東京で奈良県を探す|柳生・大和郡山藩邸から法隆寺宝物館、県人会まで

東京国立博物館 法隆寺宝物館の展示室

東京で奈良県の痕跡をたどると、最初に現れるのは江戸城の周辺です。丸の内には柳生家の屋敷があり、幕末の愛宕下には柳生藩と高取藩の上屋敷が並びました。明治になると、内幸町の旧大和郡山藩柳沢家上屋敷が東京府庁へ転用され、上野には法隆寺から献納された古代美術が集められました。

さらに1893年には、高取出身の山田三良が東京大和会を結成し、奈良から上京した津村重舎が日本橋で津村順天堂を創業します。江戸の大名屋敷から近代行政、博物館、企業、学生寮、県人会へ。東京の街には、奈良と首都を結んだ長い歴史が重なっています。

徳川家と柳生――大和から江戸へ伸びた最初の太い線

柳生宗矩やぎゅうむねのりは、現在の奈良市東部にあたる柳生の出身です。父から新陰流を受け継ぎ、徳川家康に仕えたのち、2代将軍秀忠、3代将軍家光の兵法指南役を務めました。宗矩は大名に列し、柳生藩が成立します。

柳生宗矩の木像
柳生宗矩木像(芳徳寺蔵)。撮影:Hisane / Wikimedia Commons(Public Domain)

宗矩の江戸屋敷は時期によって場所が変わります。正保年間の江戸図では、現在の丸の内一~二丁目付近に「柳生但馬」の屋敷が確認できます。江戸城大手門に近い大名小路の一角で、将軍家に仕えた柳生家の立場が地図にも表れています。

この一帯の大名屋敷は、当サイトの「正保年中江戸絵図で見る大手町・丸の内」で古地図と現在の街を詳しく比較しています。

大和8藩の江戸屋敷――愛宕下に並んだ柳生藩と高取藩

版籍奉還後の大和国やまとのくにには、郡山藩、高取藩、小泉藩、柳本藩、芝村藩、柳生藩、櫛羅藩くじらはん、田原本藩の8藩がありました。奈良県は現在一県としてまとまっていますが、江戸時代には複数の小藩と幕府領、他藩領が入り組む地域でした。

安政2年(1855)の愛宕下周辺を見ると、現在の港区にあたる「愛宕下大名小路」の東側に大和柳生藩、西側に大和高取藩の屋敷がありました。奈良県域の二藩が、江戸城に近い同じ大名屋敷街へ並んでいたことになります。

上屋敷は藩主と家族の居所であると同時に、江戸詰藩士が働く藩の東京事務所でもありました。参勤交代で江戸と大和を往復する藩主、その留守を預かる家臣、情報や物資を運ぶ人々によって、奈良と江戸の関係は日常的に保たれていました。

江戸後期の大名屋敷を広く追う場合は、「御江戸大名小路絵図を徹底解説」「尾張屋版江戸切絵図 全29図を徹底案内」も参考になります。

大和郡山藩邸が東京府庁になった――内幸町に残る決定的な接点

奈良と東京の歴史が最も直接につながる場所が、千代田区内幸町です。慶応4年(1868)、江戸が東京と改称されて東京府が設置されると、幸橋内にあった旧大和郡山藩やまとこおりやまはん柳沢家上屋敷が府庁舎に選ばれました。

東京府は同年8月17日に開庁し、9月2日から旧柳沢邸で本格的な執務を始めました。江戸時代の大名屋敷が、そのまま近代東京の行政拠点へ転用されたのです。東京都公文書館には、旧藩邸を府庁へ改修した記録や、庁舎内部の構成を示す資料が残っています。

現在、藩邸の建物は残っていませんが、内幸町一丁目1番には千代田区の町名由来板があり、大和郡山藩柳沢家の上屋敷と東京府庁の歴史を現地で確認できます。東京府庁は1894年に移転するまで、この地に置かれました。

江戸から明治へ変わる都心の姿は、「明治五千分一東京図を徹底解説⑤|皇城・大手町・永田町・八重洲を読む」とあわせると、街区の変化を追いやすくなります。

法隆寺の宝物が上野へ――古代奈良文化が東京に根を下ろす

上野の東京国立博物館には、奈良県と東京を結ぶもう一つの大きな拠点があります。法隆寺献納宝物ほうりゅうじけんのうほうもつです。

東京国立博物館 法隆寺宝物館の展示室
東京国立博物館 法隆寺宝物館。撮影:Dick Thomas Johnson / Wikimedia Commons(CC BY 2.0)

1878年、法隆寺から皇室へ300件余りの宝物が献納されました。戦後に国へ移管され、現在は東京国立博物館の法隆寺宝物館で収蔵・展示されています。7世紀の金銅仏や伎楽面などを含み、古代奈良の文化を東京でまとまって見ることができる場所です。

江戸の藩邸が政治的な往来の痕跡なら、法隆寺献納宝物は文化財そのものが奈良から東京へ移った痕跡です。明治国家が文化財を収集・保存する仕組みを整えていく過程でも、奈良の寺院文化は大きな位置を占めました。

1893年の二つの奈良――東京大和会と津村順天堂

明治26年(1893)は、東京の奈良県人社会を考えるうえで象徴的な年です。高取出身の国際法学者・山田三良やまださぶろうの提唱で「東京大和会」が発足しました。現在の一般社団法人東京奈良県人会の前身です。

同じ1893年、奈良から上京した津村重舎つむらじゅうしゃは、日本橋で津村順天堂を創業しました。創業地は東京市日本橋区通4丁目7番地、現在の中央区日本橋3-4-10にあたります。家伝の婦人薬を改良した「中将湯」を販売し、のちのツムラへつながる事業を築きました。

一方は同郷者を結ぶ組織、もう一方は東京で事業を興した企業です。明治の東京で奈良出身者が増え、学問・官界・実業の場へ根を張っていった時代が、この一つの年に重なっています。

山田三良と養徳学舎――進学する若者を支えた東京の奈良

山田三良やまださぶろうは1869年に現在の高取町で生まれ、東京大学法学部長、日本学士院長、貴族院議員などを歴任しました。東京奈良県人会の初代会長として、上京した同郷者をつなぐ中心人物にもなりました。

奈良から東京へ進学する若者を支える仕組みとして、文京区小日向には養徳学舎ようとくがくしゃがあります。公益財団法人奈良県奨学会が運営する学生寮で、奈良県に居住する保護者の子弟を対象に、首都圏の大学へ進学する学生を受け入れています。

大名の参勤交代で結ばれた江戸と大和の往来は、近代になると進学や就職による上京へ形を変えました。養徳学舎は、その移動を生活の面から支えてきた施設です。

東京奈良県人会と奈良県東京事務所――130年を超えた県人ネットワーク

現在の一般社団法人東京奈良県人会とうきょうならけんじんかいは、1893年に発足した東京大和会を起源とします。1962年に現在の名称へ改称し、文化交流会や「ふるさと奈良の集い」などを続けています。

事務局は千代田区平河町の都道府県会館9階、奈良県東京事務所内にあります。奈良県東京事務所も同じ場所で、首都圏での情報収集・連絡調整、県情報の発信を担っています。江戸の藩邸が各藩の情報拠点だったことを思えば、東京に置かれた「奈良の窓口」という機能は、形を変えながら現在まで続いています。

奈良まほろば館――2026年の新橋で続く奈良との接点

新橋一丁目の奈良まほろば館ならまほろばかんは、奈良県の特産品、工芸、観光、移住情報などを首都圏へ発信する拠点です。現在の施設は新橋駅から徒歩圏にあり、東京で奈良の最新情報に触れられます。

2026年9月末で、2階イベントルームとレストランTOKiは運営を終了する予定です。1階のショップとカフェは次年度以降も運営が予定されています。施設を訪れる際は、最新の営業情報を公式サイトで確認すると確実です。

東京で奈良を歩くなら、この5地点から

場所奈良との関係現地で見られるもの
丸の内柳生宗矩の江戸屋敷現在の街並みと古地図を重ねて位置をたどれる
愛宕下・新橋周辺幕末の柳生藩・高取藩上屋敷大名屋敷街だった都市空間
内幸町一丁目大和郡山藩柳沢家上屋敷→東京府庁千代田区の町名由来板
東京国立博物館 法隆寺宝物館法隆寺献納宝物7世紀を中心とする法隆寺の宝物
新橋・奈良まほろば館現代の奈良県情報発信拠点1階ショップ・カフェ、奈良県関連情報

江戸城周辺を歩けば柳生家や大和諸藩の政治史、内幸町では東京府の成立、上野では法隆寺の古代美術、新橋では現代の奈良県に出会えます。東京の街を時代順にたどることで、奈良は「古都」という一つの像から離れ、徳川政権、明治国家、上京者社会へつながる別の輪郭を持ち始めます。

参考資料