アルメニアとアゼルバイジャンはなぜ戦争した?ナゴルノ・カラバフ紛争をわかりやすく解説

アルメニアとアゼルバイジャンの対立を理解する鍵は、南コーカサスの山岳地帯ナゴルノ・カラバフです。国際的にはアゼルバイジャン領と認められてきましたが、ソ連時代にはアルメニア系住民が多数を占める自治州でした。1980年代末にソ連の統制が弱まると、帰属をめぐる対立が民族間暴力と戦争へ発展しました。

1990年代の戦争後はアルメニア側がナゴルノ・カラバフと周辺地域を事実上支配しましたが、2020年の戦争でアゼルバイジャンが広い地域を奪還し、2023年の軍事作戦後には10万人を超えるアルメニア系住民がアルメニアへ移りました。2025年には両国首脳が和平に向けた共同宣言に署名し、和平協定案も仮署名されました。ただし、2026年9月現在、和平協定そのものは正式な署名・批准を終えていません

ナゴルノ・カラバフはどこにあるのか

アルメニアとアゼルバイジャンは、黒海とカスピ海にはさまれた南コーカサスにあります。ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン南西部の山岳地帯に位置し、アルメニア本国とは国境を接していません。

この地域は国際法上、アゼルバイジャンの領土として扱われてきました。一方、ソ連時代には「ナゴルノ・カラバフ自治州」とされ、住民の多数はアルメニア系でした。領土の帰属と住民の民族構成が一致していなかったことが、後の対立の大きな背景となります。

対立は大昔から続いているのか

現在につながる対立は、古代から同じ戦争が続いたものではなく、20世紀初頭の南コーカサスで民族対立と領土問題が政治化し、ソ連末期にナゴルノ・カラバフ問題として再燃した流れで捉えると分かりやすくなります。

帝政ロシアが動揺した1905~1906年には、バクーなどでアルメニア人と、当時「タタール人」などと呼ばれたアゼルバイジャン系ムスリム住民の間に暴動と殺害が広がりました。1917年にロシア帝国が崩壊し、1918年にアルメニアとアゼルバイジャンがそれぞれ独立すると、国境が確定していない中でカラバフなどの帰属が争点となり、1918~1920年に武力衝突が続きました。

1920年前後に両国がソビエト化されると、国家間の戦争はいったん終わりました。民族間の対立が消えたのではなく、ソ連の統治の下で国境と自治の問題が管理される状態に変わりました。

現在の紛争の直接の出発点はソ連時代

1923年、ソ連体制下のアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の中に、アルメニア系住民の多いナゴルノ・カラバフ自治州が設置されました。ソ連という一つの国家の内部では、この行政区分が直ちに国際紛争になることはありませんでした。

1980年代初頭のナゴルノ・カラバフ自治州におけるアルメニア系住民とアゼルバイジャン系住民の分布図
第1次ナゴルノ・カラバフ戦争前の民族分布。赤はアルメニア系多数、緑はアゼルバイジャン系多数の集落を示します。出典:Golden(CuriousGolden) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

状況が大きく変わったのは1980年代末です。ゴルバチョフ政権下で政治的な統制が弱まると、ナゴルノ・カラバフのアルメニア系政治勢力はアルメニアへの編入を求めました。1988年には自治州の議会が移管を求める決議を採択し、アルメニアとアゼルバイジャンの双方で大規模な抗議運動が起こります。

同時期には、アルメニア人とアゼルバイジャン人の双方が襲撃、追放、避難を経験しました。民族間の恐怖と報復感情が拡大し、ソ連崩壊によって中央政府の抑止力が失われると、対立は本格的な戦争へ移っていきます。

第1次ナゴルノ・カラバフ戦争と1994年停戦

1988年に始まった衝突は、アルメニアとアゼルバイジャンが独立した1991年以降、国家間戦争の性格を強めました。ナゴルノ・カラバフのアルメニア系勢力とアルメニア側は戦闘で優位に立ち、ナゴルノ・カラバフだけでなく、その周囲にあるアゼルバイジャンの複数地域も支配下に置きました。

戦争では多数の民間人が犠牲となり、双方で大規模な住民移動が発生しました。UNHCRは1996年、ナゴルノ・カラバフ紛争に伴って100万人を超える人々が故郷を追われたと報告しています。

国連安全保障理事会は1993年に複数の決議を採択し、アゼルバイジャンの主権と領土保全を確認するとともに、占領地域からの部隊撤退を求めました。1994年5月に停戦が成立し、大規模戦闘はいったん終わります。

「凍結された紛争」が続いた理由

1994年の停戦は和平条約ではありませんでした。ナゴルノ・カラバフではアルメニア系住民による事実上の政権が存続しましたが、独立国家として国際的な承認を受けることはありませんでした。

和平交渉はOSCEのミンスク・プロセスを中心に進められ、1997年以降はフランス、ロシア、アメリカが共同議長を務めました。しかし、アゼルバイジャンが重視する領土保全と、アルメニア側が重視してきたナゴルノ・カラバフのアルメニア系住民の安全や自己決定を両立させる合意には至りませんでした。

停戦後も国境や接触線では死者を伴う衝突が繰り返され、2016年には「4日間戦争」と呼ばれる大規模な戦闘も起きました。停戦は戦争を止めても、領土の最終的な地位や避難民の帰還、安全保障の仕組みを解決していなかったのです。

2020年の戦争で軍事バランスが逆転した

2020年戦争の直接のきっかけ

2020年9月27日、ナゴルノ・カラバフの接触線で大規模戦闘が始まりました。アルメニアとアゼルバイジャンは双方が相手側の攻撃から戦闘が始まったと主張し、OSCEミンスク・グループ共同議長も同日の声明では責任主体を特定せず、戦闘停止を求めました。

戦闘の前には、1994年停戦後も和平合意が成立せず、2016年の「4日間戦争」、2020年7月の国境衝突と緊張の高まりが続いていました。9月27日の衝突は、領土の最終的な地位と安全保障を解決できないまま軍事的緊張を積み重ねた先で全面戦争に拡大しました。

44日間の戦争でアゼルバイジャン軍は、1990年代に失っていた広い地域を奪還し、ナゴルノ・カラバフ内部でも重要都市シュシャ(アルメニア語ではシュシ)を掌握しました。

2013年に撮影されたシュシャ(シュシ)の街並みと周囲の山地
2013年のシュシャ(アルメニア語名シュシ)。2020年戦争ではこの都市の掌握が大きな転機となりました。撮影:John Steedman / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

11月10日、ロシアの仲介でアルメニア、アゼルバイジャン、ロシアの3者声明が発効しました。両軍はその時点の位置で停止し、アグダム、カルバジャル、ラチンの各地区はアゼルバイジャンへ返還されました。ナゴルノ・カラバフとアルメニアを結ぶラチン回廊などには、1,960人規模のロシア平和維持部隊が配置されました。

2020年ナゴルノ・カラバフ戦争後のアゼルバイジャン、アルメニア、ナゴルノ・カラバフ周辺の支配地域図
2020年戦争後の支配地域。戦闘でアゼルバイジャンが奪還した地域や停戦合意で返還された地域などを示します。出典:Golden / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

この戦争で、1994年以来続いていた軍事的な現状は大きく変わりました。ナゴルノ・カラバフの一部にはアルメニア系住民と事実上の現地当局が残り、最終的な政治的地位は未解決のままでした。

2022~2023年のラチン回廊問題と2023年の軍事作戦

2022年末から、アルメニアとナゴルノ・カラバフを結ぶラチン回廊の通行が大きく制約されるようになりました。食料や医薬品の不足が深刻化し、国際司法裁判所(ICJ)は2023年2月、アゼルバイジャンに対し、人・車両・貨物の双方向の自由な移動を確保するため利用可能なすべての措置を取るよう命じました。

2023年の軍事作戦の直接のきっかけ

2023年9月19日、アゼルバイジャン側で地雷爆発が相次ぎ、民間人2人と警察官4人が死亡しました。アゼルバイジャン政府は、アルメニア側の武装勢力が地雷を設置したと主張し、この事件などを理由に同日「局地的な対テロ措置」を開始したと発表しました。国連は後日の安全保障理事会報告で、この説明をアゼルバイジャン側の主張として紹介し、現地で主張を独自に検証できないと説明しています。

軍事作戦は、地雷事件だけから突然始まったものではありません。2020年停戦後も武装解除、地域の政治的地位、ラチン回廊、住民の安全をめぐる対立が続き、2023年には人道状況も悪化していました。9月19日の地雷事件が直接の発火点となり、それまでの対立が軍事作戦へつながりました。

アゼルバイジャンはナゴルノ・カラバフで軍事作戦を開始し、アルメニア側は攻撃を非難しました。戦闘は約1日で停戦に至り、現地のアルメニア系武装勢力は武装解除を受け入れました。

その後、ナゴルノ・カラバフのアルメニア系住民の大半が地域を離れました。UNHCRは2023年10月7日、わずか1週間足らずで10万人を超える難民がアルメニアに到着したと発表しています。これによって、ナゴルノ・カラバフをめぐる従来の政治・軍事構造は事実上終わりました。

なぜここまで長く戦争が続いたのか

対立を「キリスト教国アルメニア対イスラム教国アゼルバイジャン」という宗教戦争だけで説明するのは不正確です。両国の宗教的背景は異なりますが、紛争の中心にあったのは領土、民族集団の安全、国家主権、国境、避難民の帰還、交通路といった問題でした。

  • 領土保全:アゼルバイジャンは国際的に認められた国境内の主権回復を重視しました。
  • 自己決定と安全:ナゴルノ・カラバフのアルメニア系住民とアルメニア側は、自らの政治的地位と安全保障を重視してきました。
  • 1988~1990年代の暴力の記憶:双方に虐殺、襲撃、追放、避難の経験があり、相手側への不信が固定化しました。
  • ソ連崩壊:国内行政区分だった境界が国境へ変わり、ソ連中央政府の統制崩壊と同時に武力衝突が拡大しました。
  • 軍事力と周辺国:ロシア、トルコなど周辺国との安全保障・外交関係も、軍事バランスや交渉環境に影響しました。

2025年の共同宣言と和平協定案

2025年8月8日、アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領とアルメニアのニコル・パシニャン首相は、アメリカのホワイトハウスで共同宣言に署名しました。両国の外相は同時に「平和および国家間関係の樹立に関する協定」の合意済み文案へ仮署名しました。

公開された17条の協定案では、旧ソ連構成共和国間の境界を独立国家間の国境として尊重すること、互いの主権・領土保全を認めること、将来も領土要求を行わないこと、武力の行使や威嚇を避けること、批准後に外交関係を樹立することなどが定められています。

長年和平交渉を担ったOSCEミンスク・プロセスは、両国の共同要請を受けて2025年11月30日に閉鎖されました。これは1990年代から続いた紛争処理の枠組みが終わったことを意味します。

戦闘終了後、両国メディアは何を報じてきたか

2023年9月の軍事作戦後、両国の報道は同じ出来事を異なる観点から伝えてきました。ここではアルメニア側のArmenpress、CivilNetと、アゼルバイジャン側のAPA、Reportを中心に、戦闘終了後から2026年9月までの動きを時系列で追います。

時期アルメニア側の報道アゼルバイジャン側の報道その後の動き
2023年9~10月Armenpressは、10月3日までにナゴルノ・カラバフから10万617人がアルメニアへ移動したと報じました。避難民の受け入れや生活支援が大きなテーマとなりました。Reportは、アゼルバイジャン政府がカラバフのアルメニア系住民に「再統合」計画を提示したと報道。和平協定、国境画定、交通路の交渉再開を求める政府側の説明も伝えました。ナゴルノ・カラバフをめぐる従来の政治・軍事構造が終わり、両国間の争点は和平協定、国境、交通路へ移っていきました。
2023年12月CivilNetは、両政府が共同声明を出し、アゼルバイジャンがアルメニア人32人、アルメニアがアゼルバイジャン兵2人を解放することで合意したと報じました。Reportも同じ共同声明を報じ、両国が主権と領土保全を尊重した和平条約を目指す意思を再確認したと伝えました。第三国の仲介を前面に出さない直接協議による信頼醸成措置が表面化しました。
2024年4~5月Armenpressは、4村周辺で「初めて画定された国境」ができると政府説明を報道。CivilNetは、タヴシュ州の住民による抗議や安全上の懸念も詳しく伝えました。APAReportは、ガザフ地区の4村がアゼルバイジャンの管理に戻ったことを中心に報じました。1991年アルマ・アタ宣言と旧ソ連時代の共和国境界を基礎に、実際の国境画定が始まりました。
2025年3月Armenpressは、和平協定案の全文で合意し、アルメニア政府が署名の日程と場所を協議する用意があると報道。CivilNetは、合意後も署名条件をめぐる隔たりが残ることを伝えました。APAは、17条の文案交渉が完了したと報じる一方、アゼルバイジャン政府がアルメニア憲法問題とOSCEミンスク・グループ解消を次の課題として挙げたことを伝えました。和平協定の「文面」は完成しましたが、正式署名までの条件をめぐる交渉が続きました。
2025年8月CivilNetは、ワシントンで両国外相が和平協定案に仮署名し、仮署名は文面への合意を示すものの正式署名とは異なると説明しました。Armenpressも和平への重要な段階として報じました。APAは共同宣言全文を掲載し、和平協定案の仮署名、OSCEミンスク・プロセス閉鎖の共同要請、交通路整備を報じました。和平は文案交渉から、交通・経済関係を含む正常化の実施段階へ移りました。
2025年末~2026年Armenpressは、2025年11月以降にロシア・カザフスタンからアゼルバイジャン経由でアルメニアへ貨物が運ばれ、アゼルバイジャン産燃料の輸入も始まったと報道しました。Reportは2026年9月、両国が貿易量の拡大、品目の増加、新しい陸上交通路の整備を進めているとのアリエフ大統領の発言を報じました。和平交渉だけでなく、貨物輸送と二国間貿易が実際に始まり、経済面での正常化が進みました。
2026年9月Armenpressは、ミルゾヤン外相とバイラモフ外相が近く会談することで合意していると報道しました。APAReportは9月15日、両外相が国連総会に合わせてニューヨークで会談を計画していると報じました。日程はまだ最終確定していません。正式な和平協定の署名・批准を残しつつ、外相協議、国境画定、交通・貿易の実務協議が続いています。

報道用語にも違いがあります。アルメニア側媒体では避難民、住民の安全、アルメニア領内の国境画定への影響が多く扱われ、アゼルバイジャン側媒体では主権回復、領土の返還、再統合、交通路の開通が多く扱われています。双方の報道を並べると、2023年の戦闘後に争点が軍事支配から国境画定、和平協定、交通、貿易へ移った経過を追えます。

2026年9月現在、戦争は終わったのか

両国政府は2025年8月のワシントン合意以降を「平和が成立した」段階と位置づけ、国境での大規模戦闘は止まり、貿易や貨物輸送など関係正常化の動きも進んでいます。2026年8月には両国首脳が電話会談を行い、過去1年間の正常化の進展を確認しました。

一方、アルメニア首相は2026年8月、和平協定がなお正式署名と批准を待っていると説明しています。国境画定も完了しておらず、拘束者、行方不明者、避難した住民、交通路などの問題も残っています。

したがって現状は、大規模な戦争状態から和平と国交正常化の段階へ移ったが、法的・実務的な和平プロセスは完了していないと整理するのが適切です。

主要な出来事を「きっかけ」と結果で比較

時期きっかけ・背景何が起きたか結果
1905~1906年帝政ロシアの革命と政治的混乱アルメニア人とアゼルバイジャン系住民の衝突が各地で発生民族間の不信と暴力の記憶が残る
1918~1920年ロシア帝国崩壊後に両国が独立し、国境が未確定カラバフなどの帰属をめぐって武力衝突ソビエト化によって国家間戦争は終息
1923年ソ連が民族・領土問題を行政区分として処理アゼルバイジャン共和国内にナゴルノ・カラバフ自治州を設置帰属問題はソ連体制の内部に残る
1988年ソ連の統制弱体化とアルメニアへの移管要求抗議運動と民族間暴力が拡大現在につながるナゴルノ・カラバフ紛争が始まる
1991~1994年ソ連崩壊で中央政府の抑止力が消滅全面戦争へ拡大アルメニア側がナゴルノ・カラバフと周辺地域を事実上支配し、1994年停戦
2016年和平交渉停滞と停戦違反の継続「4日間戦争」軍事的な現状を武力で変え得ることが示される
2020年7月の国境衝突後も緊張が続き、9月27日に接触線で大規模戦闘44日間の戦争アゼルバイジャンが広い地域を奪還し、ロシア仲介で停戦
2022~2023年ラチン回廊、武装解除、住民の安全をめぐる対立通行制約と人道状況の悪化2023年の軍事作戦直前まで緊張が続く
2023年9月地雷爆発で6人が死亡。アゼルバイジャンが事件などを軍事作戦の理由として提示約1日の軍事作戦現地武装勢力が武装解除し、アルメニア系住民10万人超がアルメニアへ移動
2025~2026年領土保全を相互に認める和平交渉共同宣言と和平協定案の仮署名大規模戦闘は停止。正式署名・批准と国境画定は未完了

よくある疑問

この戦争は今回だけですか?

今回だけではありません。20世紀初頭にもアルメニア人とアゼルバイジャン系住民の大規模衝突があり、1918~1920年には独立した両国の間で領土をめぐる戦闘が起きました。現在に直接つながるナゴルノ・カラバフ紛争は1988年に始まり、1991~1994年、2016年、2020年、2023年と軍事衝突を繰り返しました。

ナゴルノ・カラバフは独立国だったのですか?

国際的に承認された独立国ではありません。1990年代以降、アルメニア系住民による事実上の政権が存在しましたが、国際社会はナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャン領として扱ってきました。

アルメニアとアゼルバイジャンの戦争は宗教戦争ですか?

宗教の違いは民族的アイデンティティの背景の一つですが、紛争の主要争点は領土、住民の安全、自己決定、国家主権、避難民、国境でした。宗教だけでは長期化の理由を説明できません。

いまも両国は戦争中ですか?

2026年9月現在、2020年や2023年のような大規模戦闘は続いておらず、両国政府は和平と関係正常化を進めています。ただし、和平協定はまだ正式署名・批准前で、国境画定など未解決の実務課題が残っています。

参考資料