三河島
三河島町(みかわしままち)とは、東京府北豊島郡にかつて存在した町である。現在の荒川区の中部に位置していた。現在の地名では、おおむね荒川、町屋にあたる。「三河島」という地名の由来には、「三つの川(中川・古利根川・荒川)に囲まれた中洲状の土地であったため」、「太田道灌の時代に、武家歌人の木戸三河守孝範が当地に暮らしたため」など所説ある。第二次世界大戦後の1960年代、三河島町の地名は大部分が「荒川」に、その他東尾久・東日暮里・西日暮里に編入されて消滅した。21世紀初頭の現在は、常磐線三河島駅や京成電鉄新三河島駅、金融機関の支店名以外にその名をほとんどとどめていない。なお「荒川」への変更は、三河島が荒川区の行政の中心であったためとされる。

1923年の三河島事件
三河島事件(みかわしまじけん)とは、1923年1月におきた、東京大相撲の争議事件である。力士会と大日本相撲協会との間で発生した。力士会とは、十両以上の力士で構成する親睦団体、選手会で労働組合のようなもの。大日本相撲協会とは現在の日本相撲協会の前身で、現在は評議員は7名(力士出身者が3名(上限3名)、外部が4名)、評議員が選出した理事10~15名などで構成される。力士会が力士の待遇を改善するよう要求したが、相撲協会がそれを受け入れず、関取・行司合わせて78名が春場所をボイコットし、日本電解工業の工場内に移り立て籠もった。警視総監赤池濃(あつし)が調停に乗り出して和解が成立し、1月18日深夜に警視庁で手打ち式が行われた。
1962年の三河島事故
- 三河島事故(みかわしまじこ)は、1962年5月3日21時37分~43分頃に、常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故である。
- ①21時37分ごろ、貨物列車(D51牽引45両)が赤信号を無視し安全が確保されていない安全側線に進入し、終端の砂利盛りに乗り上げ、一部が下り本線を支障する形で停止。
- ②その直後、上野発取手行き普通電車(2117H、6両編成)が下り本線上のD51に衝突し脱線。前2両は上り本線を支障する形で停止。
- ③その6分後、取手発上野行き普通電車(2000H、9両編成)が上り本線上の2117Hに衝突。このとき、避難中であった2117H乗客多数をはねた。2117Hと2000Hの互いの先頭車両は粉砕、2両目以降も大破した。
- 図解
犠牲者
- 未だに身元不明の犠牲者が1人おり、駅近くの寺に行旅死亡人(こうりょしぼうにん)として葬られている。線路を歩いて事故に巻き込まれた、20代後半から30代ぐらいの丸顔の男性で、身長は163 cm、手に数珠を持っていたと言われている。遺体からモンタージュ写真が作成され公表されたが、知り合いであると名乗り出た人はいない。
- 事故の犠牲者の中には、当時の人気漫才コンビであったクリトモ一休・三休のクリトモ一休も含まれていた。事故後、クリトモ三休は春日三球として再起し、妻の春日照代とともに「春日三球・照代」のコンビ名による夫婦漫才で一世を風靡した。
- 事故発生から1年後、駅北東の浄正寺に慰霊聖観音像が建立された。
本事故は以下の「国鉄戦後五大事故」の一つに数えられる。
- 桜木町事故(1951) 車両火災により106人死亡・92人負傷
- 洞爺丸事故(1954) 連絡船沈没により1430人死亡
- 紫雲丸事故(1955) 連絡船と貨物船の衝突、沈没により166人死亡・122人負傷
- 三河島事故(1962) 脱線、二重衝突により160人死亡・296人負傷
- 鶴見事故(1963) 二重衝突により161人死亡・120人負傷
今回いくところ
以下のリンクはGoogleマップのリンクです。マップの保存をしていれば説明がみれます。マップの保存についてはこちら。
- 日暮里駅前イベント広場
- 国鉄労働組合東京地方本部
常磐線と京浜東北線の間 - 髪結処ゆるり
京成本線と常磐線の間 - せせらぎの小路
- アトラスブランズタワー三河島
- 三河島駅
1962年の三河島事故があった場所 - 浄正寺
- 1503年開山の浄土宗の寺。境内には、板碑や庚申待供養碑などが数多く残されている
- 本堂前には「三河島事故慰霊碑」がありその台座の上に「三河島観音」と呼ばれる観音菩薩像が安置されている
- 松本市郎兵衛(三河島の名主)の墓がある
- 宮地交差点(旧ロータリー)
- 新三河島駅
- 北島商店跡
- 競泳男子平泳ぎで2004年アテネ、2008年北京五輪で連続金メダルの北島康介の実家の精肉店
- 2023年1月閉店。記事👉北島康介さん実家精肉店が77年歴史に幕
- パブ 茉莉花
貨物線の小さな踏切 - JR西日暮里