


港区高輪
高輪一丁目から高輪四丁目。坂の多い地形で、全体に南北に長い丘陵地の形をしている。東側はかつては海(江戸湾/東京湾)に面した斜面で、斜面の下を海沿いに東海道が通っていた。東海道は現在の国道15号(第一京浜)であり、江戸の玄関口である高輪大木戸の跡が残されている。西側に下ると国道1号を境に白金・白金台と接する。
2024年に警視庁が取りまとめた『令和5年区市町村の町丁別、罪種別及び手口別認知件数』では、高輪三丁目で2023年に発生した犯罪認知件数は236件とされており、東京23区の中で14番目に多い町とされている
略歴
江戸時代は江戸の町外れで、町人町の他にも高台には諸藩の下屋敷が置かれたことから、明治時代以降に財界人などの邸宅が建ち並ぶ地となった。このため、今でも都心の著名な住宅街の一つとして知られており、2012年と2014年に『週刊ダイヤモンド』誌が行った調査では、いずれも「上場企業の社長/会長が多く住む街ランキング」の第1位になっている。しかし、かつての邸宅の多くは、既にホテルやマンション、公共施設に変わり、失われてしまった。 2000年秋の白金高輪駅開設以来、2004年-2005年を境に桜田通り沿いはタワーマンションが目立つようになった。
地名の由来
高輪の地名は、戦国時代の軍記物語の中に「高縄原」として書かれていることに由来する。高縄とは高縄手道の略語であり、「高台にある真っ直ぐな道」を意味している。ちょうど丘陵の中心部を南北に走る二本榎通りが、あたかも高い所に張った縄のようであったからと伝えられる。
またこのほかに、『吾妻鏡』の中に登場する1189年(文治5年)の奥州合戦の際、鎌倉から成田助綱の御供をした人物の一人として挙がっている高鼻和太郎に因んで高輪の地名がついたとする説もある。
高輪皇族邸
1891年、旧熊本藩細川家の中屋敷であったこの地に、明治天皇皇女常宮、周宮が移られ高輪御殿と称された。
1913年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)は、東宮御所として、1921(大正10)年までの間過ごされる。
1923年の関東大震災により高輪御殿は全焼。
1927年、高松宮様がこの地に移られた。
1930年徳川喜久子様とご結婚され、ご夫妻で過ごされた。
太平洋戦争後の高輪皇族邸
太平洋戦争後、広大な敷地は高松宮様の意によって縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪一丁目アパート、松ヶ丘住宅地、高輪地区総合支所、宮内庁官舎などが建てられた。高松中学校の校旗も高松宮様ご自身がデザインされた。一時期、夏になると、宮邸の庭にあったプールも高松中学校の生徒たちや近隣の子どもたちに、開放されていた。子どもたちが遊ぶプールサイドに高松宮ご夫妻がお見えになり、子どもたちの元気な声を聞くのがとても楽しみと妃殿下は感想を述べられた。このプールで1950(昭和25)年の夏、戦前のロサンゼルス・オリンピック大会水泳競技優勝者北村久寿雄を迎えて模範水泳を高松中学校全校生徒に見せたことがある。
敷地内にあった本館も、「光輪閣」として改装のうえ一般開放された。光輪閣はかつて駐日外交官のパーティや結婚式場など迎賓館として貸し出された。高松宮ご夫妻は小さな平屋建ての木造住宅に住まわれていた。1972(昭和47)年、光輪閣は老朽化のため取り壊された。翌年、跡地に再び平屋建ての宮邸本館を建設され、高松宮ご夫妻が住まわれた。
1975年、過激派による昭和天皇・香淳皇后の訪米反対闘争が激化し、東宮御所や伊勢神宮、葉山御用邸とともに高松宮邸にも火炎瓶が投げ込まれる。
1987年、高松宮様が薨去された後は、妃殿下がお一人で住まわれていた。2004年、妃殿下が薨去された後は、利用されていない。敷地南東部の約1,800平方メートルは喜久子妃薨去後に払い下げられ、住友不動産が2007年(平成19年)、高級分譲・賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居。
■現在の高輪皇族邸
現在、高輪皇族邸は宮内庁が管理している。2019年、今上天皇が退位し上皇になられ、東宮御所にお移りになることが予定されているが、東宮御所が改修工事を行う間、仮御所として高輪皇族邸に住まわれることになっている。
今回いくところ
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