展望ロビーは三方に窓があり、関東平野の眺めは格別。眼下の飛鳥山公園から東京スカイツリー、さいたま新都心、秩父連山、赤城山、筑波の峰などが見え、王子駅側の窓からは新幹線が見える、北区自慢の展望スポットです。開館時間は8:30~22:00。(2024/11/06時点)
江戸時代の安政年間(1854~1860)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に開いたのが始まりで、名主の滝の名前の由来もここから来ました。庭園として整備されたのは、明治の中頃で、垣内徳三郎という人の所有になってからでした。武蔵野台地の突端である王子近辺には滝が多く、かつて「王子七滝」と呼ばれる7つの滝がありました。このうち「名主の滝」だけが現存する唯一の滝となっています。名主の滝は、都内でも有数の8メートルの落差を有する男滝(おだき)を中心とする女滝(めだき)・独鈷の滝(どっこのたき)・湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)の4つの滝からなります。
名主の滝公園は、これらの滝とケヤキ・エノキ・シイ、そして100本余りのヤマモミジが植えられた斜面を巧みに利用して自然の風景を取り入れた回遊式庭園です。
康平年中に征夷大将軍、源頼義により「関東稲荷総司」の称号を頂く。小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められてきた。現在の御社殿は十一代将軍家斉公により新規寄進されたもの。落語「王子の狐」の舞台でもある。
王子の狐・・・落語の噺の一つ。初代三遊亭圓右が上方噺の高倉狐を東京に写したもの。人を化かすと言われる狐がかえって人に化かされる顛末を描く。結末は一種の考え落ちでもあろう。
王子狐の行列・・・王子には古くから大晦日に各地から集まった狐が大きな木の下で装束を整えて王子稲荷神社に詣でたという伝承があります。その木の下に狐が集まる様子を描いた歌川広重の浮世絵、その木の脇に祀られた社が「装束稲荷」です。大晦日の夜、王子は幻想的な光景に包まれます。面をかぶったり、メイクをほどこし、きつねに扮した人たちが王子装束稲荷神社に集まり、行列を成して大勢の見物に囲まれながら練り歩き王子稲荷へ参詣する一大イベント「きつねの行列」です。「毎年大晦日になると、関東一円から狐が集まり装束を整えて、王子稲荷にお参りした」そんな昔の言い伝えを、今に残そうとする王子の人たち。その粋な心が感じられるイベントです。
④王子大坂
飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、上郷(かみごう)用水に架かっていた三本杉橋の石の親柱の位置から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥(うとう)の嘴のようなので「うとう坂」の名もある。
⑤王子神社
御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称して「王子大神」とお呼び申し上げます。紀州(和歌山県)熊野三社権現(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、世界遺産にも登録された熊野古道には多くの王子神が祀られていたといわれます。
創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。戦国時代、当地の領主となった小田原北条氏も当社を篤く崇敬し、朱印状を寄せて社領を安堵しております。
徳川時代に入ると初代家康公は天正19年(1591年)、朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。三代家光公は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」三巻を作らせて当社に寄進しました。その後も五代綱吉公が元禄16年(1703年)、十代家治公が天明2年(1782年)、十一代家斉公が文政3年(1820年)と造営修繕された社殿は秀麗な権現造りで、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も17社を数えていました。特に八代吉宗公は紀州徳川家の出自で、この地に紀州ゆかりの当社があることを大いに喜び、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。これが今に残る花の飛鳥山(現 飛鳥山公園)の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。
音無さくら緑地(王子本町1丁目6番地先)は、まだ石神井川がくねくねと蛇行して流れていた頃の旧流路につくられたものです。皆さんの正面にある崖地は、川の蛇行による侵食作用が最も大きくなる部分で、地形学ではこのような地形を攻撃斜面と呼んでいます。視線を下げ、地下水がポタポタしみだしている縞状の部分より下方を注意深く観察してみますと、赤い酸化鉄に染まった砂質粘土の地層中に貝殻の化石を見つけることができるかもしれません。この化石がはさまっている地層は地質学的には「東京層」と呼ばれる部分で、今から12〜13万年前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底になった頃に形成されたものです。明治13年(1880年)、当時東京大学に地質学・古生物学の教授としてドイツから来日していたブラウンスが王子を訪れ石神井川沿いを調査しました。かつてこの場所のすぐ北には穀物を脱穀する水車場があり、その露頭から多くの化石を採集しました。右の図はその時の調査をまとめた論文に掲載されたスケッチの一部です。これまで、地層を観察するには、自然に形成された河岸の断面を見ることが基本とされてきました。しかし、近年都市化が進むにつれて岸辺を保つことがしだいに難しくなりました。このような自然の河岸が露頭している場所は東京区部では非常に珍しく、こうした地層を観察できる場所は学術的にも教育的にも大変貴重な場所といえます。
治承四年(1180)八月、源義朝(よしとも)の三男頼朝(よりとも)は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れて安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、隅田川を渡ります。滝野川・板橋を経て、府中六所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します。そして鎌倉の大倉に本拠を築いた頼朝は、後に鎌倉幕府初代将軍として、その場所に政権を樹立することになるのです。この途次の十月、源頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれています。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って、松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。弁財天を信仰した頼朝は、崖下の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝えられる弁財天に祈願して、金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられています。この地域は、弁天の滝や紅葉の名所として知られていました。現在、金剛寺が紅葉寺とも呼ばれるところに、この頃の名残がみられます。
醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良をはかることと、講習会により醸造技術や研究成果を広く普及させることなどを目的に、明治37年(1904)に創立されました。試験所の中核施設となる第一工場は、一部三階建の煉瓦造で、大蔵省技師の妻木頼黄(つまきよりなか)が設計・監督しました。第一工場は、躯体の煉瓦壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、リンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備えるなど、ビール醸造施設を応用した設計がなされています。
⑩飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗の命によって享保5年(1720)から翌6年にかけて、飛鳥山に桜が植えられ、享保18年には桜が根付いて花を開かせるようになり、水茶屋が10ヶ所建てられ、江戸市民の行楽の場となりました。元文2年(1737年)閏11月に、吉宗による事績を顕彰するための「飛鳥山碑」が建てられました。江戸時代には飛鳥山のランドマークともなり、浮世絵などで芝山に桜と石碑を描けば飛鳥山を示しました。現在も桜の季節になると、多くの花見客で飛鳥山公園は賑わいを見せています。
此地ハ明治五年十一月渋澤栄一ノ発議ニ由り創立シタル王子製紙株式會社ガ英国ヨリ機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ発祥ノ地ナリ。當時此會社ハ資本金拾五萬円ヲ以テ発足シ同九年畏クモ明治天皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテ一般ノ縦覧スル所トナレリ 同社ハ昭和二十四年八月苫小牧製紙十條製紙本州製紙ノ三社ニ分割スルニ至ルマデ名實共ニ日本洋紙界ノ中心タリキ茲ニ八十年ノ歴史ヲ記念シテ永ク洋紙業発展ノ一里塚トセン 昭和二十八年十月 藤原銀次郎撰文 高島菊次郎篆額 近藤高美書
⑫王子駅