愛知県豊川市の豊川海軍工廠平和公園には、太平洋戦争中の防空壕跡が3基残っています。発掘された一例は長さ4.5m、幅1m、深さ1.2mほどです。
1945年8月7日、豊川海軍工廠はB-29爆撃機124機による集中爆撃を受けました。午前10時13分から10時39分までの26分間に3,256発の500ポンド爆弾が投下され、豊川市によると死者2,500人以上、負傷者1万人以上に達しました。

工廠内には多数の防空壕がありましたが、多くは地面を掘り、木材で上部を組み、その上へ土を盛る簡易構造でした。豊川市は、こうした防空壕を至近弾に対してほとんど無力だったと説明しています。
同じ平和公園には、鉄筋コンクリート造の建物全体を土で覆った「旧第一火薬庫」も残っています。
豊川海軍工廠とは?
豊川海軍工廠は、日本海軍が航空機・艦船用の機銃、機銃弾、測距儀、双眼鏡、射撃装置などを大量生産した軍需工場です。1939年12月15日に開庁しました。
豊川市によると敷地は約200ヘクタールで、91区画に工場、倉庫、道路、鉄道、防空施設などが配置されていました。戦争末期には5万人以上が働いていました。
機銃工場から総合兵器工廠へ|1941~44年に部門を拡張
豊川海軍工廠は1939年12月15日、航空機・艦船に搭載する機銃と弾丸の主力生産工場として開庁しました。豊川市は機銃生産について日本最大規模だったと説明しています。しかし工廠の役割は機銃だけにとどまりませんでした。
戦局の拡大に伴い、1941年に双眼鏡・測距儀などを扱う光学部、1943年に射撃指揮装置などを扱う指揮兵器部、1944年に各種器材を扱う器材部が新設されました。機銃・弾薬から光学機器、射撃装置、関連器材まで、海軍兵器の複数分野を一つの巨大工廠で生産する体制へ拡大していきます。
敷地は約186~200haに及び、91区画に工場、倉庫、道路、鉄道、防空施設などが配置されました。工廠周囲には工員寄宿舎、海軍共済病院、工廠神社なども建設され、兵器工場を中心に市街地そのものが形成されていきました。1943年6月1日の豊川市成立にも、工廠建設による人口増加と地域の結びつきが大きく影響しました。
12~13歳の国民学校高等科児童まで動員された
働いていた人々は、職員、工員、徴用工員、動員学徒などに大きく分けられます。戦争末期には青年男子が軍へ召集され、工場の労働力不足を補うため女子挺身隊や学校生徒の動員が拡大しました。
豊川市の戦後80年資料では、1945年3月には12~13歳の国民学校高等科児童まで豊川海軍工廠へ動員されたとしています。最盛期の就業者は5万人以上、2025年改訂の市ガイドブックでは交代勤務を含めて6万人近くが働いた時期があったと説明しています。
工廠は「熟練工だけが働く兵器工場」ではありませんでした。徴用工、女子挺身隊、旧制中学校・女学校などの動員学徒、さらに国民学校高等科の児童までが生産を支えていました。8月7日の犠牲者に若い生徒や女性が多数含まれた背景には、この大規模な労働動員があります。

画像は1945年の九九式一号20mm固定機銃です。豊川海軍工廠で撮影された写真でも、この個体が豊川製であることを示す写真でもありません。工廠が生産した航空機用機銃を理解する参考資料です。
1945年8月7日の大空襲|Mission No.317
豊川海軍工廠は日本海軍の重要な兵器生産拠点だったため、米軍の爆撃目標となりました。米軍は1944年の段階から上空写真を撮影して工廠の配置を把握しており、戦争末期には攻撃対象として具体的に研究していました。
1945年5月19日には指揮兵器部第一機械工場付近へ初めて爆弾が落とされ、40人余りが犠牲となりました。7月15日にはP-51戦闘機が来襲し、24日には工廠上空から降伏を促す多数のビラが散布されています。8月7日の大空襲は、こうした偵察・小規模攻撃の後に実施された大規模な集中爆撃でした。
米国戦略爆撃調査団(USSBS)が整理した第20・第21爆撃軍団の任務記録では、この攻撃は「Mission No.317, Toyokawa Naval Arsenal, 7 August 1945」として残っています。豊川海軍工廠が一つの独立した戦略爆撃任務として扱われたことが分かります。
豊川市の2025年改訂ガイドブックでは、8月7日の攻撃にはB-29爆撃機124機に加え、P-51戦闘機97機が参加したと説明しています。午前10時13分から10時39分までの26分間に、3,256発の500ポンド爆弾が投下されました。500ポンド弾3,256発の総重量は約738トンに達します。短時間に工廠全域へ高密度の爆撃が集中したことが被害の大きさにつながりました。
死者2,500人以上
豊川市の公式説明では、死者は2,500人以上、負傷者は1万人以上です。犠牲者には工員・職員だけでなく、動員されていた学生・生徒や女子挺身隊員も含まれます。
終戦は空襲から8日後の1945年8月15日でした。
防空壕の構造と被害
工廠内の防空壕
敷地内には空襲に備えて多数の防空壕が設けられ、幹部職員向けには鉄筋コンクリート地下室構造の壕もあったとされています。
一方、一般的な防空壕の多くは素掘りの溝に木材で天井を組み、土を盛る構造でした。大型爆弾の直撃や至近弾に耐える地下要塞ではありませんでした。
平和公園の3基だけではない|2017年発掘で防空壕22基を確認
現在、豊川海軍工廠平和公園には同じ系統の防空壕跡が3基保存されています。しかし、戦時中の工廠全体に存在した防空壕はこれよりはるかに多く、平和公園の3基は巨大工廠に分散していた避難施設の一部にすぎません。
豊川市教育委員会が2017年に旧名古屋大学豊川キャンパスで行った発掘調査では、北東部の3区から防空壕21基と土坑10基、南東部の6区から防空壕1基と500ポンド爆弾の着弾穴1基が確認されました。一度の発掘調査だけで合計22基の防空壕が確認されたことからも、工廠内に多数の小規模防空壕が密に配置されていたことが分かります。
平和公園で発掘された一例は全長4.5m、幅1m、深さ1.2m、出入口2か所で、平面形はコの字状です。出入口を屈折させることで爆風や破片が直接内部へ入りにくくする構造でした。豊川市は、この壕について上部を覆う掩蓋がなかった可能性も指摘しています。
一方、幹部職員用には鉄筋コンクリート地下室構造の防空壕もあったとされ、避難施設の防護性能には大きな差がありました。一般工員や学徒が入る簡易壕と、より堅固な施設が同じ工廠内に併存していた点は、空襲時の安全条件が一様ではなかったことを示します。
防空壕があっても2,500人以上が死亡した理由
26分間に3,256発の大型爆弾が投下され、工廠には5万人以上が働いていました。多くの防空壕は強固な地下施設ではなく、工場建物の破壊、火災、爆風、破片、倒壊が広い範囲で同時に発生しました。
被害をさらに大きくしたのが、警報から爆撃開始までの短さでした。豊川市が戦没者名簿や生存者の手記を分析した資料では、午前10時過ぎに空襲警報のサイレンが鳴った直後、「女子ならびに低学年学徒退避せよ」という放送が行われたとされています。ただし「総員退避」を含む指示の伝わり方や職場ごとの対応には差があり、工廠外の退避場所へ逃げる時間がなかった職場もありました。
8月7日は平日の勤務時間中で、工員、職員、徴用工、女子挺身隊、動員学徒、国民学校高等科児童など多数の人が敷地内にいました。警報が出ても、5万人を超える規模の職場から短時間で全員を安全な場所へ移動させることは困難でした。
一般工員向け防空壕の多くは素掘りの溝に木材を組み、その上へ土を盛る簡易構造でした。至近弾では天井崩落や土砂埋没が起こり得ます。一方、幹部向けには鉄筋コンクリート地下室構造の壕もあったとされ、同じ工廠内でも避難施設の防護性能には差がありました。防空壕の数だけでなく、警報から爆撃開始までの時間、避難経路、壕の構造を合わせて見る必要があります。
火薬・信管を守る防爆施設
旧第一火薬庫
平和公園には豊川市指定史跡「旧第一火薬庫」が残っています。防空壕ではなく、火薬類を保管する鉄筋コンクリート造平屋建ての施設です。
最大の特徴は建物全体を大量の土で覆った構造です。盛土基底部は東西47.75m、南北37.40m。内部の東西方向の通路北側に3室の火薬保管室があります。
二重壁と換気
火薬庫はコンクリート壁の内側に板壁を設けた二重構造で、空気層を屋根上の換気塔や盛土基部の通気口につないでいます。火薬の保管に必要な温度・湿度への対策です。
旧第三信管置場
同じ平和公園には豊川市指定史跡「旧第三信管置場」も残っています。こちらは建物の周囲に土塁を築き、爆発時の爆風や破片が周囲へ広がるのを抑える構造です。
現在の保存・公開・継承
豊川海軍工廠平和公園
平和公園は2018年6月9日に開園しました。約3ヘクタールの園内に防空壕跡3基、旧第一火薬庫、旧第三信管置場、街路灯、豊川市平和交流館などがあります。
平和交流館
平和交流館では、豊川海軍工廠の歴史、8月7日の空襲、働いていた人々、戦争体験などを展示しています。
2026年9月時点では9:00~17:00、火曜休館(祝日は開館)、12月29日~1月3日休館で、入館は無料です。
火薬庫内部はガイド時に見学
旧第一火薬庫と旧第三信管置場の内部は常時公開ではありません。通常は外部から見学し、「豊川海軍工廠語り継ぎボランティア」の園内ガイド時に内部へ入れます。
2026年7月更新の豊川市公式情報では、個人が予約なしで参加できるガイド開始時間は10:00、11:00、13:30、14:30で、案内は約30~40分です。
現在の開園情報
2026年5月更新の公式情報では、開園時間は9:00~17:00、火曜休園(祝日は開園)、12月29日~1月3日休園です。入園無料、駐車場は約60台です。
慰霊と継承
画像1の慰霊碑は平和公園内ではなく、豊川稲荷境内にあります。豊川市は毎年8月7日に平和祈念式典を開き、語り継ぎボランティアや学校による継承活動も続けています。
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参考文献・確認先
- 豊川市「豊川海軍工廠について」
- 豊川市「防空壕跡について」
- 豊川市「旧第一火薬庫について」
- 豊川市「豊川海軍工廠平和公園内の施設について」
- 豊川市「旧第一火薬庫・旧第三信管置場内の見学について」
- 豊川市「豊川海軍工廠語り継ぎボランティアについて」
- 豊川市「広報とよかわ2025年8月号・豊川海軍工廠 戦争の記憶」
- 豊川市「豊川海軍工廠跡発掘調査報告書」
- 豊川市「旧豊川海軍工廠近代遺跡調査事業」
- 国立国会図書館「USSBS Tactical Mission Reports―Mission No.317 Toyokawa Naval Arsenal」
- 豊川市「戦後80年資料・豊川海軍工廠空襲犠牲者の勤務場所と死亡状況」

