中板橋から王子へ、石神井川の流れをたどる歴史散歩です。桜並木の下を歩き、旧中山道の「板橋」、加賀藩前田家の下屋敷跡、幕末の大砲製造と陸軍板橋火薬製造所、滝野川の渓谷、王子の音無川へ。一本の川が、農村の用水から大名屋敷、近代工業、景勝地、治水空間へと役割を変えてきた歴史を現地で追います。
中板橋から王子まで|石神井川の歴史散歩コース
スタートは東武東上線の中板橋駅。石神井川へ出て下流へ進み、板橋、加賀、滝野川を経て王子へ向かいます。沿道には桜並木、旧河道を利用した公園、大名屋敷の痕跡、軍需工場跡、江戸の行楽地が連続しています。
- 石神井川の桜並木
- 氷川つり堀公園
- 板橋
- 加賀二丁目公園・加賀公園周辺
- 徽軫灯籠
- 陸軍板橋火薬製造所跡
- 音無くぬぎ緑地・音無えのき緑地
- 旧東京第一陸軍造兵廠憲兵詰所
- 松橋弁財天洞窟跡・金剛寺
- 旧石神井川自然露頭
- 音無橋・音無親水公園
石神井川とは|農村・大名屋敷・工業をつないだ川
石神井川は、小平市を源流域として練馬区、板橋区、北区を流れ、隅田川へ注ぐ全長約25.2kmの一級河川です。板橋区の公文書館資料では、古くから農業用水として使われ、近代には板橋の火薬製造や王子の工業にも水が利用されたことが紹介されています。北区へ入ると、滝野川や音無川の名でも親しまれてきました。
この散歩で見えるのは、川そのものだけではありません。蛇行していた旧流路、大名屋敷の庭園、動力源として使われた水、洪水対策で直線化された流路が、現在の公園や緑地の形に残っています。
中板橋から板橋へ|桜並木と旧河道を歩く
中板橋駅近くから川沿いへ出ると、春は桜並木が続きます。現在は護岸に囲まれた都市河川ですが、途中の氷川つり堀公園に入ると、昔の川筋を身近に感じられます。
氷川つり堀公園は石神井川の旧河道
氷川つり堀公園は、石神井川の旧河道を利用して整備された公園です。現在の直線的な流れから少し離れた水辺に、かつて川が蛇行していた痕跡が残ります。現在の河道と旧河道を見比べると、治水工事によって川の形が変わってきたことが実感できます。
板橋|旧中山道が渡る橋
やがて旧中山道が石神井川を渡る「板橋」に着きます。板橋区は、この橋が区名の由来になったと伝えています。「板橋」の名は『延慶本平家物語』などにも見え、江戸時代の橋は木造で長さ9間(約16.2m)、幅3間(約5.4m)でした。
宿場としての板橋を詳しく歩く場合は、板橋宿の史跡を巡る記事と、板橋から巣鴨へ旧中山道を歩く記事もあわせて読むと、街道とのつながりが分かります。
加賀|前田家下屋敷と石神井川
板橋を越えると地名は「加賀」へ変わります。ここには江戸時代、加賀藩前田家の広大な下屋敷がありました。延宝7年(1679)に拝領が始まり、最終的には約21万7千坪に及ぶ大規模な屋敷となりました。庭園や築山が設けられ、参勤交代の休息や鷹狩りの拠点などにも使われました。

加賀公園の高まりは、下屋敷の庭園にあった築山の痕跡とされています。園内の徽軫灯籠は金沢・兼六園の名物を模したもので、「加賀」という地名と前田家の記憶を現在へつないでいます。
石神井川の水力で大砲を造る|幕末から陸軍板橋火薬製造所へ
加賀の歴史が大きく動くのは幕末です。嘉永6年(1853)、ペリー来航後の軍備強化を背景に、加賀藩は平尾の下屋敷で西洋式大砲の製造を始めました。鋳造した砲身の内部を削る機械を動かすため、石神井川の水車が利用されました。川は庭園の景観をつくる水辺から、機械を動かす動力源へと役割を広げます。
明治になると旧加賀藩邸の一帯は軍用地となり、明治9年(1876)に官営の陸軍板橋火薬製造所が発足しました。黒色火薬の製造にも石神井川の水力が使われ、板橋の近代工業化を支える重要な場所となりました。現地には施設や遺構が残り、国史跡「陸軍板橋火薬製造所跡」に指定されています。
加賀公園には、火薬製造に使われた圧磨機の圧輪を転用した記念碑もあります。大名屋敷、幕末の大砲製造、明治以降の軍需工場が同じ土地に重なっていることが、加賀地区の大きな特徴です。
板橋から滝野川へ|蛇行した川と音無緑地群
加賀から下流へ進むと北区滝野川に入ります。現在の石神井川は護岸に沿って流れますが、周辺には音無くぬぎ緑地、音無えのき緑地、音無もみじ緑地など、旧流路や川辺の地形を生かした緑地が点在しています。
この一帯では、川の蛇行を切り替える河川改修が進められました。地図だけでは分かりにくい旧河道も、公園や緑地の細長い形をたどると、以前の川筋が浮かび上がります。

途中にある旧東京第一陸軍造兵廠憲兵詰所は、北区に広がった軍用地の歴史を伝える建物です。板橋火薬製造所とは別の軍事施設の系譜に属します。北区の「軍都」としての展開は、23区最大の「軍都」と呼ばれた北区の軍用地跡を歩く記事で詳しく紹介しています。
金剛寺と松橋弁天|広重も描いた江戸の渓谷
滝野川の金剛寺付近では、かつて石神井川が深い谷を刻み、夏は避暑、秋は紅葉の名所として人を集めました。金剛寺は「紅葉寺」とも呼ばれ、周辺には松橋弁天、岩屋弁天と呼ばれた信仰の場がありました。
北区飛鳥山博物館によると、かつて川は金剛寺付近でU字形に蛇行し、崖には岩屋弁天の祠と弁天の滝がありました。昭和33年(1958)の狩野川台風で岩屋弁天が崩壊し、その後の流路直線化で残された蛇行部が現在の音無もみじ緑地になっています。

王子ではなぜ「音無川」と呼ばれたのか
王子周辺では、石神井川は音無川と呼ばれてきました。王子神社が熊野信仰と深く結びつき、紀伊国熊野の音無川になぞらえて名づけられたと伝わります。歌川広重の「王子音無川堰棣」など、江戸の名所絵にもその名が残っています。
現在の護岸された河川からは想像しにくいものの、江戸の人々にとって音無川は、滝や紅葉、水遊びを楽しむ王子・滝野川の景勝地でした。川沿いを歩くと、都市の中に残る谷の高低差がその面影を伝えます。
旧石神井川自然露頭|王子で東京の地層を見る
王子へ近づくと、旧石神井川自然露頭があります。川が削った崖に地層が現れた場所で、王子周辺の地形が長い時間をかけて形成されたことを目で確かめられます。地質や醸造試験所を含む王子の歴史は、醸造試験所、地層、神社、飛鳥山など王子の歴史をめぐる記事で詳しく紹介しています。

幕末に滝野川反射炉と王子分水が計画された背景や、石神井川周辺に近代工業が集まった経緯は、滝野川反射炉と王子分水を歩く記事にまとめています。
音無橋と音無親水公園|治水で変わった川
散歩の終盤は音無橋から音無親水公園へ。昭和期の洪水対策で石神井川は飛鳥山の下を通る新しい流路へ切り替えられ、旧流路の一部が親水公園として整備されました。江戸の景勝地だった「音無」の名を残しながら、現在は王子駅近くの水辺空間として使われています。

中板橋から王子まで歩くと、同じ川が、農業用水、街道の橋、大名屋敷の庭園、工場の動力、江戸の行楽地、治水施設へと姿を変えてきたことが分かります。石神井川沿いには、それぞれの時代の痕跡が現在の公園、橋、建物、地形として残っています。

