①茗荷谷駅
女性だけを対象としたアパートメントは、当時としても極めて珍しいものでした。大塚女子アパートメントの建設当時、日本ではようやく女性の社会進出が行われ始めた時期で、女子大学も開校し、卒業後社会に出て働く女性にとっても住まいを確保することは課題の一つでした。そのような状況で、女性の社会進出を支えようとして建設されました。大塚女子アパートメントは道路に面して建てられ、道路側1階は店舗付き住宅が配されました。中庭を取り囲むようにコの字型に建てられ、地下1階地上5階建て。男子禁制で、父親との面会も1階応接室で行われました。住戸は1階から5階で、和室と洋室からなりますが、部屋に家事を行える台所はありませんでした。「家事は女性」という当時の常識を変えるための提起でした。そのため、食事は地下の食堂で行いました。この食堂は、周辺の人々も利用でき、まさに、地域とのコミュニィティを築きました。食堂のほか、地下には共同浴場、5階には日光室、屋上には屋上庭園が用意されていました。さらに、4階には洗濯場や物干しがあり、洗濯物が外から見えないような工夫がとられていました。
③茗荷谷
ミョウガは多湿で涼しい場所で栽培しやすいことから谷地が適しているといわれる[2]。旧茗荷谷町は、小石川台地と小日向台地の間の浅い谷が「茗荷谷」と呼ばれていて、御府内備考によれば、江戸初期時代に茗荷が多く作られていた、とされている。東京では地名の「谷」は渋谷、四谷などのように「や」と読むことが多いが、茗荷谷町の谷は東京では珍しく「たに」と読む。「たに」と読むのは西日本に多い。
島原の乱(1637~1638)の5年後、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前に漂着、すぐに江戸送りとなり伝馬町の牢に入れられた。その後、宗門改役(しゅうもんあらためやく)の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建て収容したのが切支丹屋敷の起こりである。寛政4年(1792)の宗門改役の廃止まで続いた。鎖国禁教政策の下で、宣教師や信者を収容した。宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に渡来し、切支丹屋敷に入れられた。徳川6代将軍家宣に仕えた新井白石はシドッチを尋問し、『西洋紀聞』にまとめられた。平成26年に実施した埋蔵文化財発掘調査において、3基の墓と人骨が出土した。そのうち1体についてはシドッチである可能性が高いことが判明した。シドッティの所持品であったカルロ・ドルチ作の聖母の図像(通称「親指のマリア」)は現在東京国立博物館が所蔵し、重要文化財に指定されている。
以下、カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)公式ページより
1954年に現サレジオ教会聖堂が完成しました。その年、東京国立博物館で一つの聖画が発見されました。キリスト教が迫害された江戸時代の最後のキリシタン・バテレン(宣教師)であるシドッティ神父(後に江戸キリシタン屋敷で殉教)がイタリアから携えてきた聖画、カルロ・ドルチ作の「親指の聖母」(悲しみの聖母)です。これにちなんで、カトリック碑文谷教会は「江戸のサンタマリア」に捧げられました。聖母画のレプリカが聖堂横・入口の小祭壇上に掲げられています。
江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが維新後上地され国の所有となった。西側には広い矢場があり、当時は大名屋敷と矢場にはさまれた淋しい場所だと思われる。「薬罐坂(やかんさか)」のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいい、野犬や狐が出るような淋しい坂道であったのだろう。
武家屋敷の間を通る横町の坂であったため
氷川神社と八幡神社を合祀して、明治2年小日向神社と改称された。天慶3年(940)の春、当時の常陸国の平貞盛が、この地方を平定して、現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。また、八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい、現在の音羽1丁目に鎮座していた。創立は、貞観3年(860)の春と記述されている。
新渡戸稲造文久2年(1862)~昭和8年(1933)教育者・農学博士・法学博士南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)に上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京大学に学び、さらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は、学生たちに深い影響を与えた。日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に、西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し、大正9年(1920)には国際連盟事務局次長となり、「連盟の良心」といわれた。昭和2年(1927)帰国の後、太平洋問題調査会理事長となった。きびしい国際情勢のもと、平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。当地は、明治37年から昭和8年まで(1904~1933の29年間)住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。
ここ貞静学園(ていせいがくえん)の場所には、かつて”塚”があった。『改撰江戸志』には、この塚について地元の説に「大塚通の南裏、小普請神尾豊後守組森川鉾太郎屋敷内に塚あり、高さ五尺(約1.5m)斗(ばかり)、上に大樹の榎の朽木五尺斗残れり、是大塚なりと云、塚の脇に稲荷あり、大塚稲荷といふ」と記されている。塚は昭和の初めに崩され、稲荷も昭和20年の戦災で焼失した。この大塚は古くから古墳で。あったとか、中世の塚や物見やぐらの跡だったとも言われてきた。貞静学園の改築に伴い、平成12年の発掘調査で、区内で初めて5~6世紀代の竪穴住居跡が確認された。文京区の古墳時代を知るうえで、貴重な歴史資料といえる。今は失われた塚も“大塚”という町名として残っている。
※貞静学園は1930年髙橋マキ先生により創立。開校以来女子校であったが、2011年より男女共学となった。
桂太郎(1848~1913、65歳没)
山口県現在の萩市に生まれ。長州藩士として幕末諸戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学び後、山県有朋、大山巌を輔(たす)けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進しました。
第二代台湾総督、陸相の後、明治34年(1901年)初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同37年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。
明治33年(1900年)、台湾協会会頭として台湾協会学校(拓殖大学の前身)を創立して初代校長に就任、以後12年間にわたり本学の基礎をつくった。また、医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医学の発展に貢献しました。この銅像は大正3年6月に完成したもので、恩賜金の御沙汰書を桂校長が、教職員・学生に奉読している姿です。設計・鋳造は武石弘三郎氏の作です。
武石弘三郎(たけいしこうざぶろう、1877~1963)は日本近代の彫刻家。政財界や各界の著名人の銅像を数多く手がけた。主な作品は大倉喜八郎像(大倉集古館)、森鷗外像(森鴎外記念館)、西園寺公望像(立命館大学構内)、安部磯雄像(早稲田大学戸塚グラウンド)、李王家東京邸大理石レリーフ(グランドプリンスホテル赤坂)など。墓所は雑司ヶ谷霊園。
東に小石川台地と春日通、南に巻石通と神田川、西に関口台地と音羽通に接する小日向台地の頂上部分にある。近くの文京区立小日向台町小学校は1938年竣工で、都内で数少ない戦前に建設された校舎。ガラス張りの階段室が特徴。
⑫大日坂
改撰江戸志には「・・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」とあり。この「大日堂」とは寛文年中(1661-73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿(せきやど)藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者1892~1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつ、秋は散りけり」とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
⑭江戸川橋駅