渋谷、代官山、中目黒、自由が丘、田園調布、大岡山、二子玉川、多摩田園都市方面を東横線・目黒線・大井町線・田園都市線でつなぐ概念図。正確な路線図ではなく、「鉄道と住宅地・商業地が一体で広がった」ことを示す。
はじめに|渋谷は、なぜ東急の街なのか
渋谷駅で降りると、街のあちこちに「東急」の名前が見える。
東急東横線、東急田園都市線、東急百貨店、東急プラザ、渋谷ヒカリエ、渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエア。駅の上にも、駅の下にも、駅の外にも、東急の影がある。
しかし、東急をただの鉄道会社だと思っていると、この街の見方を少し間違える。
東急は、線路を引いただけの会社ではない。人が住む場所をつくり、駅前に商店をつくり、学校や文化施設を呼び込み、休日に出かける場所をつくり、最後には渋谷という巨大なターミナルそのものを作り替えてきた会社である。
その中心にいた人物が、五島慶太(ごとう・けいた)だった。
五島慶太は「強盗慶太」と呼ばれるほど強引な経営者として語られることもある。一方で、東京の南西部に広がる私鉄沿線型の生活圏をつくった人物でもある。田園調布、自由が丘、二子玉川、多摩田園都市、そして渋谷。これらは自然に発展した街ではない。鉄道と不動産、商業、文化を組み合わせることで、意図的につくられていった街だった。
この記事では、五島慶太と東急の歴史を、「鉄道会社が街をつくる」という視点からたどる。
これは単なる企業史ではない。
東京の地図を、鉄道会社の野心から読み直す物語である。
第1章|すべては「田園都市」から始まった
東急の源流は、1918年に設立された田園都市株式会社にある。
この会社の発起人には渋沢栄一が名を連ねていた。目指されたのは、都心の過密や不衛生な住環境から離れ、緑豊かな郊外に住宅地をつくり、都心へ鉄道で通勤するという新しい生活だった。
いまでは当たり前に聞こえる。
朝は電車で都心へ向かい、夜は郊外の家へ帰る。休日は近所の商店街や公園で過ごす。駅の近くには学校や店があり、少し歩くと落ち着いた住宅街がある。
しかし大正時代の東京では、それは新しい都市の夢だった。
田園都市株式会社は、洗足、田園調布、多摩川台周辺などで住宅地開発を進めようとした。ところが、住宅地だけをつくっても人は住まない。都心へ通う鉄道が必要だった。
そこで設立されたのが、目黒蒲田電鉄である。
この鉄道建設を担う人物として登場したのが五島慶太だった。
「郊外住宅地」→「鉄道で都心へ通勤」→「駅前に商業・学校・文化施設」→「沿線価値が上がる」という循環図。
第2章|五島慶太とは何者か
五島慶太は1882年、長野県に生まれた。東京帝国大学を卒業し、農商務省、鉄道院を経て、鉄道事業の世界へ入っていく。
五島の特徴は、単に電車を走らせるだけでは満足しなかったことである。
彼は鉄道を「線」としてではなく、「面」を変える装置として見ていた。
鉄道を引けば、駅ができる。駅ができれば、人が集まる。人が集まれば、土地の価値が上がる。土地の価値が上がれば、住宅や商業施設が生まれる。するとまた鉄道に乗る人が増える。
この循環こそ、東急の街づくりの基本である。
五島慶太は、阪急の小林一三の影響を受けたとも言われる。小林一三は、鉄道、住宅地、宝塚歌劇、百貨店を結びつけ、関西で新しい私鉄経営モデルをつくった人物である。五島は東京で、そのモデルをさらに大きく展開していく。
ただし、五島慶太のイメージは一枚岩ではない。
豪腕経営者。
鉄道王。
街づくりの実践者。
強引な買収を繰り返した人物。
文化事業にも力を入れた人物。
どれも一面では正しい。だからこそ、五島慶太は面白い。彼は善人伝として語るには強すぎるし、悪役として片づけるには残したものが大きすぎる。
第3章|目蒲線と田園調布|郊外住宅地という実験
1923年、目黒蒲田電鉄の目黒〜丸子間が開通した。これが現在の目黒線のルーツである。
同じ年、多摩川台地区、現在の田園調布付近で宅地分譲が進められた。
田園調布を歩くと、駅を中心に放射状に道が伸びる独特の街路が目に入る。これは自然にできた集落ではない。計画的につくられた住宅地である。
田園調布が重要なのは、単に高級住宅街だからではない。
「鉄道会社が、郊外に理想の住宅地をつくり、都心と結ぶ」
という東急型の街づくりが、ここで形になったからである。
さらに、1923年9月の関東大震災は、郊外住宅地の価値を大きく変えた。東京中心部が大きな被害を受けた一方で、郊外住宅地への関心が高まった。都心に働く場所を持ち、郊外に住む。この生活スタイルは、震災後の東京で現実味を帯びていく。
ここで大切なのは、田園調布が「電車の駅前にたまたまできた住宅地」ではないということだ。
住宅地を売るために鉄道が必要だった。
鉄道を成長させるために住宅地が必要だった。
この二つは最初からセットだった。
田園調布駅を中心に放射状街路、周辺住宅地、目黒線・東横線との接続を示す。実地図を使う場合は正確性を優先。
第4章|東横線が渋谷を変えた
現在の渋谷は、東京を代表する巨大ターミナルである。
しかし、江戸時代からの中心地だった日本橋や銀座、明治以降に発展した新橋・上野などと比べると、渋谷はもともと谷地形の周辺部だった。
その渋谷を大きく変えたものの一つが、東横線である。
1927年、東京横浜電鉄の渋谷〜丸子多摩川間が開通した。やがて東横線は、渋谷と横浜を結ぶ大動脈となる。
渋谷は単なる途中駅ではなかった。東横線の東京側ターミナルであり、東急が人を集める入口だった。
鉄道会社にとって、ターミナル駅は特別な場所である。
郊外から乗客を運んでくるだけでは、片道の移動で終わってしまう。駅に百貨店や映画館、飲食店、文化施設をつくれば、人はそこで時間とお金を使う。さらに、便利で楽しいターミナルがある沿線は、住みたい場所になる。
つまり、渋谷の発展は沿線開発の一部だった。
第5章|東横百貨店と「駅の上の都市」
1934年、渋谷駅に東横百貨店が開業した。
これはただのデパートではない。
鉄道ターミナルと百貨店を一体化させることで、駅を単なる乗り換え場所から、買い物と娯楽の場所へ変える試みだった。
駅に降りた人が、そのまま百貨店へ入る。
沿線に住む人が、休日に渋谷へ出かける。
渋谷に来た人が、東横線に乗って沿線を知る。
鉄道と百貨店は、お互いに客を送り合う関係になった。
この発想は、現代の駅ビルや駅直結商業施設を見慣れた私たちには当たり前に見える。しかし、当時の東京において、鉄道会社が駅を中心に商業空間をつくることは、都市の使い方を変える大きな実験だった。
東急の渋谷は、ここから「通過する駅」ではなく「目的地」になっていく。
東横線渋谷駅、東横百貨店、東急文化会館、東急百貨店本店、渋谷ヒカリエ、渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエアなどを時系列で示す。
第6章|自由が丘という“ちょうどよさ”
東横線沿線を語るとき、田園調布と渋谷だけでは足りない。
自由が丘がある。
自由が丘は、東横線と大井町線が交差する街である。渋谷にも、二子玉川にも、大井町方面にも出やすい。駅前には商店が集まり、少し歩けば落ち着いた住宅地が広がる。
田園調布が計画住宅地の象徴だとすれば、自由が丘は「沿線文化」の象徴である。
カフェ、雑貨、スイーツ、ファッション、細い路地、個性的な店。
自由が丘は、巨大なターミナルではない。だが、東急沿線が持つ生活文化をよく表している。
東急の街づくりは、駅前をただ大きくすればよいというものではなかった。
渋谷のような巨大ターミナルも必要だった。
田園調布のような静かな住宅地も必要だった。
そして自由が丘のように、日常の買い物や散歩が楽しい街も必要だった。
沿線価値とは、電車の速さだけでは決まらない。
その駅に降りたくなるか。
その街で暮らしたくなるか。
友人を連れて行きたくなるか。
東急沿線の強さは、こうした「街の気分」を積み重ねてきたところにある。
第7章|大東急の時代|五島慶太はなぜ恐れられたのか
五島慶太を語るとき、避けて通れないのが「大東急」である。
戦時中の1942年、東京横浜電鉄は京浜電気鉄道と小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄となった。さらに1944年には京王電気軌道も合併する。
こうして、東急は東京南西部から神奈川方面にかけて巨大な私鉄グループとなった。
この時代の五島慶太には、強引な買収を進めた人物という評価がつきまとう。「強盗慶太」というあだ名は、その印象をよく表している。
ただし、大東急は五島個人の野心だけで生まれたものではない。戦時下では、交通事業の統合や効率化が求められていた。国家の統制経済の中で、私鉄会社も再編の波に巻き込まれていった。
それでも、五島慶太がこの機会を利用して勢力を拡大したことは確かである。
戦後になると、大東急は再編される。1948年には京王、小田急、京急が分離し、東急は現在に近い形へ戻っていく。
ここで重要なのは、五島慶太が単なる地域鉄道の経営者ではなく、首都圏の交通地図そのものを動かそうとした人物だったということだ。
彼は街をつくった。
同時に、勢力図も塗り替えようとした。
だからこそ、評価は複雑になる。
第8章|戦後復興と五島慶太の復帰
戦後、五島慶太は公職追放を受け、東急の経営から離れる時期があった。
しかし1951年に追放が解除され、1952年には東急の取締役会長に復帰する。
この復帰後の五島が見ていたのは、戦前の鉄道網の回復だけではなかった。
東京は戦災から立ち上がり、人口は増え、住宅不足は深刻だった。都心だけでは人を受け止められない。郊外に新しい生活圏をつくる必要があった。
1953年、五島慶太は城西南地区開発構想を発表する。
これが後の東急多摩田園都市へつながっていく。
田園調布で始まった郊外住宅地の夢は、戦後になるとさらに大規模なニュータウン構想へ拡大した。
五島慶太は1959年に亡くなるため、多摩田園都市の本格的な完成を見ることはできなかった。しかし、鉄道と住宅地を一体でつくるという発想は、次の世代へ受け継がれていく。
1882年誕生、1922年目黒蒲田電鉄、1923年目黒線・田園調布分譲、1927年東横線渋谷開業、1934年東横百貨店、1942年東京急行電鉄、1948年大東急再編、1953年城西南地区開発構想、1959年死去。
第9章|二子玉川と多摩田園都市|郊外はさらに遠くへ広がった
二子玉川は、東急の街づくりを考えるうえで重要な場所である。
多摩川を渡る手前にあり、都心と郊外の境目のような場所でもある。かつては玉川電気鉄道が走り、行楽地としての性格も持っていた。
戦後、東急はさらに西へ、南へと生活圏を広げていく。
田園都市線、多摩田園都市、そして二子玉川の再開発。
ここには、五島慶太が描いた「交通路の建設と住宅地開発を一体で進める」という考え方が見える。
東急多摩田園都市は、単なる宅地分譲ではない。道路、鉄道、住宅、商業、学校、公園を組み合わせ、広域の生活圏をつくる試みだった。
二子玉川ライズは、その後の時代における東急型再開発の代表例である。
駅前に商業施設、オフィス、住宅を整備し、多摩川や自然環境とのつながりを打ち出す。渋谷のような巨大繁華街ではなく、都心にも出られ、自然にも近い生活拠点をつくる。
田園調布の時代には「郊外住宅地」が新しかった。
戦後には「大規模ニュータウン」が必要になった。
現代には「住む・働く・遊ぶが混ざる駅前拠点」が求められるようになった。
東急は、そのたびに沿線の意味を作り替えてきた。
第10章|東急はなぜ“鉄道会社”に見えないのか
東急を理解するうえで重要なのは、鉄道事業だけを見ないことである。
東急は、公共交通機関と都市開発を両軸として発展してきた。
鉄道を走らせる。
住宅地を開発する。
駅前に商業施設をつくる。
百貨店を運営する。
ホテルや文化施設をつくる。
学校や病院とも関わる。
こうして、沿線の生活そのものを事業にしてきた。
これは、利用者にとっては便利で魅力的な仕組みである。朝は東急線で通勤し、帰りに駅ビルで買い物をし、休日は二子玉川や自由が丘へ行き、渋谷で映画や食事を楽しむ。
一方で、都市の多くの機能が一つの企業グループの影響下に入ることへの違和感もある。
街の個性は、誰がつくるのか。
便利な再開発は、昔の街並みをどこまで変えてよいのか。
沿線ブランドが強くなるほど、家賃や地価は上がり、住める人が限られていくのではないか。
東急の歴史は、私鉄沿線文化の成功物語であると同時に、民間企業が都市をつくることの光と影を考える材料でもある。
第11章|渋谷再開発は、五島慶太の物語の続きである
五島慶太は1959年に亡くなった。
しかし、渋谷では今も東急の都市改造が続いている。
渋谷ヒカリエ、渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエア、渋谷駅周辺の大規模再開発。
これらは五島慶太が直接手がけたものではない。だが、鉄道会社が駅と街を一体でつくるという思想は、明らかに東急の歴史の延長線上にある。
渋谷駅は、谷底に鉄道や道路が複雑に重なり合う難しい場所である。東横線の地下化、東京メトロ副都心線との直通運転、駅周辺の歩行者動線の再編。これらは、単に建物を新しくする話ではない。
街の使い方そのものを変える再開発である。
東横百貨店が開業した1934年、渋谷駅は「駅の上に都市をつくる」実験の場だった。
21世紀の渋谷再開発もまた、「駅を中心に都市を組み替える」実験である。
五島慶太の時代から続く問いは、いまも終わっていない。
鉄道会社は、どこまで街をつくるのか。
そして、私たちはその街をどう使い、どう受け継ぐのか。
第12章|街歩きで見る東急帝国
この物語は、実際に歩くとよくわかる。
まず渋谷駅に立つ。
スクランブル交差点だけを見るのではなく、駅の上、駅の下、東急系の再開発施設の位置を意識してみる。東横線がかつて地上に入っていた場所、東急百貨店東横店があった場所、渋谷ヒカリエや渋谷ストリームが駅の動線をどう変えたかを見る。
次に東横線に乗り、自由が丘で降りる。
駅前の商店街、細い道、住宅地との近さを見る。自由が丘は巨大再開発の街ではないが、東急沿線らしい生活文化を感じられる場所である。
さらに田園調布へ行く。
駅前の放射状の道を歩けば、ここが計画住宅地としてつくられたことがわかる。渋谷の喧騒とはまったく違うが、これも東急の街である。
最後に二子玉川へ向かう。
多摩川の自然、駅前の再開発、商業施設、住宅、オフィスが一体化した風景を見る。田園都市構想から始まった郊外開発が、現代的な複合都市へ変化した姿がそこにある。
渋谷、自由が丘、田園調布、二子玉川。
この4つを歩くと、東急が単に電車を走らせた会社ではないことが見えてくる。
東急は、移動をつくった。
住宅地をつくった。
駅前をつくった。
休日の行き先をつくった。
そして、東京南西部のイメージそのものをつくった。
渋谷→自由が丘→田園調布→二子玉川を半日〜1日で巡るモデルコース。各地点で見るポイントを短く記載。
まとめ|五島慶太がつくったもの
五島慶太がつくったものは、鉄道会社だけではない。
彼がつくったのは、東京の南西へ広がる生活圏だった。
田園調布では、郊外住宅地という理想を形にした。
東横線では、渋谷と横浜を結ぶ都市軸をつくった。
渋谷では、駅と百貨店を結び、ターミナルを目的地に変えた。
戦時中には大東急を形成し、首都圏交通の勢力図を大きく揺さぶった。
戦後には多摩田園都市につながる構想を示し、東急沿線の拡大の方向を決めた。
もちろん、五島慶太の評価は単純ではない。
強引な経営手法は批判され、「強盗慶太」というあだ名も残った。鉄道会社による街づくりは、便利で魅力的な一方、企業が都市の姿を大きく左右するという問題もはらんでいる。
それでも、現在の東京を歩くと、五島慶太と東急の影響を避けて通ることはできない。
渋谷の巨大な駅ビル。
自由が丘の街歩き文化。
田園調布の住宅地。
二子玉川の再開発。
それらは別々の街に見えて、一本の線路でつながっている。
そしてその線路の向こうには、「鉄道会社が街をつくる」という、五島慶太の大きな物語がある。
次に東急線に乗るとき、ぜひ車窓の外を見てほしい。
駅名の一つひとつが、東京をつくった巨大な実験の跡なのである。
参考資料
- 東急株式会社「当社について」
- 東急株式会社「100年の歩み」
- 東急株式会社「100年の歩み 第1章|東京急行電鉄の成り立ち」
- 東急株式会社「年譜」
- 東急グループ「五島慶太」
- 東急グループ「歴史年表」
- 東急株式会社「東急100年史(WEB版)および関連社史・事業史」
- 東急電鉄「東横線の歴史」
- 東急株式会社「第2章 第1節 第1項 『大東急』を解体、再編成へ」
- 東急株式会社「第2章 第1節 第2項 新たな経営体制へ」
- 東急株式会社「第8章 第3節 第2項 二子玉川プロジェクト(二子玉川ライズ)」
- 東急電鉄「自由が丘|まちを楽しむ」
- 東急百貨店「東急百貨店の沿革」
- 渋谷文化プロジェクト「東横デパートとまちの歴史(1885-1964)」

