板橋区北西部の徳丸・高島平には、田畑と村の生活を伝える古民家や祭礼、幕末の砲術訓練地の記憶が残されています。徳丸北野神社では豊作を祈る田遊びが続けられ、徳丸ケ原と呼ばれた広い原野は、明治以降に田園地帯となり、昭和期の住宅地開発で現在の高島平へと姿を変えました。
徳丸本村・脇村の鎮守と北野神社
徳丸六丁目の徳丸北野神社は、かつての徳丸本村・脇村の鎮守です。長徳元年(995)に京都北野神社から分霊を迎えたと伝わります。神社には江戸後期から昭和期に奉納された絵馬・扁額が残り、村の暮らしと信仰を知る文化財となっています。
国重要無形民俗文化財の徳丸北野神社田遊び
徳丸北野神社では毎年2月11日夜、農作業を演じて豊作を祈る田遊びが奉納されます。神社の創建に際して村人が田夫の仕事を演じたのが起源とされる行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。毎年5月5日には獅子舞と徳丸四ツ竹踊りも奉納され、村の祭りの多様さを伝えています。
境内にある「梅樹堂師匠大野時長の碑」は明治5年(1872)の建立です。大野時長は北野神社の宮司で、江戸時代の天保期から明治初年まで境内で開かれた寺子屋「梅樹堂」の師匠でした。碑には徳丸・下赤塚・西台・下練馬などから学んだ81名の子弟の名が刻まれ、地域の教育史を伝えます。
徳丸ケ原と高島秋帆の砲術訓練
現在の三園・高島平・新河岸一帯は、かつて徳丸ケ原と呼ばれました。江戸時代には赤塚六か村の入会地や萱場が広がり、将軍家の鷹場や砲術訓練場として使われました。天保12年(1841)には高島秋帆が徳丸ケ原で西洋式砲術の訓練を実施しています。幕末の軍事技術の転換を示す場所として知られます。
明治時代以降は徳丸田んぼ・赤塚田んぼと呼ばれる田園地帯となりました。大正11年(1922)に建てられた徳丸原遺跡碑は、現在は高島八丁目の徳丸ケ原公園に移されています。昭和44年(1969)から本格化した宅地開発によって農地の景観は大きく変わり、高島平団地をはじめとする住宅地が整備されました。
享保8年築の旧粕谷家住宅
徳丸七丁目の旧粕谷家住宅は享保8年(1723)に建てられた、寄棟造りの茅葺き民家です。徳丸脇村の名主粕谷家から隠居した家が始まりとされ、現在も建築当初の場所に残ります。平成29年度(2017年度)に東京都指定有形文化財となりました。家に伝わる古文書は、江戸時代の村の暮らしと信仰を知る資料として郷土資料館が管理しています。
郷土資料館と郷土芸能伝承館
赤塚五丁目の板橋区立郷土資料館は、昭和47年(1972)に開館し、区内の考古資料、古文書、民俗資料などを収集・保管しています。徳丸六丁目の郷土芸能伝承館は平成元年(1989)に設けられ、地域に伝わる田遊びや獅子舞などの練習・伝承の拠点となっています。徳丸と赤塚を行き来すると、祭りの行われる神社と、それを伝える文化施設の両方に出会えます。
関連する地域と参考資料
徳丸北野神社の田遊びと並んで、赤塚諏訪神社や赤塚氷川神社の田遊びも板橋の農村文化を伝えています。
