

江東区豊洲(とよす)
一丁目から六丁目がある。2023年時点で17,396世帯、40,424人。臨海部の埋立地であり、もともとはIHIや東京ガスなどの工場が立地していたが、都心へのアクセスの良さから再開発により、タワーマンションが林立する超高層ビル街へと発展した。1923年の関東大震災の瓦礫処理で当地および東雲などが埋め立てられた。このエリアは、長らく工業地として使われてきた。東京都港湾局専用線の路線網が整備され、貨物列車が行き交う風景が豊洲の日常であった。その後タワーマンションが林立する人気の住宅地となり、人口増加に対応して小学校の新設も行われた。2018年10月、東京ガスの工場跡地に豊洲市場が開場。野村グループ、三井住友カード、IHI、NTTデータ本社、住友ゴム工業、BIPROGY、SCSK本社、マルハニチロ、アスクル本社、第一生命保険などの本社がある。
江東区枝川(えだがわ)
一丁目から三丁目がある。2023年時点で4,879世帯、9,525人。枝川改修工事が1910年(明治43年)から1923年(大正12年)にかけて行われ、下記の埋立地が造成された(表記後ろの町名は現在の地名)。
1号埋立地:江東区塩浜2丁目(塩崎)
2号埋立地:江東区塩浜1丁目(浜園)
3号埋立地:江東区古石場3丁目1番
4号埋立地:江東区枝川2丁目
5号埋立地:江東区枝川1丁目
6号埋立地:江東区豊洲4丁目
7号埋立地:江東区豊洲3丁目
8号埋立地:江東区潮見1~2丁目
町名の由来は運河が枝状に縦横に走る様による。
朝鮮部落の形成
1910年の朝鮮併合以降、大量の朝鮮人が日本へ渡航して各地に集住地域が形成されたが、関東では震災の影響で形成が遅かった。東京近辺ではバラックなどに住む日本人貧民と混在して三河島・千住・鶴見潮田・横浜宮川町などに形成されたが、東京オリンピック開催が決まり(その後の戦争開始により中止)、外国人にみっともない姿を見られるのは具合が悪いというので、一ヵ所にまとめて住ませることになり、隣接地域の塩崎町とともに、まだ当時不衛生なごみの埋立地だった当地へ移住させ、治安上の理由から皇民化や創氏改名が行われたという。戦後は当用として都立第二朝鮮人小学校(現在の東京朝鮮第二初級学校)やキリスト教会も建てられた。
戦後、北の洲崎(現在の東陽辺り)には大きな遊廓起源の歓楽街が復興しており、売春防止法が制定(1958年)される頃までは運河を隔てたこの地にも流れ者が入って治安が悪かった。1949年には枝川事件が発生している。
その後、海運業の倉庫が林立し、特に枝川1丁目の南部は周辺への道路が架橋されず閑散としていたが、東の越中島・塩浜、南の潮見・辰巳などへの東京都による公営住宅の建設が進んだ。現在は交通量と周辺の人口が急増し、枝川内のコリアンタウンは一部を除き急激に縮小している。
江東区塩浜(しおはま)
一丁目および二丁目がある。2023年時点で9,022世帯、19,140人。。東京湾の埋立地(枝川改修工事による埋立一・二号地)に設けられた町で、現在の町名は、住居表示実施前に存在した「塩崎町」(塩浜の西部)と「浜園町」(塩浜の東部)に由来する。よって特に製塩業が盛んであったという理由ではない。
今回いくところ
以下のリンクはGoogleマップのリンクです。マップの保存をしていれば説明がみれます。マップの保存についてはこちら。
- 豊洲センタービル あいプラザ
- 東京都港湾局専用線遺構
- 東京朝鮮第二初級学校
- 枝川愛の教会
- 越中島貨物支線・鉄道遺構
- しおかぜ橋
- 東京都港湾局専用線跡
- しおかぜ橋塩浜公園
- ヴェッセル木場南11号遊園(余裕あれば)
- 潮風の散歩道
- 南開橋
- 東陽一丁目第二公園
- 洲崎橋跡地の碑
- 木場駅 or 東陽町駅