今回いくところ
①青山ツイン(集合場所)
高橋是清の人生は波乱万丈でした。米国留学時代は手違いで奴隷に売られてしまいました。帰国後は、英語教師をした後、農商務省の官吏となって特許局長にまで昇進しましたが、進取の気性に富む彼はその職を辞して南米に渡り、ペルーで銀山開発に取り組みました。しかしこれに失敗、無一文で帰国しました。その時に、当時日本銀行総裁(第3代)であった川田小一郎に声をかけられ、建築中であった日本銀行本館の「建築事務主任」として採用されました。彼はその手腕を認められ、翌年には九州全域を管下とする「西部支店」の初代支店長に登用されています。
その後、副総裁時代には日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させ、1911年(明治44年)に総裁に就任しました。総裁を1年8か月務めた後は政界に身を投じ、総理大臣を1回、大蔵大臣を7回(うち1回は総理大臣との兼任)務めるなどの活躍をしましたが、昭和11年の「2・26事件」で、陸軍青年将校の凶弾に倒れ、その波乱の生涯を閉じました。
建築年代 1902年(明治35)
明治から昭和のはじめにかけて国政を担った高橋是清の住まいの主屋部分です。総栂普請(そうつがぶしん)で、食堂の床は寄木張りになっています。2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11)の2・26事件の現場になりました。高橋是清邸庭園港区赤坂にあった高橋是清邸庭園の一部を復元しています。組井筒を水源にした流れと、 雪見型灯籠などを含む景観を再現しています。是清は芝生で日光浴や庭の散歩を好んだといわれています。
この門は、江戸時代末期の幕府老中で、岡崎藩主・本多忠民(ほんだ ただもと)の江戸上屋敷(藩主とその妻子のための邸宅)の表門でした。火事で焼失してしまった門を、1862年に再建したものです。屋敷は現在の丸の内・東京中央郵便局付近にあり、元々の門は幅が120mにも及ぶ長大なものでした。明治時代以降、この門は何度も所有者を変え、その度に、霞ヶ関、白金と場所を移すことになります。そして戦後、山脇学園の理事長が門の寄贈を受け、昭和49年(1974年)、千葉県九十九里町の学園臨海施設に移設。そして最後に、平成28年(2016年)、赤坂にある山脇学園の敷地に移設されました。この門は、五万石以上の大名が許された江戸屋敷長屋門の中で、唯一残るとても貴重な存在です。昭和22年に国宝に指定され、その後制度改定に伴い、国の重要文化財となりました。
④丹後坂