駒込駅から歩いて数分。石垣と樹木に囲まれた門を入ると、都心の街路から切り離されたように池と築山が広がります。六義園は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の側近として知られる柳沢吉保が、元禄年間に築いた大名庭園です。
大泉水を囲む園路、池中の島、藤代峠などの築山には、和歌や歌枕の世界が地形として組み込まれました。その後、柳沢家による修復、岩崎家による再整備、東京市への寄贈、戦災と復旧を経て、現在の六義園があります。園内を歩くと、元禄期の地形、明治期の茶屋、戦後の再建建物が同じ景観の中に重なっています。
六義園とは
六義園は、東京都文京区本駒込にある回遊式築山泉水庭園です。柳沢吉保が元禄8年(1695)に徳川綱吉から駒込の地を与えられ、池を掘り、山を築き、水を引いて整備しました。元禄15年(1702)には庭園を「六義園」、御殿を「六義館」と名付けています。
園の中心は大泉水と中の島です。池の周囲を歩くと、視点が変わるたびに水面、築山、石組、樹林の重なり方が変化します。現在も残る基本的な地割には、柳沢吉保の作庭時期にさかのぼる部分が多く含まれます。

昭和15年(1940)に名勝、昭和28年(1953)に特別名勝に指定されました。文化庁の国指定文化財等データベースでは、東京都文京区本駒込六丁目に所在する特別名勝として登録されています。江戸後期に町人と文人の交流から生まれた向島百花園と比べると、大名庭園として出発した六義園の性格がはっきりします。
柳沢吉保はなぜ駒込に六義園を造ったのか
柳沢吉保は、館林藩主時代から徳川綱吉に仕え、綱吉が将軍になると幕臣として昇進しました。元禄元年(1688)には側用人となり、将軍に近い位置で幕政に関わります。吉保の政治的な経歴や側用人という役職は、「側用人とは何か|柳沢吉保・田沼意次から見る将軍側近政治」で詳しく紹介しています。
元禄8年、吉保は綱吉から駒込の地を拝領しました。現在の六義園周辺は江戸市街の北西側に位置し、武家屋敷、寺社、農地が混在する地域でした。幕末の土地利用は、「駒込絵図を徹底解説|六義園・染井・駒込を古地図で読む」でも確認できます。
吉保はこの土地に池を掘り、平地に築山を造りました。水源には千川上水を利用し、園内に流れと池を設けます。自然の地形を眺める庭よりも、古典文学の情景を新たな地形として組み立てる庭を目指した点に、六義園の特徴があります。
「六義園」という名前と柳沢吉保の和歌
六義園の「六義」は、中国古代の詩の分類「詩の六義」を受け、日本の和歌論へ取り入れられた考え方に由来します。『古今和歌集』仮名序では、和歌を六つの型に分ける説明があり、吉保はこの「六義」を庭園名に用いました。吉保自身の『六義園記』では、日本風の読みとして「むくさのその」と記されています。
吉保と和歌の関係は深く、元禄13年(1700)には幕府歌学方の北村季吟から古今伝授を受けています。奈良県大和郡山市の柳沢文庫には、伝授関係資料、吉保の公用日記『楽只堂年録』、六義園関係史料、狩野派の絵師が描いた『六義園図』などが伝わります。
庭園名、園内の地名、景観構成まで和歌と結びつき、池、浜、築山、流れ、橋を歩く体験そのものが和歌の世界をたどる仕組みになっています。
六義園八十八境――和歌の世界を庭に写す
六義園八十八境は、園内に設定された88か所の名所です。万葉集や古今和歌集の歌枕、中国古典などにちなむ地名が置かれ、特に紀州・和歌の浦周辺の景観が数多く取り入れられました。
和歌山市が紹介する八十八境には、吹上浜、片男波、蘆辺、紀川、紀川上、布引松など、現在の和歌山市周辺と結びつく名称が並びます。駒込の庭に紀州の地理を写し、古典の中で知られた風景を歩いて体験できるように構成したものです。

八十八境は、現在も地形や名称が残る場所、石柱が残る場所、後世の修復で姿を変えた場所に分かれます。東京都公園協会の案内では、八十八境を示す石柱は現在32か所に残るとされています。
池は海、流れは川、築山は峠に見立てられ、八十八境の名称と地形が一つの庭園景観を構成しています。
水面の変化まで「和歌の浦」を写した可能性
2026年9月に公開された日本造園学会の研究は、大泉水の池底地形と水位変動を分析し、和歌の浦で景観として意識された潮の満ち引きを六義園でも取り込んだ可能性を指摘しています。水位が下がると岸辺の形が変わり、干潟を思わせる景観が現れるよう池底が構成されていた可能性があります。
この研究は、地名に加えて水際の変化まで庭の演出に取り込んだ可能性を提示しています。六義園の池泉を「和歌の風景」として見る手がかりの一つです。
現在も残る柳沢吉保時代の景観
柳沢吉保が築いた庭園の基本構成は、大泉水、中の島、築山、流れ、八十八境の地名に残っています。
出汐湊――池が大きく開ける地点
出汐湊は、大泉水の池畔にある八十八境の一つです。正門側から園内へ入り、樹林を抜けて水面が大きく開ける場所にあります。右手に中の島、左手に蓬莱島が見え、池を海辺の景観として感じやすい地点です。

妹山・背山――中の島に置かれた男女の山
妹山・背山は、中の島にある二つの築山です。古語では女性を「妹」、男性を「背」と呼び、中の島には男女の間柄を表す景観が組み込まれました。島にはイザナギ・イザナミの故事にちなむ鶺鴒石もあります。
藤代峠――紀州の峠を駒込に築く
藤代峠は、園内最高の築山で、高さは約35メートルです。名称は紀州の藤白峠にちなみます。頂上は富士見山とも呼ばれ、江戸後期の記録には富士山や筑波山を望んだ景観が記されています。
現在は周辺の市街化で遠景が変わりましたが、頂上から大泉水、中の島、園内の樹林を見下ろす構図は、築山が庭園全体を俯瞰する装置だったことを伝えます。
紀川・紀川上――和歌山の川を庭の流れにする
紀川・紀川上は、紀州を流れる紀ノ川にちなむ景観です。池だけで構成せず、細い流れ、滝、石組を組み合わせることで、海辺から山間部までの地形を一つの庭に収めています。
完成後の六義園――柳沢家が守り、使い続けた庭
六義園は元禄15年の完成後も姿を変えました。享保7年(1722)には千川上水からの給水が停止し、水を基盤とする庭園は大きな影響を受けます。建物や景観の一部も失われ、維持と修復が繰り返されました。
安永2年(1773)に家督を譲って駒込下屋敷へ移った柳沢信鴻は、六義園の修復に力を入れました。柳沢文庫に残る『宴遊日記』『松鶴日記』には、信鴻の六義園での生活が詳しく記録されています。庭仕事、釣り、舟遊び、花見、栗拾い、茸採りなど、庭は日々の生活と遊興の場として使われました。
信鴻の時代には、親族や知人に加えて外部の見物人も六義園を訪れるようになります。王子や飛鳥山方面への遊覧と組み合わせた訪問も記録され、江戸後期の六義園は大名家の私的な庭から、名所として知られる庭へ性格を広げました。
文化10年(1813)には十方庵敬順が六義園を訪れ、『遊歴雑記』に当時の景観を記しました。完成から100年以上が過ぎた時点で失われた建物がある一方、年月を経た樹木や地形が山里の趣を生んでいたことが分かります。
岩崎家は六義園をどう再生したのか
明治11年(1878)、三菱の創業者岩崎彌太郎が六義園と周辺地を取得しました。幕末から明治初期にかけて荒れていた庭園は、岩崎家のもとで大規模に整備されます。
明治13年(1880)には千川上水からの給水が復活し、大泉水へ再び水が入りました。岩崎家は樹木を大量に移植し、日本各地から庭石を集め、園路や建物を整えます。彌太郎の死後も、弟の彌之助、長男の久彌が整備を受け継ぎました。
現在のつつじ茶屋は、明治年間にツツジの古木材を用いて建てられた建物です。昭和20年(1945)の空襲を免れ、岩崎家時代の姿を現在へ伝えています。

岩崎家の六義園は、賓客を迎える場としても使われました。明治30年(1897)の園遊会には700~800人、明治38年(1905)の日露戦争凱旋祝賀園遊会には東郷平八郎ら将兵約6,000人が招かれたと記録されています。江戸の大名庭園は、近代財閥の社交空間へ役割を変えました。
大正期の本郷区図には岩崎家の別邸として六義園周辺を確認できます。近代の駒込と岩崎家の土地利用は、「大正東京・本郷区を古地図で徹底解説|東京帝国大学・湯島・本郷」でも紹介しています。
東京市への寄贈、戦災、特別名勝
岩崎久彌は昭和13年(1938)に六義園を東京市へ寄贈しました。同年10月から一般公開され、私邸の庭園から公共の文化財庭園へ転換します。
昭和15年(1940)には名勝に指定されました。昭和20年4月13日の空襲では、芦辺茶屋、心泉亭、吟花亭、滝見茶屋などが焼失し、熱海茶屋も損傷しました。戦後は心泉亭などが再建され、茶屋や園路の整備が進められます。
昭和28年(1953)、六義園は特別名勝に指定されました。現在の園内では、柳沢吉保期の地割、柳沢家の修復、岩崎家の建物と植栽、東京市・東京都による復旧が重なっています。
現在の六義園では、どの時代を見ているのか
六義園を歩くと、江戸から昭和までの異なる時代の要素を一度に見られます。代表的な場所を年代ごとに整理すると、園内の見え方が変わります。
| 園内で見るもの | 主に関係する時代 | 見どころ |
|---|---|---|
| 大泉水・中の島 | 柳沢吉保期の基本構成 | 池と築山を中心とする庭園の骨格 |
| 出汐湊 | 柳沢吉保期 | 八十八境の海辺の景観 |
| 妹山・背山 | 柳沢吉保期を基礎に後世も修復 | 中の島に組み込まれた男女の山 |
| 藤代峠 | 作庭初期 | 紀州の藤白峠を写した園内最高の築山 |
| つつじ茶屋 | 岩崎家期 | 明治年間の建物で戦災を免れた |
| 内庭大門 | 現在の門は東京市期 | 庭園中心部への入口 |
| 心泉亭 | 戦後再建 | 戦災後の復旧を伝える建物 |
| 宜春亭 | 戦後移築 | 昭和38年(1963)に移築された茶室 |
六義園を歴史を追って歩く
六義園の歴史を現地で追うなら、正門から内庭大門を抜け、出汐湊で大泉水を見渡すところから始めると庭園の骨格をつかめます。中の島の妹山・背山を見ながら池沿いを進み、渡月橋周辺から藤代峠へ向かうと、平地に池と山を造った作庭の規模が分かります。
藤代峠から下り、つつじ茶屋へ向かうと時代が江戸から明治へ移ります。さらに滝見茶屋や吹上茶屋周辺では、流れと池を組み合わせた景観を近くから観察できます。園内を一周すると、和歌の地名、作庭初期の地形、岩崎家時代の建物が自然につながります。

四季の六義園
六義園は、同じ地形でも季節によって視界と色彩が大きく変わります。春は内庭大門近くのしだれ桜と藤代峠のツツジ、初夏はサツキやアジサイ、夏は深い緑、秋はモミジやイチョウ、冬は葉を落とした樹木の間から築山や池岸の線が見やすくなります。

しだれ桜や紅葉の時期には夜間特別観賞などが開催されることがあり、開園時間や入園方法も通常期と変わります。
開園時間・料金・アクセス
六義園の所在地は東京都文京区本駒込6-16-3です。通常の開園時間は午前9時から午後5時までで、入園は午後4時30分までです。休園日は12月29日から翌年1月1日です。
一般入園料は300円、65歳以上は150円です。小学生以下と都内在住・在学の中学生は無料です。イベント開催時には開園時間や入園方法が変わることがあります。最新情報は東京都公園協会「六義園」公式ページで確認できます。
JR山手線・東京メトロ南北線の駒込駅から徒歩圏内にあり、都営三田線千石駅からも歩けます。通常は正門が主要な入口となり、染井門は時期や催事に応じて開門します。

