❶長谷寺
慶長3年(1598年)創建、曹洞宗の永平寺東京別院。永平寺(えいへいじ)は福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗の仏教寺院。横浜市鶴見区にある總持寺(そうじじ)と並んで、日本における曹洞宗の中心的な寺院(大本山)である。現在地は下渋谷村に属して渋谷ヶ原と呼ばれ、奈良の長谷寺(はせでら)と同一の木材で造られたと伝えられる観音像を祀った宇堂があった。
現在の根津美術館には日向国高鍋藩秋月家下屋敷があり、屋敷内の池から境内の脇を通って笄川に至る支流が存在した。
昭和20年(1945年)東京大空襲により本尊・寺もろとも焼失したが、昭和52年(1977年)再興された。
史跡 伊澤蘭軒(いざわらんけん)墓
江戸時代後期の医師・文化人であり、とくに古書籍の考証に深い見識を示した伊澤信様、号蘭軒は安永六年(一七七七)十一月十一日に江戸本郷で生まれました。儒学・医学・本草を学び、とくに泉豊洲の塾では同窓に狩谷板斎がおり、親交を結び、ともに考証学の道を歩みました。のちに校斎の孫女が蘭軒の子柏軒に嫁し、また柏軒の女が核斎の養孫矩之に嫁し、姻戚関係をも重ねることとなりました。父信階のあとをうけて、備後福山藩主阿部氏の侍医となりましたが、足疾のため表医師にうつり、儒官を兼ねました。彼の校勘解題(古典の写本などを比べてその誤りや異同を調べ、できるだけ原本の形を再現した解説書)の主なものとしては『医心方(いしんほう)』・『元板千金方(げんばんせんきんほう)』『心載ギ金異方』・『武安を考経』とその跋(ばつ)(あとがき)が挙げられます。文政十二年(一八二九)三月十七日没。五十三歳。法名は芳桜軒自安倉恬居士といいます。森鴎外は史伝小説『伊澤蘭軒』を執筆し、埋没していた蘭軒の業績を探し求め、明らかにしました。
黒田清輝の墓
黒田清輝は慶応二年(一八六六)、黒田清兼の子として鹿児島に生れ、幼名を新太郎といいました。はじめ政治家を志し、フランスでは法律を学んでいるとき油絵を習い、山本芳翠に認められて絵画に専念することとなりました。帰国後、東京美術学校教授となり、その後天真道場を設立し、さらに白馬会を結成して後進を指導し、洋画壇に新風を送りこみました。晩年は帝国美術院院長となり、明治、大正にかけて美術界の長老として、美術行政に尽くすところが多くありました。麻布笄町の自邸で大正十三年(一九二四)七月十五日に没しました。おもな作品に「朝妝(たゃうしょう)」「木苺」「昔語り」「湖畔」「舞妓」などがあります。
本尊
十一面観世音菩薩立像 – 木造、高さ約10メートル。彫刻家・仏師大内青圃の作。正徳6年作の2丈6尺に及ぶ大観音像が空襲で消失し、昭和52年(1977年)に再作された。滋賀県長浜市石道寺の千手十一面観音を参考に、福岡県大川市の樹齢600年以上の楠を用いられた。顔は香淳皇后がモデルといわれる。
「麻布大観音」の説明板の内容
当大本山永平寺別院長谷寺の十ー面観世音菩薩は昔から大和長谷寺・鎌倉長谷寺と同木同体の日本三大長谷観音と粉せられ江戸時代の初めから東都一般民の信仰を集めておりましたが惜しくも昭和二十年の戦災で伽藍共々焼失いたしました。
昭和五十二年 当時の監院職にあられた大本山永平寺七十七世丹羽廉芳下が格別のお努めをもって有縁の方々の合力を得 前後十年の歳月を閲して現在の麻布大観音及び大観音堂が再建されました。
観音さまは経に「一心にそのみ名を称せば、観世音菩薩は即時にその音声を観じて皆解脱することを得せしめん」とあるように生救済の誓願を立て慈悲の眼をもって一生を視願いに応じて無量の福慧を与えたもう菩薩さまで中でも十一面観音さまは十一の面に人々の苦しみを救うカを秘めた観音さまであります。
有名人の墓
阿久悠
坂本九
花井お梅
井上馨
榎本健一
黒田清綱
黒田清輝
沖雅也
山屋他人 改葬
盛田昭夫
小野寺信
霧島昇
松原操
朝潮太郎 (3代)
加藤土師萌
和田彦次郎
出羽湊
山田為暄
寺原長輝
杉田定一
金丸重嶺
富崎春昇
吉野周太郎
波多野敬直
西郷近光
野呂栄太郎
伊澤蘭軒
立川勇次郎
丹羽氏中を始めとした三草藩主の墓を合祀。
河島醇
金澤庄三郎
橋本綱常
舩坂弘
徳間康快
渡辺みどり
❷青山霊園
1874年(明治7年)9月1日に開園した東京都立の霊園。面積は27ha。1872年(明治5年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された。当初は神葬祭墓地であった。維新の三傑である大久保利通、細井和喜蔵の『女工哀史』の印税で建てられた「解放運動無名戦士墓」も存在、忠犬ハチ公の墓もある。附属立山墓地には、永田鉄山、木村兵太郎、相楽総三なども眠っている。
有名人の墓
❸浄土宗 梅窓院(長青山 寶樹寺)
梅窓院(ばいそういん)は、1643年(寛永20年)創建の浄土宗の寺院。摂津尼崎城主の青山幸成の死後、法号の梅窓院殿香誉浄薫大禅定門から名を取って1643年(寛永20年)に下屋敷内に建立され、幸成の子孫の美濃郡上藩主や分立した旗本の菩提寺となった。
青山幸成
青山幸成(よしなり、1586~1643)は、徳川家の譜代家臣・青山忠成の四男として浜松で誕生し、遠江国掛川藩主、摂津国尼崎藩初代藩主となった。幸成系青山家初代。
青山幸成が病死すると、その遺体は長男幸利により下屋敷敷地内で火葬された。その火葬地に建立された寺は、寺号は幸成の法名である梅窓院殿香誉浄董大禅定門から、山号は幸成の夫人の法名から名を取り、長青山宝樹寺梅窓院とされた。江戸時代初期に町奉行を務めた青山忠成の遺領の内1500石を継いで分立し、幸成の家系は、その後12代に渡って梅窓院に埋葬された。
青山霊園との関係
面積約27万km2の敷地内に10万余人が眠る青山霊園は、1872年(明治5年)に郡上藩青山家下屋敷跡地の南側を墓地としたもので、1889年(明治22年)に当時の東京市に移管された
2003年(平成15年)には、隈研吾による設計で、ガラス張りやバリアフリーを特徴とする高さ5階、地下2階の本堂が再建された。
郡上藩との関係
丹後宮津藩から青山幸成の子孫である青山幸道(よしみち、1725~1779)が4万8000石で入る。幕末期の藩主・青山幸哉は日本で最初にメートル法を紹介したとされている『西洋度量考』の編者として知られている。最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争で新政府側に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子の茂吉は凌霜隊を組織して旧幕府側に味方するなど、藩は2つに分かれて混乱した。
明治4年(1871年)の廃藩置県で郡上藩は廃されて郡上県となり、旧郡上藩領は同年11月に岐阜県と福井県に分割され編入された。
お墓について
青山幸敬の墓石にはキリシタン燈籠が利用されている。その他、歌人の伊藤松軒、画家の板谷桂船・板谷桂意、儒家の川北梅山・角田青渓・角田青陵、医家の竹内玄同・竹内正信、兵学者の山脇正斎、「天狗煙草」の煙草製造販売者の岩谷松平、公卿・子爵の平松時厚、政治家の林田亀太郎、作曲家の平井康三郎、浅沼稲次郎殺害実行犯の山口二矢、僧侶の耆山上人などの墓がある。