熈代勝覧(きだいしょうらん)
200年前の日本橋が克明に描かれた貴重な絵巻
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000096767.html
文化2年(1805年)頃の神田今川橋(今の神田駅付近)から日本橋までの大通り(約700m)を東側から俯瞰、当時の大江戸の豊かな日常生活を克明に描いた作品(作者不明)で、原画はドイツのベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。約30年前にドイツで発見された原画は、当初中国の絵巻と考えられていましたが、ベルリン国立アジア美術館の調査研究により、すばらしい内容の日本の美術作品と評価されました。「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、絵巻の題簽(だいせん)には「熈代勝覧天」と記載されており、元は「天地人」の全三巻の可能性がありますが、他の巻は現在所在不明です。なお、文化3年(1806年)の「丙寅(ひのえとら)の大火」で建物の多くは焼失したとされているので、その直前の街並みを描いた貴重な記録ともいえます。
理容歴史散歩
本町薬問屋発祥の町碑
江戸時代初期から、日本橋の本町二・三丁目(現在の日本橋室町二・三丁目と日本橋本町二・三丁目)や大伝馬町周辺には、薬草や薬を扱う薬種問屋が軒を連ねていました。江戸城下町建設の際、目を病んだ人々にもてはやされた「五霊膏(ごれいこう)」を売り出して評判を得た益田氏や、薬種問屋の草分けとされる鰯屋(いわしや)・小西屋などを筆頭に、多数の薬種問屋が集まりました。これらの薬種問屋らは仲間組合を結成し、独占販売を行いました。本町三丁目のあたりは「本草を道へならへる三丁目」「三丁目匂はぬ見世は三四軒」などと川柳に詠まれるように、薬の匂いが立ち込めるほどに薬種店や問屋が集まっていました。また、薬の差別化・宣伝のため、派手で趣向を凝らした看板が店外に飾られていました。文政7年(1824)の買い物案内書である「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』によれば、本町三丁目には約40軒、本町全体では六〇軒近くの薬種問屋が掲載されています。明治17年(1884)、現在の公益社団法人東京薬事協会の前身となる薬種問屋組合が、日本橋を中心とする東京の薬種問屋六二名により設立されました。大正11年(1922)の組合員名簿には136軒の事業者が名前を連ねており、そのうち106軒が本町や本石町など現在の中央区域に事業所を持つ事業者でした。江戸の明治41年(1908)には上野の五條天神社から薬祖神の御霊を迎えて大祭が執行され、昭和4年(1919)には薬事協会事務所の屋上に薬祖神社が造営されました。平成28年(2016)、日本橋室町二丁目の福徳の森に社殿は移りましたが、現在も毎年10月に薬祖神祭は行われており、多くの人々で賑わっています。日本橋本町周辺は、現在も多くの製薬会社の本社ビルが立ち並び、江戸時代以来続く薬のまちの面影を色濃く残しています。
薬祖神社
【御祭神】
大己貴命(おおなむじのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
【御利益】
無病健康・病気平癒
わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表してきました。明治41年(1908)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が、東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和4年(1929年)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和58年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。さらに平成28年(2016年)9月28日福徳の森に第三代目の薬祖神社が遷座いたしました。
古河市兵衛之像
古河市兵衛翁は天保3年(1832)京都岡崎で生まれる。行商から身を興し明治8年(1875)鉱山経営に着手。その強靭な気根との行動力により多の困難を乗り越え「鉱山王」と呼ばれる。足尾銅山の発展を基盤として多角経営に進出。これが今日における古河グループ発展の基礎となる。この地は翁が明治10年(1877)住居兼古河本店としその20年間事業とした発祥の地である。
馬込勘解由の碑
徳川家康による江戸城築城のおり、宝田村か域の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が宝田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。この大業を成し遂げためにより、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比寿神を授けられ宝田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。ご神体は鎌倉時代の名匠「運慶」と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日に恵比寿講の前夜に市が開かれるようになった。恵比寿講に使う鯛や神棚などとともに江渡名物の浅漬け大根が売られ、売り子が大根についた糀(こうじ)を若い女性の着物に近づけ「ほら、べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっつくよ」と戯れたことからべったら市の名がついた。徳川家康公江戸出府401年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。
宝田恵比寿神社
宝田神社は慶長十一年(1606年)の昔四百十余年前、江戸城外宝田村の鎮守様でありました。
徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村(現在鳥居内楓山付近)の転居を命ぜられましたので、馬込勘解由(かげゆ)と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引率して此の地集団移転をしたのであります。
馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時、三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
享保3年(1718)創業・江戸屋のHPよりhttps://www.nihonbashi-edoya.co.jp/bettara/