荒川区町屋は、隅田川に沿って町工場と住宅が連なる街です。現在の景色をたどると、草花が広がった荒木田の原、川を渡った二つの渡し、高潮から街を守った堤防、地中へ姿を消した江川堀など、水と土に刻まれた歴史が残っています。

町屋の歴史をざっくり知る
町屋の地名は江戸時代の記録に見られます。荒川区教育委員会などの資料によると、町屋には室町時代の宝篋印塔や板碑が伝わり、早くから開墾された地域だったことがうかがえます。江戸時代の初めは幕府領、その後は寛永寺領となりました。
明治以降、東京の市街地が広がるにつれて町屋の景色も変わりました。農地や原野の記憶を残しながら工場と住宅が増え、関東大震災後には市街化がさらに進みます。現在も路地の先に工場が現れ、隅田川沿いには水害対策の構造物が残るなど、近代以降の都市化を歩いて確かめられる地域です。
町屋一丁目の第五中学校付近から隅田川沿いにかけては、かつて「ハンノキ山」と呼ばれました。荒川区の史跡資料にも残る古い地名で、現在の住宅地と学校の周辺に、川沿いの土地の記憶を伝えています。

町屋という地名と荒木田の土
町屋という地名の由来には複数の説があります。古くから集落があったことにちなむ説のほか、荒川区が『町屋の民俗』をもとに紹介する説では、粘土を意味する真土と、野を意味した「や」が結びつき、「マツチヤ」から「マッチヤ」「マチヤ」へ変化したとされます。
この説と深く結びつくのが荒木田土です。町屋周辺で採れた粘りの強い土は、壁土や焼き物、レンガなどに使われました。街の名の由来をたどると、足元の土そのものが町屋の歴史に重なります。
荒木田の原――土と農業の記憶
現在の町屋八丁目には、かつて「荒木田の原」と呼ばれる一帯がありました。荒川区の史跡資料には、スミレなどの草花が咲き乱れる庶民遊楽の地だったと記されています。住宅と工場が密集する現在の景色からは想像しにくい、広い原の記憶です。
荒木田では大根も育てられました。荒川区が復活栽培を進める「荒木田大根」は、砂混じりの土地を生かし、秋に種をまいて翌春に収穫する二年子大根です。白首で細長い姿が特徴で、土地の性質と農業が結びついていたことを伝えています。
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隅田川と暮らした町屋――渡しから尾竹橋へ
橋が現在ほど整備されていなかった時代、町屋と対岸の千住を結んだのが渡し船です。町屋八丁目には一本松の渡し、町屋七丁目にはお茶屋の渡しがありました。一本松の渡しは現在の足立区千住緑町一丁目方面へ、お茶屋の渡しは千住桜木一丁目方面へ人を運びました。
昭和に入ると交通の軸は船から橋と道路へ移ります。尾竹橋通りは1932年(昭和7年)に完成し、尾竹橋は1934年(昭和9年)に架けられました。道路沿いに商店が並び、人の流れも変わります。渡し跡と尾竹橋を続けて歩くと、隅田川を越える交通が船から道路へ切り替わった過程を同じ場所で追えます。
カミソリ堤防が隔てた町と川
隅田川沿いには、水害対策の歴史も残っています。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風を契機に、東京都は高潮から市街地を守る高い防潮堤の整備を進めました。1959年から1975年ごろまでに造られた直立型の堤防は、その形から「カミソリ堤防」と呼ばれました。
高い壁は高潮を防ぐ一方、街と水辺を隔てました。東京都は1980年(昭和55年)から緩傾斜型堤防、1985年(昭和60年)からスーパー堤防の整備を進め、治水と水辺への近さを両立する方向へ転換します。町屋の川沿いを歩くと、東京が水害と向き合ってきた時代ごとの考え方が構造物に残っています。
江川堀の暗渠を歩く
町屋七丁目付近には、現在は地上から姿を消した江川堀があります。荒川区の資料では石神井川の支流とされ、江戸時代には下尾久と町屋の村境でもありました。現在は暗渠となり、道路や細い通路の下をたどる形になっています。
荒川区が公開する昭和20年代の写真には、1952年(昭和27年)の江川堀水門、1953年(昭和28年)の改修前の江川堀が残っています。今の道路からかつての水路を想像すると、町屋と尾久の境界が水によって形づくられていたことが具体的にわかります。隣接する東尾久の歴史散歩、西尾久の歴史散歩と合わせると、旧尾久村とのつながりも追えます。
町工場の町へ――鉛筆産業とものづくり
町屋の近代史を語るうえで町工場は欠かせません。荒川区立図書館がまとめた資料には、昭和20年代の鉛筆工場の映像や、1958年度(昭和33年度)の業者調査、町屋の工場経営者への聞き取りが残されています。町屋六丁目の金子鉛筆、町屋三丁目のキャメル鉛筆など、地域には鉛筆関連の工場が集まりました。
農地や原野だった土地に市街地が広がり、住宅のすぐそばで製造業が営まれる景色が生まれました。現在も町屋には製造業の事業所が点在し、路地を歩くと住宅と工場が近接する街の成り立ちを感じられます。
町屋駅前の再開発
町屋駅前の現在の景観は、昭和後期から平成にかけての再開発で形づくられました。荒川区は1981年(昭和56年)に駅周辺整備の基本構想を策定し、西・東・中央・南・北の五地区に分けて整備を進めました。西地区は1987年、東地区は1988年、中央地区は1996年に竣工し、南地区のマークスタワーは2006年に建物が完成しました。
都電荒川線、京成本線、東京メトロ千代田線が交わる駅前と、荒木田の原や渡しの跡が残る隅田川沿い。その距離は徒歩圏内です。町屋では、農村から工業地、市街地、再開発された駅前へという変化を一度の散歩でたどれます。
町屋歴史散歩ルート
町屋駅前から隅田川へ向かい、荒木田の原と二つの渡し跡を経て、尾竹橋から江川堀の暗渠へ入るルートです。地図リンクは各地点のGoogleマップを開きます。
- 町屋駅前バラ花壇――再開発された駅前から出発します。
- ハンノキ山――町屋一丁目の隅田川寄りに残る古い地名をたどります。
- 荒木田の原――草花が広がった庶民遊楽の地の跡です。
- 一本松の渡し――町屋八丁目と千住緑町方面を結んだ渡しの跡です。
- カミソリ堤防入口――隅田川の高潮対策と水辺整備の変化を見ます。
- お茶屋の渡し跡――町屋七丁目と千住桜木方面を結んだ渡しの跡です。
- 尾竹橋――渡しから橋へ移った交通史をたどります。
- 江川堀暗渠入口――旧町屋村と下尾久村の境だった水路跡へ入ります。
- 江川堀暗渠・経由地1
- 江川堀暗渠・経由地2
- 江川堀暗渠・経由地3
- 路地・経由地――住宅と町工場が近接する町屋らしい街路を歩きます。
- 荒川区保護樹木ヒマラヤスギ――散歩の終盤に残る大木です。
近隣まで歩くなら、三河島~新三河島界隈の散歩も町屋の近代史とつながります。暗渠そのものを歩くコースでは、弦巻川跡の歴史散歩もあわせて楽しめます。

