東田端・上中里の歴史散歩|中里貝塚・田端の鉄道・平塚神社を歩く

中里貝塚の貝層断面展示

JR田端駅から上中里駅へ向かうと、線路、跨線橋、住宅地が幾重にも重なる東京らしい景色が続きます。ところが約5000年前、この一帯の低地には海が広がっていました。現在の上中里には、海岸近くで大量の貝を処理した国史跡・中里貝塚が残ります。

海辺だった土地は、中世には豊島氏の館が置かれたと伝わる場所となり、江戸には信仰と往来の道が通り、近代には鉄道が街の輪郭を大きく変えました。東田端と上中里を歩くと、縄文から現代までの土地利用の変化を短い距離の中でたどれます。

JR田端駅北口
JR田端駅北口(撮影:Kansai-good/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0)

東田端・上中里はどんな場所か

東田端と上中里は東京都北区の東側にあり、武蔵野台地の縁と、その東に広がる低地が接する地域です。田端駅付近では山手線・京浜東北線などが重なり、東田端から上中里にかけては東北本線系統の線路や新幹線の高架も街の大きな要素になっています。

現在の地図では鉄道が街を分けているように見えますが、地形の骨格は鉄道よりはるかに古くからありました。台地と低地の高低差、かつて海だった場所、そこを通る道や線路を重ねて見ると、東田端・上中里の景色が時代ごとに組み替えられてきたことがわかります。

約5000年前、上中里は海辺だった

上中里周辺の歴史を最も遠い時代までさかのぼる手掛かりが、国史跡・中里貝塚なかざとかいづかです。北区によると、縄文時代中期から後期初頭にかけて、当時の海岸線に沿って形成されました。現在は住宅や道路、線路に囲まれていますが、縄文時代には東京湾の入り江に面した場所でした。

近くの中里遺跡では、東北新幹線建設に伴う発掘で約5400~5300年前の丸木舟も見つかっています。北区飛鳥山博物館は、当時は現在の北区の約半分が海だったと紹介しています。住宅地の地下に残された遺跡と丸木舟は、この一帯が水辺の生活圏だったことを具体的に伝える資料です。

中里貝塚――日本最大級の「貝の加工場」

中里貝塚なかざとかいづかは幅約100メートル、長さ約500メートルに及び、貝層は最大約4.5メートルに達します。北区は日本最大級の貝塚と紹介しています。規模だけでなく、一般的な集落の廃棄場所とは性格が異なる点も特徴です。

発掘では大量の貝殻が集中して見つかり、貝を煮るために使われたと考えられる施設なども確認されました。海辺で採った貝を集中的に加工し、周辺の集落へ供給する拠点だったと考えられています。現在の言葉に置き換えれば、大規模な水産加工場に近い役割を担っていた場所です。

中里貝塚の貝層断面展示
中里貝塚の貝層断面。新潟県立歴史博物館「縄文文化を探る」展示(撮影:inazakira/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0)

中里貝塚は近代になって突然見つかった遺跡でもありません。1886年には植物学者の白井光太郎が「中里村介塚」として学界に報告し、1896年には鳥居龍蔵らが貝塚の様子を記録しました。その後、鉄道敷設や市街化が進み、遺跡の姿は街の中に埋もれていきます。

1996年の発掘をきっかけに価値があらためて注目され、2000年に国史跡へ指定、2012年には追加指定されました。2026年8月現在、北区は史跡広場の整備工事を進めています。地表だけでは想像しにくい巨大な貝層を、発掘成果とあわせて見ることが、この場所を歩く大きな魅力です。

東田端に残る江戸の信仰と近代工業の記憶

田端駅の東側にある東灌森稲荷神社とうかんもりいなりじんじゃは、東田端の時代の重なりを一か所で感じられる場所です。北区観光によると、入口の石鳥居は吉原遊郭の尾張屋彦太郎が奉納したもので、江戸下町から信仰を集めていたことがわかります。

東田端の東灌森稲荷神社
東灌森稲荷神社(撮影:Higa4/Wikimedia Commons/CC0 1.0)

境内に並ぶ赤い鳥居の多くは木製ではなく、鉄パイプと銅板でつくられています。北区は、かつてこの地域が工業地帯だったことを反映したものと説明しています。江戸の信仰を伝える石鳥居と、近代の工業地帯を思わせる金属製鳥居が同じ境内に並ぶのが、この神社の見どころです。

東田端には西新井大師や六阿弥陀参詣など、江戸の信仰と往来をしのばせる石碑も残ります。田端の与楽寺は江戸時代の六阿弥陀第4番札所でした。鉄道網ができる以前にも、人びとは寺社参詣や街道・渡しを通じてこの地域を行き来していました。

田端が「鉄道の街」になった

近代以降、田端周辺の景観を大きく変えたのが鉄道です。台地の縁と低地の間に線路が集まり、駅、操車・車両関係施設、橋が整備されました。現在も田端から上中里へ歩くと、線路が地上と高架で重なり、住宅地のすぐ脇を列車が行き交う独特の景観が続きます。

その象徴の一つが田端ふれあい橋です。前身の田端大橋は1935年に完成し、軍艦建造で培われた技術を生かした全溶接橋としてつくられました。新田端大橋の完成後、1992年に歩行者専用の田端ふれあい橋として再生されています。線路を越えるために橋梁技術が投入されたこと自体が、鉄道の街の成長を物語ります。

田端の地形や鉄道景観をさらに詳しく歩いた記録は、「田端~中里」の開催レポートで紹介しています。田端の文士・芸術家の歴史は、文士・芸術家の村「田端」の歴史もあわせて読むと、近代の街の別の表情がつながります。

上中里駅は住民運動から生まれた

JR上中里駅は1933年7月1日に開業しました。北区立中央図書館の地域資料によると、駅の設置は住民の長い運動によって実現したものです。1926年ごろから約8年間にわたって働きかけが続き、地元側が駅用地を購入して鉄道省へ寄付しました。

JR上中里駅
JR上中里駅(撮影:Nesnad/Wikimedia Commons/CC BY 4.0)

開業したばかりの駅には、自動車で入れる道路がありませんでした。当時の新聞には「タクシーが着かぬ駅」と書かれ、駅前道路が完成したのは1940年です。現在は小さな駅に見えますが、その成立過程には、鉄道を生活圏へ引き寄せようとした地域住民の意思が刻まれています。

平塚神社と豊島氏――中世の上中里

上中里の台地側に建つ平塚神社は、中世の豪族・豊島氏としましの館があったと伝わる場所で、平塚城伝承地でもあります。北区観光は、源義家が奥州から凱旋した際に豊島氏の館へ滞在し、礼として鎧と守り本尊の十一面観音像を贈ったという伝承を紹介しています。

上中里の平塚神社
平塚神社(撮影:Hisi21/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0)

境内の裏手には、その鎧を埋めたと伝わる甲冑塚かっちゅうづかがあります。神社の縁起と城の伝承が同じ場所に重なるため、上中里の中世史を現地で考える起点になります。

豊島氏としましは平安時代後期以降に成立した武士団で、室町時代には関東の争乱に巻き込まれました。1476年の長尾景春の乱では長尾景春側につき、江戸城・川越城を本拠とした太田道灌と対立します。1478年の戦いを経て勢力を失い、北区には平塚神社や清光寺、豊島という地名などにその記憶が残りました。

梶原に残る小さな演芸文化

上中里から北へ歩くと、東京さくらトラムの梶原停留場に着きます。JRの線路が街を大きく貫く東田端・上中里とは対照的に、都電は商店街や住宅地のすぐそばを走り、街との距離が近い交通機関です。

東京さくらトラム梶原停留場
梶原停留場(撮影:LERK/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0)

梶原には地域寄席「梶原いろは亭」があり、落語を中心とした小規模な演芸の場として使われています。周辺には尾久おひねり亭もあり、寺社や遺跡、鉄道だけでなく、現在進行形の地域文化まで一続きに歩けるのがこのエリアの特徴です。

東田端・上中里を歩くおすすめルート

歴史の流れをつかみやすいのは、JR田端駅を起点に、東灌森稲荷神社、中里貝塚、梶原周辺、平塚神社を経てJR上中里駅へ向かう歩き方です。東田端では江戸の信仰と近代工業、中里貝塚では縄文の海辺、平塚神社では中世、上中里駅では近代鉄道史へと時代が切り替わります。

実際に歩くと、現在の線路や住宅地が古い地形の上に重なっていることを実感できます。国史跡の中里貝塚を中心に据えながら、神社、橋、駅、都電まで視野を広げると、東田端・上中里は「鉄道に挟まれた街」から、5000年以上の変化を残す街へと見え方が変わります。

参考資料