大正期の小石川区は、現在の文京区西部を中心に、小石川・白山・大塚・目白台・関口・小日向・後楽園へ広がっていました。「番地界入東京市拾五区全図 小石川区図 10」は、国立国会図書館の書誌で大正11年(1922)1月10日第二版と確認できます。関東大震災の約1年8か月前で、東京砲兵工廠、東京陸軍兵器支廠、学校群、華族・実業家の大邸宅が同時に存在していた時期の地図です。
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大正11年の小石川区図を読む
この地図の特徴は、町名と道路だけでなく、番地、大規模施設、学校、寺社、病院、邸宅名まで細かく記されていることです。低地には神田川と水路、台地上には学校や邸宅、大きな旧武家地には軍・教育施設が広がります。江戸期の大名・武家地が明治以降に軍用地、学校、大学、庭園へ転用された過程も読み取れます。
邸宅名の「伯」「子」「男」は、それぞれ伯爵・子爵・男爵の略記です。明治期の華族には公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵があり、この地図では「亀井伯邸」「森子邸」「細川男邸」のように姓と爵位を組み合わせて大邸宅を示しています。また「西村邸」「星島邸」のように姓だけの表記でも、周囲の小さな宅地とは別に一つのまとまった区画として描かれており、地域の目印になる規模の私邸だったことが分かります。邸主を完全に特定できなくても、地図上の区画そのものから当時の土地利用を読み取れます。
後楽園・伝通院・白山
後楽園と東京砲兵工廠|現在の東京ドーム周辺

現在の小石川後楽園は、地図でも大きな緑地と池を持つ庭園として明瞭です。その東から南側には「砲兵工廠」と記された巨大な区画が広がります。東京砲兵工廠は陸軍の兵器製造拠点で、現在の東京ドーム・後楽園一帯の都市景観とは大きく異なります。
この一帯は江戸時代の水戸徳川家上屋敷を基盤とし、明治以降に軍事施設が拡大しました。1923年の関東大震災で工廠も大きな被害を受け、その後の軍施設再編と土地利用転換を経て、後楽園の遊園地・球場・東京ドームを含む現在の街へつながります。庭園部分が小石川後楽園として残ったため、江戸の大名庭園と近代軍需工場の痕跡を同じ場所で比較できます。
伝通院・竹早|女子教育施設と大給伯爵家

伝通院周辺には東京府女子師範学校、府立第二高等女学校などの大きな学校用地が見えます。東京府女子師範学校は1900年に竹早町へ設置され、東京府立第二高等女学校が併設されました。第二高等女学校は現在の東京都立竹早高等学校へつながり、女子師範学校の系譜は東京学芸大学の前身校の一つとなります。さらに伝通院境内には、1892年に淑徳女学校が創設され、1906年には私立淑徳高等女学校となりました。竹早から伝通院にかけて、教員養成、高等女学校、仏教系女子教育の学校が近接していたことが分かります。
この図には「大給伯邸」もあります。大給恒は、1877年の西南戦争を機に佐野常民らと博愛社を創設し、のちの日本赤十字社につながる救護事業に関わりました。ただし恒は1910年に死去しており、1922年の地図刊行時には伯爵家の当主が次世代へ移っています。したがって地図の「大給伯邸」は大給恒本人の居宅と断定せず、大給伯爵家の邸宅として読むのが適切です。
白山・原町|帝国大学植物園、東洋大学、阪谷芳郎邸

白山側では「帝国大学植物園」が圧倒的な広さを占めます。現在の東京大学大学院理学系研究科附属植物園、通称小石川植物園です。江戸幕府の小石川御薬園を前身とし、明治以降は東京大学の植物学研究施設となりました。江戸の薬草園が近代科学の研究施設へ継承された土地です。
周辺には東洋大学、京北中学校、白山神社、寺院群が並びます。東洋大学と京北中学校は井上円了の教育事業と深く関係し、白山・原町一帯が大正期にはすでに濃密な文教地域だったことが分かります。
高解像度の原図には「東京聾唖学校」も明瞭に記されています。前身の東京盲唖学校は1891年に小石川区指ヶ谷町の旧薬草試植園跡へ移転し、1909年に東京盲学校が分離した後、1910年に東京聾唖学校と改称しました。1903年には盲学校・聾学校の教員養成も始まり、1921年には全国盲唖教育大会が開かれています。現在の筑波大学附属聴覚特別支援学校につながる学校で、大正期の小石川が障害児教育とその教員養成の重要拠点でもあったことを示す区画です。
原町126番地の大区画には「阪谷邸」とあります。同時代資料の住所「小石川区原町126」と一致し、大蔵大臣・東京市長を務めた阪谷芳郎の邸宅と確認できます。華族邸だけでなく、明治・大正期の財政・市政を担った人物の邸宅も小石川の台地上に置かれていました。
同じ原町には「穂積邸」も記されています。原町の台地上には官僚・学者・華族の大規模邸宅が並び、周囲の学校・寺院とともに山の手住宅地を形成していました。
「穂積邸」は法学者・穂積八束の旧邸です。穂積八束は帝国大学法科大学教授・法科大学長を務め、貴族院議員や宮中顧問官にも就いた憲法学者で、1912年に死去しました。地図刊行時には死去から約9年が経っているため、1922年の「穂積邸」は穂積家の邸地・旧邸名が残ったものと考えられます。関東大震災後の1924年末、京華学園は小石川区原町の穂積八束邸跡地約11,500平方メートルを購入し、新校舎を建設しました。現在の京華学園がある白山の校地へつながる土地です。
この画像の東側に見える「細川男邸」の「男」は男爵の略で、細川男爵家の邸宅を示す表記です。1928年の資料には男爵細川一之助の住所として小石川区戸崎町が確認できるため、この家との関係が考えられます。人物との区画照合を確定できなくても、地図上では男爵家の大邸宅が植物園や学校に近接していたことが読み取れます。
小石川北部・護国寺・目白台
小石川区北西部|区境まで続く住宅地と大邸宅

北西部では、細かな宅地と大区画の邸宅が交互に現れます。地図の外側に別区の町名が広がるため、小石川区境がどの道路・水路に沿っていたかも読み取りやすい場所です。現在の文京区境と完全に同じではなく、旧東京市15区時代の行政境界を知る手掛かりになります。
この画像では、林町・駕籠町側に華族や大邸宅の表記が集中しています。「亀井伯邸」は旧津和野藩主家の伯爵・亀井茲常の邸宅です。土地所有研究では、亀井茲常が小石川区丸山町に約7,000坪の在住所有地を持っていたことが確認できます。茲常は東宮侍従を務め、1921年の皇太子裕仁親王の欧州巡遊にも随行しました。「酒井伯邸」は旧姫路藩主家の伯爵酒井忠正家で、同時代記録にも小石川区内の酒井忠正伯邸が確認できます。「徳川伯邸」は一橋徳川家の伯爵邸で、小石川区林町の住所資料と対応します。
地図上の邸宅名は、著名な前代当主の名で知られていても、1922年には次の世代へ家督が移っている場合があります。この画像では家名・爵位と地図刊行時の当主を分けて読む必要があります。
小石川区北部|華族邸と住宅地の境界

北部では、まとまった邸宅地の間に小さな番地区画が入り込みます。画像内の「戸澤子爵邸」は、旧新庄藩主・戸澤家の子爵邸を示す表記です。邸主個人を番地まで確定できなくても、旧大名家が華族として東京の山の手にまとまった宅地を構えていたことが、この大きな区画から分かります。
明治期の華族・官僚・実業家の邸宅地が分割され、住宅地へ転換していく途中の姿も読み取れます。大規模邸宅の名称は所有者の交代後もしばらく旧称が残ることがあり、地図刊行日と名義の時間差を考慮する必要があります。
護国寺・豊島岡|寺域、皇室墓地、陸軍埋葬地

護国寺周辺では、寺院の広い境内と皇室墓地、陸軍関係の埋葬地が大きな面積を占めます。高解像度の原図では、現在の豊島岡墓地にあたる区域に「豊島岡御陵」、その西側に「陸軍埋葬地」と読める表記があります。江戸以来の寺域に、近代の皇室墓地と軍人墓地が隣接していたことが分かります。
さらに護国寺境内には「豊山大学」や尋常学院に関係する教育施設の表記も確認できます。豊山大学は真言宗豊山派の僧侶教育を担った高等教育機関で、のちに天台宗大学・宗教大学とともに大正大学の母体の一つとなりました。旧制豊山中学校も護国寺に置かれ、現在の日本大学豊山中学校・高等学校へつながります。大正期の護国寺は寺院と墓域だけでなく、宗派の教育機関を抱える広い宗教・教育空間でもありました。
現在も護国寺と豊島岡墓地は大きな土地のまとまりを保っており、大正期の地図と現代地図を重ねると位置関係を追いやすい場所です。
目白台・関口|日本女子大学校、病院、藤田邸

目白台側には「日本女子大学校」の広い校地があり、その近くには高解像度の原図で「女子大学寮舎」と読める区画も確認できます。日本女子大学校は1901年に開校し、同年から寮舎を設けました。最初の寮舎は2階建て2棟に8寮が置かれ、単なる寄宿施設ではなく、寮監を中心に学生が役割を分担して共同生活を行う生活実習の場でもありました。大正11年の地図は、目白台が女子高等教育だけでなく、学生生活を含む教育共同体の拠点だったことを伝えています。
雑司ヶ谷寄りの大区画は、高解像度の原図では「帝國大學醫學部分院」と読めます。前身の永楽病院は1917年に東京帝国大学へ移管され、東京帝国大学医科大学附属医院小石川分院となり、1919年の学制変更後は医学部の分院となりました。1918年12月には、日本女子大学校に在学していた宮沢トシがこの小石川分院へ入院し、兄の宮沢賢治と母イチが看病のため上京しています。日本女子大学校と分院が近接する大正期の目白台は、宮沢賢治・トシ兄妹の東京での生活史を地図上でたどれる場所でもあります。
関口側の高解像度原図には「天主公教會 玫瑰塾」という表記もあります。これは当時のカトリック関係施設です。東京大司教区の沿革によると、1899年に聖母仏語学校「玫瑰塾」の付属聖堂が建てられ、1900年に関口小教区の聖堂、1920年には東京大司教座聖堂となりました。現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂につながる場所で、大正11年の地図には東京のカトリック教会の中心地となっていた時期の姿が記録されています。
「藤田邸」は藤田平太郎の邸宅で、現在のホテル椿山荘東京につながる土地です。山縣有朋の椿山荘は1918年に藤田平太郎へ譲られました。大正11年の地図は、山縣家の時代から藤田家の時代へ移った後の姿を記録しています。
「石本男爵邸」は、高田豊川町59番地の住所資料と合う男爵石本惠吉家である可能性が高いです。石本惠吉は三井鉱山に勤めた実業家で、1914年に加藤シヅエと結婚しました。加藤シヅエはのちに産児調節運動・家族計画の普及に取り組み、戦後は国会議員となった社会運動家です。1922年の地図が石本惠吉家を示すのであれば、後の加藤シヅエが「石本シヅエ」だった時期の生活圏と重なる可能性があります。陸軍大臣を務めた石本新六は1912年に死去しているため、1922年の当主として新六を置くのは時代が合いません。「星島邸」は邸主を特定できていませんが、周囲の宅地より大きい、姓を冠した独立区画として描かれた私邸です。
日本女子大学校周辺の「小布施邸」は小布施新三郎の邸宅と確認できます。日本女子大学の研究では旧小布施邸が取り上げられており、後に大学が土地を取得して教育施設へ転用しました。大邸宅が学校用地へ変化した実例です。
大塚・茗荷谷・小日向
大塚|東京陸軍兵器支廠と学校の集積

大塚には「陸軍東京兵器支廠」と記された巨大な区画があります。「支廠」は本廠を補助する支所にあたる軍施設で、この大塚の敷地は兵器・弾薬の保管拠点として使われました。現在のお茶の水女子大学大塚キャンパス周辺は、大学の公式資料でも同校移転以前に陸軍兵器庫・弾薬庫などがあった土地と確認できます。東京女子高等師範学校は1923年の関東大震災で湯島校舎を失い、その後この軍用地跡へ移転しました。
同じ高解像度原図には「東京高等師範学校附属中学校」や「日本高等女学校」も確認できます。東京高等師範学校附属中学校は1910年に小石川大塚窪町の新校舎へ移転した学校で、現在の筑波大学附属中学校・高等学校につながります。日本高等女学校は1909年、小石川区大塚町に開設された帝国女子専門学校に附設された学校で、現在の相模女子大学の系譜にあたります。
大正11年の大塚では、巨大な軍用地の周囲に教員養成、中等教育、女子教育の学校が集まっていました。その後、軍用地自体も学校用地へ転換され、現在の文教地区へつながります。小石川区では、軍用地から大学・学校へという土地利用転換が後楽園だけでなく大塚でも起きました。
大塚・茗荷谷|学校と華族邸宅が隣り合う

大塚から茗荷谷へかけては、東京高等師範学校などの教育施設と大邸宅が近接します。東京高等師範学校は現在の筑波大学へつながる学校で、大塚は近代日本の教員養成・中等教育の中心の一つでした。さらに高解像度の原図では、現在の拓殖大学につながる「東洋協会大学」の表記も確認できます。拓殖大学の沿革では、1901年に茗荷谷へ移転し、1918年に専門学校令による拓殖大学へ改称した後、1922年に大学令による「東洋協会大学」が設置されました。地図の刊行年と同じ1922年は、同校が旧制大学として新たな段階へ移った年にあたります。
この周辺で確認できる「各務邸」は、実業家・各務鎌吉の邸宅である可能性が高いです。各務鎌吉は東京海上保険に入り、ロンドンで保険業務を研究して同社の経営再建に関わり、のちに東京海上の会長、日本郵船社長、貴族院議員などを務めました。高等師範学校前付近の邸宅について回想資料との位置関係は合いますが、地図の番地と本人住所を直接結ぶ資料までは確認できないため、邸主の特定は可能性として扱います。
「菊池男邸」は菊池大麓男爵家の旧邸名である可能性が高いです。菊池大麓は1917年に死去し、爵位を継いだ菊池泰二も1921年に死去しました。第二版刊行の前年に当主が亡くなっているため、地図表記が少し前の邸宅名を引き継いだ可能性があります。地図上の番地と菊池家住所の直接一致は確認できません。
この画像の南側には「山田直矢邸」「山田邸」「田中邸」も記されています。東京都立図書館の木子文庫には山田直矢邸について、大正6年頃の表書院、座敷、書斎、夫人室、建具など多数の設計図が残っています。古地図に書かれた一つの邸宅名から、建物内部の構成や意匠まで追える珍しい例です。
隣接する「山田邸」「田中邸」は邸主を確定できていませんが、どちらも姓を付して独立した区画として描かれています。人物が分からなくても、一般住宅より大きな私邸が連続していたことを示す地図情報として読むことができます。
小日向・関口・水道町|神田川低地と台地上の邸宅

小日向・関口では、神田川沿いの低地と台地上の住宅地がはっきり分かれます。細い水路、坂道、寺院、大区画の邸宅が地形に沿って配置されています。現在も坂の多い文京区らしい骨格が残る地域です。
地図に見える「鳥尾子爵邸」は、鳥尾子爵家の大邸宅を示す表記です。初代子爵の鳥尾小弥太は1905年に死去しているため、1922年図の文字を小弥太本人の居宅と断定する必要はありません。地図が伝えているのは、この時期にも鳥尾子爵家の名で認識される大規模な邸宅区画が残っていたことです。
「川崎邸」「呉邸」は、周囲の一般住宅より大きなまとまりとして描かれた私邸です。「川崎邸」は川崎友之介家、「呉邸」は精神医学者・呉秀三家である可能性があります。呉秀三の旧蔵資料には「東京市小石川區駕籠町二四九 呉秀三」という住所印が残りますが、地図上の区画との直接一致までは確認できていません。邸主を断定できなくても、姓を付して描かれた大区画から、この一帯に有力者の私邸が点在していたことは読み取れます。
さらに高解像度の原図には「音羽養生所」の文字が明瞭にあります。東京医科大学の史料には、1920年に同校を卒業した医師が「小石川音羽養生所」で呉秀三から精神病学を学んだ記録があり、当時の回想でも呉が経営に関わった施設として語られています。つまりこの文字は単なる邸宅名ではなく、大正期の小石川に置かれた精神医療施設を示します。呉秀三は東京府巣鴨病院の改革や精神病者の処遇改善に取り組んだ人物で、この周辺は日本の近代精神医学史とも結び付く地域でした。
小日向の華族邸宅|津軽伯爵家、松平子爵家など

小日向から茗荷谷周辺には華族邸宅の表記が多く残ります。「津軽伯邸」は旧弘前藩主家の津軽伯爵家で、1919年に津軽英麿が死去した後、1922年の当主は津軽義孝です。大正11年の地図では、旧大名家が華族として東京の山の手に大邸宅を構えていた姿を確認できます。
第六天町8番地の「松平子爵邸」は、旧会津藩主家の松平保男邸と確認できます。保男は松平容保の五男で、会津松平家第12代当主となった人物です。会津会の沿革によると、この小石川小日向第六天町の保男邸には会津出身者が春秋に集まり、1912年4月20日の懇親会で「会津会」の創立が決まりました。邸宅は旧会津藩関係者の東京での交流拠点でもあったことになります。のちに松平節子が保男の養女となり、1928年に秩父宮雍仁親王と結婚して勢津子妃となったため、この土地は会津松平家と近代皇室史にもつながります。
「森子邸」は「森子爵邸」の略記とみられ、当時の子爵森家当主・森清の邸宅である可能性がありますが、地図上の番地と森清の住所を直接一致させる資料は確認できません。「塚原邸」も地図上の表記は確認できますが、公開資料では邸主を特定できていません。
軍用地・学校・寺院の大規模敷地が残る小石川区
1922年の小石川区には、東京砲兵工廠と東京陸軍兵器支廠という大規模軍施設、東京高等師範学校や女子教育機関、帝国大学植物園、日本女子大学校、寺社、病院、華族・実業家邸が近接していました。区内には、用途の異なる大規模敷地が台地上にまとまって配置されていたことが特徴です。
関東大震災やその後の都市整備を経て、後楽園では軍需工場跡がスポーツ・娯楽施設へ、大塚では軍用地が大学キャンパスへ転換しました。一方、小石川植物園、護国寺、豊島岡墓地のように大きな土地のまとまりを現在まで保った場所もあります。現在の文京区に多い学校・公園・寺院・大規模施設の配置は、江戸の大名・武家地と明治・大正の軍事・教育施設の敷地を引き継いだものとして読み取れます。
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参考資料
- 公益財団法人特別区協議会 デジタルアーカイブ「番地界入東京市拾五区区分図」
- 国立国会図書館サーチ「番地界入東京市拾五区全図 小石川区図 10」
- 文京区「近代の文京(明治から昭和)」
- お茶の水女子大学「正門の沿革」
- 東京都立図書館 木子文庫「山田直矢邸」関連資料
- 日本女子大学学術情報リポジトリ 旧小布施邸に関する研究
- 藤田観光 椿山荘の歴史資料
- 筑波大学附属聴覚特別支援学校「沿革」
- カトリック東京大司教区「東京カテドラル聖マリア大聖堂」
- 相模女子大学「学園のあゆみ」
- アジア歴史資料センター「陸軍兵器廠」
- 会津会「会津会について」
- 文京区「文の京ゆかりの文化人顕彰事業」宮沢賢治関連資料
- 日本大学豊山高等学校・中学校「日大豊山のルーツ・前身から現在へ」

