板橋区加賀一丁目から板橋本町周辺にかけては、江戸時代の加賀藩前田家下屋敷と、明治以降の火薬製造所の歴史が重なっています。藩主の別荘だった広い土地の一部は官営工場となり、近代日本の軍需工業を支えました。加賀公園や加賀西公園に残る遺構・記念碑は、江戸から昭和に至る土地利用の変化を伝えています。
約21万8千坪に広がった前田家下屋敷
延宝7年(1679)、加賀藩四代藩主の前田綱紀は幕府から板橋の屋敷地を拝領しました。下屋敷はその後拡張され、最終的には約21万8千坪もの広さになりました。「平尾邸」とも呼ばれ、石神井川の水を利用した池泉回遊式の庭園が造られ、藩主と家族が別荘として利用しました。
下屋敷の範囲は現在の加賀一・二丁目や板橋一・三・四丁目などに及びます。下屋敷の庭園に築かれた築山が、区立加賀公園に残ります。現在の史跡登録範囲と江戸時代の屋敷全体の範囲は異なり、屋敷の広がりは周辺地域も含めて考える必要があります。
明治初年に設けられた火薬製造所
明治初年、前田家下屋敷跡の一部には官営の火薬製造所が設置されました。のちの東京第二陸軍造兵廠板橋製造所につながり、第二次世界大戦の終結まで操業しました。敷地には火薬を試験する発射場、燃焼実験室・物理試験室などの研究施設、貯蔵室、製造施設が置かれました。
火薬を製造し、実験して保存する一連の工程を示す施設が残された点が重要で、平成29年度(2017年度)に国の史跡「陸軍板橋火薬製造所跡」に指定されました。区は史跡公園としての整備を進める方針を示しています。見学可能な範囲は時期や工事状況によって変わるため、訪問前には区の案内を確認する必要があります。
圧磨機圧輪記念碑が伝える火薬製造技術
加賀一丁目の区立加賀西公園には、圧磨機圧輪記念碑があります。黒色火薬の製造に使用されたベルギー製の圧磨機の圧輪を転用して造られたもので、製造所の創設に関わった澤太郎左衛門の功績をたたえ、大正11年(1922)に建立されました。機械の部品そのものを記念碑に用いた点に特色があります。
明治35年の爆発事故と慰霊碑
加賀西公園には、明治35年(1902)の板橋火薬製造所爆発事故で亡くなった技手や職工を悼む「招魂之碑」もあります。当時の無煙火薬は国内で初めて板橋で生産された新しい種類の火薬でしたが、安定性に課題があり、製造過程で事故が発生しました。犠牲者を慰霊する碑は、近代工業の発展とともに生じた危険や労働の歴史を伝えています。
板谷公園と住宅地への転換
明治時代に民間へ払い下げられた下屋敷の一部は、昭和10年(1935)に板谷造船株式会社によって住宅地として分譲されました。会社が公園用地を無償提供し、東京市が整備した板谷公園は昭和12年(1937)に開園しました。区内で現存する最古の公園として知られ、当時の銘板が残ります。広大な大名屋敷の土地は、工場、住宅地、公園へと姿を変えました。
周辺の歴史と参考資料
加賀地域の西側には板橋宿・仲宿周辺の歴史が広がり、中山道の宿場町と武家地、近代工業の立地を併せてたどれます。
