大正東京・神田区を古地図で徹底解説|神保町・御茶ノ水・秋葉原

大正期の東京市神田区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

大正9年(1920)1月15日第二版の「番地界入東京市拾五区全図 神田区図 2」は、関東大震災の約3年8か月前の神田区を、町名・番地界・学校・病院・鉄道・河岸まで細かく記録しています。西の三崎町・猿楽町・神保町から、駿河台、一ツ橋・錦町、神田駅、秋葉原、和泉町、岩本町まで、現在の千代田区北東部にあたる市街地を連続して追えます。

この地図の面白さは、江戸以来の町名と、大正期に急速に整備された大学・鉄道・医療施設が同じ画面に重なっていることです。1920年は日本大学、明治大学、中央大学、東京高等商業学校などが大学制度の転換期を迎え、神田駅は開業直後、秋葉原駅は貨物輸送の拠点だった時期でした。3年後の関東大震災で失われる街並みも、この地図には震災前の姿で残されています。

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三崎町・駿河台するがだい・外神田

1 三崎町・西小川町・猿楽町さるがくちょう――日本大学とキリスト教系学校

大正9年の神田区古地図 三崎町・西小川町・猿楽町、日本大学・仏英和高等女学校・天主公教会周辺
大正9年(1920)神田区図。三崎町・西小川町・猿楽町周辺。日本大学、仏英和高等女学校、天主公教会、数理学館などが見えます。

画像には水道橋停車場、三崎河岸、三崎町一~三丁目、日本大学、西小川町、西小川小学校、猿楽町、仏英和高等女学校、天主公教会、数理学館、東京座などが読めます。現在の水道橋駅から神田三崎町、西神田、神田猿楽町へ続く一帯です。

西小川町一丁目8番地には「岡村」と読める個人名があります。大正8年版『帝国医師名簿』を参照した調査では同番地に皮膚科医・岡村龍彦おかむら・たつひこが確認され、この表記は岡村龍彦の医院または邸宅である可能性が高いです。岡村は岡村病院院長を務め、皮膚病学の専門家として知られました。岡村は1901年にレントゲン光線を皮膚病治療へ応用する報告を行った医師で、日本にX線が導入されて間もない時期から新しい治療法を試みていました。地図上の姓と番地が一致するため有力ですが、地図自体にはフルネームがないため、人物の同定は可能性として扱います。

三崎町は、幕末の講武所、明治初期の陸軍練兵場を経て、1890年に旧練兵場が三菱へ払い下げられた後、市街地として本格的に開発されました。道路や上下水道が整えられ、日本法律学校の移転に加えて劇場や飲食店が集まり、学校街と歓楽街が隣り合う町になりました。地図に残る複雑な道路と大きな街区は、この明治期の都市開発を引き継いだものです。

地図の「大成中学校」は、1888年に杉浦鋼太郎が創設した大成学館を前身とし、1899年に私立大成中学校と改称した学校です。神田三崎町一丁目に校地を置き、1913年の神田大火では校舎4棟のうち3棟を焼失しました。再建後の学校がこの大正9年図に描かれており、1923年の関東大震災でも被災しました。戦後の1946年に三鷹へ移転し、現在の大成高等学校へつながります。

地図には「東京座」と読める表記があります。東京座は1897年に開場し、市川團十郎一門との結び付きが深い大劇場でしたが、千代田区の文化財資料では1915年に廃座したとされています。大正9年の地図になお名称が残る理由は特定できません。旧施設名が目印として残された、または地図の施設情報の更新が追いつかなかった可能性があります。番地図の刊行年と施設の営業年には、このような時間差が生じる場合があります。

日本大学の前身である日本法律学校は1896年に三崎町へ初めて独立校舎を構えました。1920年4月には大学令による日本大学の設立が認可され、同年には新校舎も完成しています。この地図の刊行は1月なので、大学制度上の大きな転換を迎える直前の三崎町キャンパスを記録したことになります。1923年の関東大震災で校舎は大きな被害を受けましたが、日本大学法学部は現在も神田三崎町にあります。

猿楽町の「仏英和高等女学校」は現在の白百合学園につながります。フランスのシャルトル聖パウロ修道女会による教育活動から発展し、1910年に仏英和高等女学校となりました。1913年の神田大火で校舎を焼失した後に再建され、この地図にはその震災前の校地が描かれています。1923年の震災でも焼失し、のちに九段へ移転しました。

隣接する「天主公教会」はカトリック神田教会です。神田猿楽町の教会を中心に教育活動が広がり、白百合学園や暁星学園につながる流れが生まれました。地図で教会と女学校が近接していること自体が、神田におけるカトリック教育の展開を示しています。

「数理学館」は、数学者・数学教育者の松岡文太郎が神田猿楽町に設けた数学教育・受験予備教育の機関です。松岡は数学書の編纂や『数学雑誌』の刊行にも携わりました。1888年の広告には「神田中猿楽町十四番地 数理学館」とあり、明治期からこの一帯で活動していたことが確認できます。大正9年図との番地の違いは、移転または町名・番地整理による可能性があります。理由を直接示す資料は確認できません。

2 駿河台――明治大学、正教会、病院が並ぶ高台

大正9年の神田区古地図 駿河台・西紅梅町・北甲賀町、明治大学・佐々木病院・金杉病院周辺
大正9年(1920)神田区図。駿河台鈴木町・西紅梅町・北甲賀町周辺。明治大学、佐々木病院、金杉病院、神学校・女子神学校などが見えます。

駿河台側には、駿河台鈴木町、駿河台袋町、駿河台西紅梅町、東紅梅町、北甲賀町、南甲賀町、明治大学、神学校、女子神学校、佐々木病院、金杉病院などが記されています。対岸には湯島三丁目も見え、神田川の谷を挟んで本郷・湯島と駿河台が向き合っています。

明治大学は1911年に現在の駿河台キャンパスに最初の記念館を完成させ、1920年4月に大学令による大学設立認可を受けました。地図の刊行は同年1月なので、ここに描かれた明治大学は制度上の大学昇格直前です。三崎町の日本大学、一ツ橋・錦町の諸学校と合わせると、1920年の神田は高等教育制度が大きく切り替わる瞬間にありました。

駿河台にはニコライ堂を中心とする日本ハリストス正教会の宗教・教育施設が集まっており、地図にも神学校・女子神学校が読めます。ニコライ堂は1891年に完成し、1923年の震災で大きな被害を受けました。現在も神田駿河台の象徴ですが、大正9年の地図では大聖堂だけでなく周辺の教育施設まで含めた正教会の拠点として見えます。

地図の「佐々木病院」は、1882年に佐々木東洋が神田駿河台で創立した杏雲堂醫院の系譜に位置づけられます。佐々木政吉は自邸敷地に研究室を設けて結核研究を進め、1916年からは佐々木隆興が院長を務めました。1923年の関東大震災では杏雲堂醫院と研究施設が焼失しました。現在の杏雲堂病院へ続く、駿河台の医学史を伝える施設です。

「金杉病院」は、耳鼻咽喉科医・金杉英五郎の東京耳鼻咽喉科医院(金杉病院)です。金杉は1892年に東京耳鼻咽喉科病院を開き、翌年には東京耳鼻咽喉科会を結成しました。これは現在の日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会につながります。南甲賀町に建てられた金杉病院は、日本で耳鼻咽喉科が専門分野として形成されていく時期の拠点の一つでした。

この駿河台周辺には、地図に邸名の文字がなくても著名人の邸宅がありました。南甲賀町5番地の西園寺公望駿河台邸は、住友吉左衛門春翠が取得した地所に1900年から西園寺の東京本邸として置かれ、大正8年(1919)には新邸が建てられました。1907年には泉鏡花、国木田独歩、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、森鷗外らを招いた会が開かれ、後に「雨聲會」と呼ばれました。邸宅は1923年の関東大震災で焼失し、再建後の敷地は1940年に中央大学へ売却されました。

東紅梅町側には三菱第2代社長・岩崎彌之助の駿河台邸があり、1879年には長男の岩崎小彌太がここで生まれました。小彌太は1916年に三菱合資会社社長となり、邸内には剣道場「駿河台道場」も設けられました。現在の御茶ノ水ソラシティ付近にあたり、学校・教会・病院が集まる駿河台に、政財界人の邸宅も置かれていたことが分かります。

3 神田明神と外神田――現在は消えた細かな町名

大正9年の神田区古地図 神田明神・外神田、五軒町・亀住町・田代町周辺
大正9年(1920)神田区図。神田神社(神田明神)と外神田北部。五軒町、亀住町、田代町、末広町など旧町名が細かく記されています。

画像には神田神社、宮本町、五軒町、亀住町、元佐久間町、栄町、松富町、田代町、末広町、金沢町、練成小学校、金沢尋常高等小学校などが見えます。現在の外神田という大きな町名になる前は、数町単位の細かな町が並んでいました。

現在「神田明神」と呼ばれる神社は、地図では正式名称の「神田神社」と記されています。江戸城の表鬼門を守る神社として現在地に鎮座し、神田・日本橋の総鎮守として町人社会と結び付きました。1923年の震災で社殿を焼失し、1934年に鉄骨鉄筋コンクリート造の社殿が再建されました。大正9年図は、震災で失われる旧社殿の時代を記録しています。

五軒町の「練成小学校」は、1878年に公立神川小学校として創立した学校の系譜です。1898年に「練塀町」と「お成街道」にちなみ練成小学校と改称し、翌1899年に五軒町へ移転しました。1923年の関東大震災を経て、1929年には復興小学校として新校舎が建てられました。現在の外神田に残る旧練成中学校の敷地へつながる学校史で、秋葉原北側が住宅・商業地だけでなく地域教育の場でもあったことを伝えます。

秋葉原・和泉町・岩本町・神田駅

4 秋葉原駅・和泉町――貨物駅と泉橋慈善病院

大正9年の神田区古地図 秋葉原駅・和泉町・佐久間町、泉橋慈善病院周辺
大正9年(1920)神田区図。貨物駅時代の秋葉原駅、和泉町、佐久間町。泉橋慈善病院や山本病院、貨物取扱所などが見えます。

秋葉原駅の構内は現在の旅客駅よりはるかに大きく描かれ、「貨物取扱所」「電信取扱所」などが読めます。周辺には練塀町、花房町、相生町、和泉町、泉町、佐久間町、佐久間河岸、和泉橋慈善病院などが並びます。

秋葉原駅は1890年に貨物駅として開業し、1925年に旅客営業を開始しました。大正9年の地図は、貨物輸送を中心としていた時期の駅構内を記録しています。現在の「電気街の駅」から想像すると見落としやすい姿で、神田川と鉄道を使う物流拠点だったことが大きな構内から分かります。

地図では「和泉橋慈善病院」と読める表記があります。三井記念病院の公式沿革では、1909年に神田和泉町で三井慈善病院として開院し、1919年4月に正式名称を「泉橋慈善病院」へ改称しています。現在の三井記念病院につながり、名称変更の翌年にこの地図へ記録されました。

5 和泉町・佐久間町――東京衛生試験所と神田川の物流

大正9年の神田区古地図 和泉町・佐久間町・東京衛生試験所・柳原河岸周辺
大正9年(1920)神田区図。和泉町・佐久間町と東京衛生試験所、柳原河岸周辺。神田川沿いの医療・衛生施設と物流地帯を示します。

この画像では東京衛生試験所が大きな区画を占め、佐久間町、佐久間河岸、柳原河岸、餌鳥町、元佐久間町などが周囲に並びます。神田川沿いには河岸が連続し、水運と陸上交通が接続していました。

東京衛生試験所は、1874年に発足した東京司薬場を起源とし、1887年に東京衛生試験所へ改称しました。第一次世界大戦で輸入医薬品が途絶した1914年以降は重要医薬品の製造にも取り組み、国産化を進めました。大正9年の地図は、日本の薬事・衛生行政を支えた研究機関が神田和泉町に置かれていた時代を示します。1946年には神田和泉町から世田谷へ移転し、現在の国立医薬品食品衛生研究所につながっています。

6 岩本町・東紺屋町ひがしこんやちょう――職業町名と河岸が残る商工業地

大正9年の神田区古地図 岩本町・東紺屋町・材木町・大和町周辺
大正9年(1920)神田区図。岩本町、東紺屋町、材木町、大和町など江戸以来の職業町名が密集する神田東部。

岩本町、東紺屋町、紺屋町、東松下町、東福田町、西福田町、美倉町、材木町、元岩井町、松枝町、大和町、橋本町、江川町など、多数の旧町名が読めます。神田区東部では一つの大きな町名にまとめられる前の細分された街区がそのまま残っています。

「紺屋町」は染色に関係する職人町、「材木町」は材木流通を背景とする町名で、江戸の商工業の記憶を引き継いでいます。神田川や掘割沿いの河岸は、物資を舟から町へ運び込む接点でした。現在は埋め立てられた水路も多く、道路だけを歩くと分かりにくい水運都市の構造が地図では明瞭です。

7 神田駅・鍛冶町かじちょう――開業直後の高架鉄道

大正9年の神田区古地図 神田駅・鍛冶町・新石町・乗物町周辺
大正9年(1920)神田区図。開業直後の神田駅と鍛冶町、新石町、北乗物町・南乗物町周辺。高架鉄道と旧職人町が重なります。

画像では多町、新銀町、松下町、鍛冶町、新石町、北乗物町、南乗物町、紺屋町、鎌倉河岸などが、高架鉄道の周囲に並びます。神田駅は1919年3月に開業したばかりで、地図刊行時点では開業から1年も経っていません。

1919年の中央線延伸で、万世橋側から神田を経て東京駅へ鉄道がつながりました。鍛冶町、紺屋町、乗物町といった江戸以来の職業町名が残る市街地を、近代的な高架鉄道が貫いています。江戸の町割と大正の交通網が一枚の地図上で重なる場所です。

一ツ橋・神保町・万世橋

8 一ツ橋・錦町――一橋大学・東京外国語大学・中央大学につながる学校街

大正9年の神田区古地図 一ツ橋・錦町、高等商業学校・外国語学校・中央大学周辺
大正9年(1920)神田区図。一ツ橋・錦町の学校街。高等商業学校、外国語学校、中央大学、正則英語学校、錦城中学校などが集中します。

一ツ橋・錦町周辺には、高等商業学校、外国語学校、工科学校、学士会、正則英語学校、錦城中学校、中央大学、神田区役所、帝国教育会、東京瓦斯株式会社の材料置場・製作工場などが読めます。学校と行政・企業施設が数街区の中に集中する、神田でも特に情報量の多い場所です。

英語教育では「国民英学会」も重要です。1888年、磯辺弥一郎いそべ・やいちろうとアメリカ人F・W・イーストレイクが神田錦町に創設し、英語科教員検定や上級学校受験を目指す学生を多数集めました。「錦城中学校」「錦城商業学校」は、矢野龍溪やの・りゅうけいらが1880年に始めた三田英学校を源流とし、1889年に錦町へ移転した錦城学校から発展した学校です。大学だけでなく、語学・中等・実業教育の私学が密集していたことが分かります。

「帝国教育会」は、1883年創設の大日本教育会を前身とする全国規模の教育団体です。1896年に帝国教育会と改称し、教育政策や教員の交流、機関誌の刊行などを通じて戦前の教育界に大きな影響を持ちました。近くには「東京音楽学校分教場」もありました。東京音楽学校は現在の東京藝術大学音楽学部につながり、一ツ橋の分教場は1923年の関東大震災で焼失しています。1920年の地図は、震災で姿を消す前の教育施設群を記録しています。

教育施設の間に「東京瓦斯株式会社」の材料置場・製作工場・神田出張所がある点も見逃せません。東京瓦斯は1897年に本社を神田錦町へ移し、1909年には製作所神田工場を設けました。ガス管や器具の製作・保管を担う施設が学校街のすぐ隣にあり、一ツ橋・錦町が文教地区であると同時に、首都インフラを支える業務地区でもあったことを示しています。

地図には時計・宝飾店「天賞堂」の神田拠点も確認できます。天賞堂は1879年に銀座で創業し、時計・貴金属・舶来品を扱った店として知られました。明治期には銀座本店のほか神田にも出張所を構えており、学校や官庁の集まる神田に、高級時計や輸入品を扱う商業機能も入り込んでいたことが分かります。

「高等商業学校」は現在の一橋大学につながります。東京商業学校を前身とし、1902年から東京高等商業学校となり、地図刊行から約3か月後の1920年4月には東京商科大学へ昇格しました。この地図は校名が切り替わる直前の一ツ橋を記録しています。1923年の震災では一ツ橋の建物の多くを失い、その後の国立移転へつながっていきます。

「外国語学校」は現在の東京外国語大学につながる東京外国語学校です。1913年の神田大火で校舎を失い、神田錦町三丁目13番地の仮校舎で授業を続けていました。1921年4月に麹町区元衛町へ移転するため、この大正9年図は神田に残る最後期の校地を示します。大正12年の麹町区図には移転後の東京外国語学校が描かれており、15区シリーズを並べると学校が区をまたいで移動した経過を追えます。

中央大学も1920年4月に大学令による設立認可を受けました。神田区錦町二丁目に校地を構え、周囲には正則英語学校、錦城中学校などが並んでいました。正則英語学校は英語学者・斎藤秀三郎が1896年に設立した学校で、現在の正則学園高等学校につながります。

地図の「工科学校」は東京工科学校です。1908年に開校し、1911年に神田錦町三丁目24番地へ移転しました。電工・機械・建築・採鉱冶金・土木などを教え、1923年の関東大震災で校舎を焼失しました。文科系の大学や語学学校だけでなく、工業技術教育の学校も同じ錦町に集まっていました。

「学士会」は現在の学士会館につながる組織です。1912年に神田錦町で木造会館を完成させましたが、1913年の神田大火で焼失し、同年末に仮会館を再建しました。大正9年図の時期はこの仮会館が使われており、これも1923年の関東大震災で焼失しました。現在の学士会館は1928年完成です。

9 神保町・今川小路――学校街が古書店街を育てた

大正9年の神田区古地図 神保町・今川小路・専修大学・順天中学校周辺
大正9年(1920)神田区図。神保町・今川小路周辺。専修大学、順天中学校などが見え、後の古書店街を支えた学校集積が分かります。

神保町、北神保町、南神保町、今川小路、専修大学、順天中学校などが読めます。さらに周辺の画像までつなげると、日本大学、明治大学、中央大学、高等商業学校、外国語学校などが徒歩圏に集まっています。

専修大学は1884年に今川小路二丁目8番地、現在の神田キャンパスにつながる土地を取得し、翌年移転しました。1922年には大学令による大学となるため、この地図は大学昇格直前の校地を示します。

「順天中学校」は、和算・測量学者の福田理軒が1834年に開いた順天堂塾を源流とします。1871年に神田仲猿楽町へ移って順天求合社となり、1900年に順天中学校と改称しました。1913年の神田大火で校舎を焼失して再建した後、大正9年図に描かれ、1923年の関東大震災で再び焼失しました。のち三崎町を経て王子へ移転し、現在の順天中学校・高等学校へつながります。

神保町に書店・古書店・出版社が集まった背景には、この学校密集があります。学生や教員が教科書、専門書、洋書を必要とし、出版・印刷業も近くに集積しました。10枚の地図をつなげると、古書店街の成立を「周辺に学校が多かった」という説明ではなく、実際の学校配置として確認できます。

10 万世橋まんせいばし淡路町あわじちょう――ターミナルから中間駅へ変わった万世橋駅

大正9年の神田区古地図 万世橋・淡路町・須田町・秋葉原駅周辺
大正9年(1920)神田区図。万世橋・淡路町・須田町と秋葉原駅周辺。高架鉄道、神田川、旧河岸が交差する交通の要衝。

淡路町、須田町、連雀町、佐柄木町、材木町などの町名と、神田川、高架鉄道、万世橋周辺の線路が一画面に入っています。路面電車や鉄道、川運が集中し、神田の交通結節点としての性格がよく分かる場所です。

万世橋駅は1912年に開業し、赤煉瓦の駅舎を備えた中央線のターミナルとして栄えました。1919年に中央線が神田を経て東京駅まで延伸すると、万世橋駅は中間駅へ変わります。大正9年の地図は、その転換から間もない時期です。

1923年の関東大震災で初代駅舎は焼失し、1925年に2代目駅舎が完成しました。1936年には鉄道博物館が併設され、1943年に駅は休止します。高架橋や階段、ホームの遺構は現在の「マーチエキュート神田万世橋」に受け継がれ、地図上の鉄道構造を現地でも追えます。

学校・出版・鉄道が重なった神田区

10枚を西から東へつなぐと、三崎町・猿楽町・神保町の学校街、駿河台の大学・宗教・医療施設、一ツ橋・錦町の高等教育機関、神田駅と万世橋の鉄道網、秋葉原の貨物施設、和泉町の病院・衛生試験所、岩本町周辺の職人町と河岸が連続します。

1920年は、神田駅の開業直後で、日本大学・明治大学・中央大学・東京高等商業学校などが制度転換期を迎え、東京外国語学校が神田を離れる直前でした。3年後の関東大震災で街路や施設は大きく変わりましたが、神保町の学校街と出版・古書の集積、神田駅・万世橋・秋葉原を軸とする交通拠点という二つの性格は、その後の神田を形づくる基盤になりました。

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参考資料