転しました。しかし、豊多摩刑務所施設も昭和21年に接収されたため、小菅刑務所内へ併設移転することになりました。
❺小菅時代(1946年~現在 ※1958年~1971年は巣鴨)
連合軍による施設接収に伴い小菅刑務所内に昭和33年まで併設されていましたが、巣鴨プリズン返還に伴い再び巣鴨に移転しました。池袋の市街化が進んで来たこともあり、昭和46年に小菅刑務所を廃庁し、再び小菅の地に移転しました。このときに表現主義の傑作として名高い旧庁舎を含め、小菅刑務所の施設を引継いでいます。平成に入り、小菅刑務所から引継いだ施設の老朽化が進み、高層都市型拘置所として、外塀を持たない拘置所として建替えました。小菅刑務所の施設は、庁舎のみ現存し、「旧庁舎」の名称で竣工当時の姿に復原されました。
厳島神社(抜弁天)の東側一部(約一万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一常(約一万三千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。五代将軍徳川網吉は、男子徳松の死後世嗣にめぐまれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞草4年(1687)生類憐みの令を発し、生物の殺生をかたく禁じた。特に網吉が成年生まれであったため大を重視したという。これに伴い元禄8年(1695)飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯、旧岡町)の三ヶ所に大御用屋敷を設置した。大久保の大御用屋敷は、元禄8年5月25日に、四谷の犬御用屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし次第に手狭になり、順次中野の大御用屋敷にその役割を移し、元禄10年(1697)11月に閉鎖され、跡地は武家屋敷となった。
8)服部良一旧居跡
服部良一(りょういち、1907-1993)は大阪府大阪市出身の作曲家、編曲家。16歳で姉のすすめで音楽をはじめ、ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルにその才能を見いだされ、音楽理論、作曲の指導を受け、ジャズに出会い、和製ポップスの礎を築いた作曲家。1934年に大阪から上京、後にコロムビアの専属作曲家となる。昭和10年富澤万里子と結婚。5人の子どもに恵まれる。昭和12年「山寺の和尚さん」を発表。その後「別れのブルース」「雨のブルース」が大ヒット。昭和15年に東宝映画「支那の夜」の音楽を担当し、「蘇州夜曲」を主題歌として作曲する。昭和20年上海で終戦を迎え帰国。日劇や有楽座などでエノケン、あきれたぼういず、笠置シズ子などが出演する多くの舞台音楽を担当する。昭和23年映画「青い山脈」の音楽を担当。翌昭和24年笠置シヅ子とタッグを組んだ「東京ブギウギ」をはじめとするブギウギの名曲をヒットさせる。戦中戦後に渡り、数多くの映画音楽、舞台音楽、社歌、校歌などを作曲し、生涯で作編曲した楽曲は3000曲以上。また、村雨まさをのペンネームで「買物ブギ」「銀座セレナーデ」など作詞家としての一面もある。また、古賀政男らとともに日本作曲家協会、日本レコード大賞、などの創設にも尽力し、日本の音楽シーンの発展に尽力した。1993年、古賀政男に次いで作曲家としては2人目になる国民栄誉賞が授与された。
代表曲は、山寺の和尚さん/別れのブルース/雨のブルース/蘇州夜曲/一杯のコーヒーから/夢あ去りぬ/胸の振り子/湖畔の宿/東京ブギウギ/ジャングルブギ/買物ブギ/ホームランブギ/青い山脈/銀座カンカン娘/東京の屋根の下、など
9)旧柳生但馬守邸跡
柳生宗矩(むねのり、1571-1646)は江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。幕臣としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達氏(伊達政宗)、鍋島氏(鍋島勝茂、鍋島元茂)、細川氏(細川忠興、細川忠利)、毛利氏(毛利秀就)などと親交があった。
将軍・家光には若いころからの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱、春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。肩書きは兵法指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受けて、最後まで信頼され続け、見舞いの床においても兵法諮問に答えている。家光は生涯、宗矩以外の兵法指南役を持たなかった。
10)小笠原伯爵邸
小笠原長幹(ながよし)伯爵の邸宅として1927年(昭和2年)に建てられた。当時流行のスパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建て。敷地は江戸時代の小倉藩下屋敷跡地。一時は取り壊しも検討されたが、2000年(平成12年)になって管理していた都生活文化局から民間貸出の方針が示され、同年12月には箱根等でレストランを経営するインターナショナル青和が借り手に決定。本間建設株式会社の修復工事を経て2002年(平成14年)6月にレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンした。
設計は曽禰中條建築事務所。経営者の一人である曽禰達蔵(1853-1937)は小倉藩の分家の旧唐津藩出身で三菱一号館~七号館、長崎造船所占勝閣(世界遺産)、慶應義塾大学図書館(重要文化財)などを手掛けたことで知られている。
小笠原長幹(ながよし、1885-1935)は政治家、華族で小笠原宗家30代当主。父は豊前国小倉藩第10代藩主(最後の藩主)小笠原忠忱(ただのぶ)で現在の東京サンケイビルや大手町ビルあたりに上屋敷があった。小笠原氏は甲斐源氏の出身で甲斐国小笠原に住して小笠原氏となった。江戸時代には小倉藩など5つの藩の藩主を世襲した譜代大名家となり、維新後には5家とも華族に列した。1593年に「小笠原貞頼」なる人物が現在の小笠原諸島を発見し、小笠原の名前が付いたという伝承があるが信憑性に乏しい。