東京ミッドタウンのフジフイルム スクエアには、入館無料の「写真歴史博物館」があります。ガラスケースには木製カメラや古い写真が並び、覗き込んで像を楽しむ装置もあります。写真を撮る仕組みと、写真が暮らしに広がるまでの歴史を一緒に見られる施設です。
2026年9月13日、企画写真展「写真伝来|写真大国ニッポンのはじまり」と常設展示を訪ねました。企画展は幕末・明治の写真、撮影機材、書籍など約30点を紹介。会期は延長され、10月31日まで開催されています。
9月13日の現地レポート|覗き込む展示と初期カメラ
訪問したのは2026年9月13日の11:30〜12:00で、滞在は30分でした。その時間帯に見かけたほかの来館者は1人で、解説してくれる担当者も1人いました。日曜日の昼前でしたが、今回の訪問時は人が少ない状態で展示を見られました。

特に印象に残ったのは、実際に覗き込める展示と、初期のカメラです。ケースに収まる機材だけでなく、自分の目で像を確かめる展示があるため、光学の仕組みを体験と結び付けられます。
写真にあるステレオスコープは、左右に並ぶ写真を両眼で見る装置です。少し異なる位置から写した2枚をそれぞれの目に見せることで、奥行きのある像として感じられます。今日の立体映像につながる楽しみが、19世紀の写真文化にもありました。

初期のカメラは、木の箱、金属のレンズ、伸び縮みする蛇腹の組み合わせが目を引きます。ガラスケース越しでも、現在のカメラとは大きく異なる本体の形や、機材ごとの構造を比較できます。

企画展の壁面には、日本への写真伝来から職業写真家の登場、乾板の時代へと進む解説パネルが並びます。写真作品の隣に人物や技法の説明があり、常設の機材展示と行き来しながら見比べられる構成でした。
撮影は基本的に可能でした。ここに掲載した現地写真は、いずれも今回の訪問時に撮影したものです。30分は今回の実際の滞在時間で、個々の解説を読む時間や案内への参加によって所要時間は変わります。
写真歴史博物館とは|企業施設でたどる写真の歩み
写真歴史博物館は、富士フイルムが運営するフジフイルム スクエア内の施設です。所在地は東京ミッドタウン・ウエスト1階。現行製品に触れられるショールームや写真展の空間とともに、写真文化を紹介する役割を担っています。
常設展示は、カメラの原理から感光材料、フィルムの普及、カラー写真、プリント、デジタルカメラまでを扱います。感光材料とは、光を受けて変化し、像を記録するための材料のことです。カメラ本体と記録材料の両方を見ると、装置が小さくなった理由や、撮影が手軽になった過程を理解しやすくなります。
企画展「写真伝来」は、その長い歴史のうち日本の幕末・明治に焦点を当てます。「写真大国ニッポン」は主催者が掲げる展覧会の題名で、写真文化の出発点を作品と道具から振り返る企画です。
写真の発明|像を映す箱から、像を残す技術へ
カメラ・オブスクーラは、暗い箱や部屋に外の像を映す光学装置です。小さな穴やレンズを通った光が反対側に像を結びます。この像を紙に写し取れば描画の助けになりますが、装置だけでは像を保存できません。
会場には、装飾紙を貼った「和製一閑張りの写真鏡」が展示されていました。写真鏡はカメラ・オブスクーラの日本での呼び名です。公式案内は、江戸時代後期の資料を現存する日本最古のカメラ・オブスクーラとして紹介しています。

光でできた像を材料に残す技術が加わり、写真術が生まれました。1839年にダゲールが公表したダゲレオタイプは、銀をめっきした銅板に像を記録する方法です。日本では銀板写真と呼ばれます。撮影後に処理した板そのものが鑑賞する写真となり、精細な像を得られました。

これに対し、タルボットが1841年に特許を取得したカロタイプは紙のネガを用います。ネガは明暗が反転した原板で、そこから明暗を戻したポジのプリントを複数つくれます。一度の撮影から何枚も写真を配れるという複製の仕組みは、その後の写真の商業化を支えました。
1848年の伝来から、1860年代の写真館へ
本展の公式解説では、1848年にオランダ船でダゲレオタイプが長崎へ渡来したことを、日本への写真伝来として紹介しています。輸入された機材で安定して写真を撮るには、光学だけでなく薬品を扱う知識と実験が必要でした。
幕末には川本幸民ら蘭学者が研究を進めます。海外の書物や技術を取り入れる窓口だった長崎で、写真も西洋の科学として学ばれました。蘭学や海外知識の往来は、江戸の長崎屋などを扱った東京で長崎の歴史をたどる記事でも紹介しています。
銀板写真による1857年の「島津斉彬像」は、国内で撮影に成功した例として知られる重要文化財です。本展の公式解説でも背景史として取り上げられていますが、本展の展示品一覧に実物の出品は記載されていません。
写真館という職業の広がりは1860年代初め、湿板写真の時代に進みます。開港地で来日した外国人から実技を学ぶ人が現れ、技術の研究と商売がつながりました。
上野彦馬(1838〜1904)は長崎で活動した写真家です。国立国会図書館は1861年頃から写真術を研究し、横浜の下岡蓮杖とほぼ同時期に写真館を開いたと説明しています。顧客は外国人から日本人へ広がり、坂本龍馬や高杉晋作らも撮影されました。明治には西南戦争の記録写真を残しています。
一方、国立公文書館は、彦馬がオランダ人医師ポンペに化学を学び、堀江鍬次郎との共同研究で1859年に湿板撮影に成功したと紹介しています。初期の研究時期の記述には資料による違いがありますが、化学の学習と実験を経て写真館の開業に至った点は共通しています。
「写真伝来」の作品と古書を読む
風景・商い・遊びを残した写真
上野彦馬《長崎、中島川》(1872年頃)は、コロジオン湿板法で撮影し、鶏卵紙にプリントした作品です。街の景観が、絵図とは異なる細部を伴う記録として残されています。
下岡蓮杖《醤油売り》(1870年代初め)は、写真を貼り付けた英字新聞『ザ・ファー・イースト』に収められたものです。職業や風俗を写した写真は、日本の暮らしを海外へ伝える役割も果たしました。
内田九一《隅田川の舟遊び》(1872年)は、今回の展示では複製です。水辺の遊びを写した作品からは、肖像撮影以外にも写真の題材が広がっていたことが分かります。

鹿島清兵衛《ぽん太》(1895年頃)は、ガラス乾板で撮影し、鶏卵紙に焼き付けて手彩色した作品です。色は撮影時に記録されたカラー写真の色ではなく、プリントに後から加えられています。

出展写真家には日下部金兵衛と小川一真も含まれます。金兵衛はベアトの助手を経て横浜で写真館を開き、日本の風景・風俗写真を手がけました。一真は写真撮影に加え、写真を精密に印刷するコロタイプの事業を展開しました。写真館、写真の販売、出版という異なる仕事が、写真を多くの人へ届けました。
化学書と写真の専門書
『舎密局必携 前篇』三巻は、上野彦馬抄訳の1862年刊の書物です。「舎密」は化学を意味します。国立公文書館によると、化学実験用の器具や薬品の製法を扱い、附録に写真術の説明があります。写真が化学の実践と深く結び付いていた時代の資料です。
『写真鏡図説』は、柳河春三が訳述した写真技術の書物です。早稲田大学図書館の書誌でも初編・二編の刊行は1867〜1868年と確認できます。公式案内は日本で最初の写真技術専門書とされる資料として紹介しています。化学全般を扱う書物から写真に特化した専門書へ、学ぶための情報も整っていきました。
湿板・乾板・鶏卵紙は何が違う?
「湿板」と「乾板」は主にカメラの中で像を記録する材料、「鶏卵紙」は撮影した像を紙の写真にする材料です。撮影とプリントの段階を分けると、作品ラベルの技法が読みやすくなります。
湿板は、乾く前に撮影と現像をする
1851年にアーチャーが発表したコロジオン湿板法では、ガラス板に薬液を広げて感光性を持たせ、濡れている間に撮影と処理を行います。「露光」は材料に光を当てること、「現像」は光を受けた材料を薬品で処理して像を現すことです。
湿板の撮影では、カメラを持って出かけるだけでは足りません。撮影場所の近くで感光板を準備し、乾燥する前に処理するため、薬品や暗室の設備も必要でした。出来上がったガラスのネガからは、複数のプリントをつくれます。
乾板は、撮影と薬品処理の時間を切り離した
ガラス乾板では、ゼラチンに感光物質を混ぜた層をガラスに塗り、乾燥した状態で使います。あらかじめ製造した板を持ち運び、撮影後に現像できるため、現場で感光板を自作する手間が減りました。
感度の向上で露光時間が短くなると、動きのある被写体も撮りやすくなります。材料を工場で大量につくって販売できることも、撮影を職人だけの技術から広い層の趣味へ変える条件になりました。
鶏卵紙と手彩色はプリントの技術
鶏卵紙には卵白を使った層があり、そこに感光性を持たせます。ネガと密着させて日光で焼き付けると、明暗が戻った写真が紙に現れます。同じネガから何枚も焼き付けられるため、肖像の配布や写真の販売に適していました。
手彩色は、そのプリントに手作業で色を付ける工程です。人物の衣服や肌に色を添える表現には、撮影者に加えて彩色を担う人の仕事も関わっています。
フィルムと写真産業|1934年の富士写真フイルム創業
ガラス板を薄く柔軟なフィルムに置き換えると、記録材料を軽くでき、巻いてカメラに収められます。ロールフィルムと携帯しやすいカメラの組み合わせは、複数枚を続けて撮ることや、日常の場面を記録することを容易にしました。

撮影材料を買い、撮影後の現像やプリントをサービスに任せる仕組みが整うと、利用者が薬品の調製から覚える必要は減ります。写真の普及には、カメラの発明に加え、材料の量産と処理を担う産業が必要でした。
富士写真フイルム株式会社が設立されたのは1934年1月です。大日本セルロイドの写真フィルム事業を分離継承し、国産工業化を進めるために発足しました。同年2月に足柄工場が操業を始め、写真フィルム、印画紙、乾板などを製造しています。

1848年の写真伝来から創業までは86年あります。幕末に技術を学んだ人々、明治の職業写真家、写真材料の工業化という長い過程の後に、富士写真フイルムが登場しました。常設展示の初期製品は、その産業史を具体的な物として確かめられる資料です。
なぜ富士フイルムが写真史を保存・公開するのか
富士フイルムは、写真材料の製造に加えて作品発表や鑑賞の場を提供してきました。1957年には銀座に富士フォトサロンを開館。2007年の本社移転に合わせて東京ミッドタウンにフジフイルム スクエアを開きました。公式活動紹介によると、2023年3月時点で写真展は延べ1,700回以上、来場者は800万人以上です。
作品の収集もその活動の一つです。2014年の創立80周年に、日本写真史を代表する101人から各1点を集めた「フジフイルム・フォトコレクション」を収蔵しました。2024年度の公式活動報告書では、全国20か所以上で展示し、20万人を超える人が鑑賞したと報告されています。
2024年には「人を撮る」をテーマに、世界の写真家20名による53点を「フォトコレクションII」として収集しました。写真材料メーカーが、写真を生む道具と、そこから生まれた作品の両方を保存する取り組みです。
フジフイルム スクエアは2018年にメセナアワード優秀賞「瞬間の芸術賞」を受賞し、写真歴史博物館は「THIS IS MECENAT 2026」の認定を受けています。メセナとは企業による芸術文化支援です。入館無料なのも、写真文化に触れる機会を広く提供するという施設の方針によります。
開催概要・アクセス・無料解説
展覧会名:フジフイルム スクエア 写真歴史博物館 企画写真展「写真伝来|写真大国ニッポンのはじまり」
会期:2026年7月1日〜10月31日。会期延長後の日程です。
開館時間:10:00〜19:00。最終日は16:00まで。入館は終了10分前まで。会期中無休。
会場・料金:フジフイルム スクエア 写真歴史博物館/入館無料。東京都港区赤坂9-7-3、東京ミッドタウン・ウエスト1階。
主催:富士フイルム株式会社。監修:高橋則英、鳥海早喜。企画:フォトクラシック。
無料解説:公式案内では毎日15:00から約30分、予約不要です。写真製品の研究・開発・技術サポートに携わった富士フイルムOBが、常設展示と企画展を解説します。会場内での立ったままの案内で、座席はありません。
今回は11:30〜12:00の訪問なので、15:00の定時解説には参加していません。
展示作品は保存のため一部が複製に入れ替わる場合があります。開催情報やアクセスの詳細は公式展覧会案内で確認できます。周辺の街歩きは、東京ミッドタウンや乃木坂の成り立ちを扱った六本木7丁目・乃木坂の歴史散歩につながります。
参考資料
フジフイルム スクエア「写真伝来|写真大国ニッポンのはじまり」/写真歴史博物館/これまでの活動/フジフイルム・フォトコレクション
富士フイルム「沿革・歴史」/フジフイルム スクエア2024年度活動報告書
国立国会図書館「上野彦馬」/同「小川一真」/国立公文書館「舎密局必携」/早稲田大学図書館「写真鏡図説 初,2編」
Historic England「A Century of Historic Photographic Types」/National Science and Media Museum「Celluloid and Photography, part 3」
現地記録・写真:2026年9月13日11:30〜12:00。開催情報確認日:2026年9月15日。
