青戸御殿の歴史|葛西城跡に造られた徳川将軍の鷹狩り御殿

東京都葛飾区青戸の御殿山公園。葛西城跡と将軍御殿の跡地にある公園の風景

東京都葛飾区青戸七丁目には、江戸時代の初めに将軍の休憩や宿泊に使われた御殿がありました。一般に「青戸御殿」と呼ばれる施設です。もとは室町・戦国時代の葛西城が置かれた場所で、徳川家康・秀忠・家光の三代が鷹狩りの際に利用しました。現在は環状七号線を挟んで葛西城址公園と御殿山公園があり、地下には城郭と御殿の遺構が残っています。

戦国の葛西城から江戸時代の御殿へ

葛西城跡と青戸御殿跡の一部にあたる葛西城址公園の現在の景観
葛西城址公園(2015年撮影)。青戸御殿の建物は現存しません。撮影:Shokupan。Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

葛西城は15世紀半ばに上杉方の拠点となり、のちに小田原北条氏の支城として使われました。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏が滅亡すると、軍事拠点としての役割を終えます。江戸に入った徳川家康は、この城跡に鷹狩りの休泊施設を設けました。旧城郭の土地が、戦いのための施設から将軍の移動と滞在を支える場所へ変わったのです。

葛西領で将軍が鷹狩りをした理由

江戸東郊の葛西領には河川、池沼、湿地が広がり、鴨や鶴などが飛来しました。鷹狩りは獲物を捕らえる遊猟であると同時に、武芸の訓練や村々の状況を確かめる機会でもありました。将軍が江戸城から郊外へ出る際には、道中の休息や食事、宿泊の場所が必要でした。青戸の御殿は、そのための拠点の一つでした。

葛飾区史には、将軍の鷹狩りのために青戸村の葛西城跡に御殿が設けられ、家康・秀忠・家光が利用したことが記されています。周辺にはほかにも休憩に使う御茶屋などが設けられていました。

当時の呼び名は「葛西御殿」

現在は「青戸御殿」という名前が一般的ですが、葛飾区郷土と天文の博物館は、江戸時代には「葛西御殿」と呼ばれていたことを紹介しています。近代以降の地域名による呼称と、当時の呼称を区別すると、史料を読む際にも場所をたどりやすくなります。

青戸御殿はなぜ姿を消したのか

東京都葛飾区青戸の御殿山公園。葛西城跡と将軍御殿の跡地にある公園の風景
青戸御殿の跡地にある御殿山公園(2021年撮影)。撮影:Higa4。Wikimedia Commons/CC0 1.0。江戸時代の御殿建物は現存しません。

青戸の御殿は三代将軍家光の時代以降、利用が減りました。葛飾区史では明暦3年(1657)の大火後、江戸の復興に必要な木材を得るために廃止されたと説明しています。一方、都市再生機構の地域資料には延宝6年(1678)に取り壊されたとする記述があります。資料によって廃止・解体の年代に違いがあるため、17世紀後半までに御殿としての役割を終えたことを押さえておくとよいでしょう。

御殿がなくなった跡地は「御殿山」と呼ばれました。19世紀初めの記録には、かつて御殿のあった土地が森や畑となり、その土が堤防工事に利用された様子も記されています。江戸時代を通じ、同じ土地の利用が変化していきました。

発掘調査で確認された御殿の痕跡

環状七号線の建設に伴う1970~1980年代の発掘調査では、戦国時代の葛西城の堀に加え、江戸時代の御殿に関わる建物跡や陶器、漆器、瓦などが発見されました。地表に御殿の建物は残っていませんが、発掘成果によって、城跡が御殿として再利用されたことを確かめられます。

葛西城の軍事的な歴史は葛西城の歴史で、堀・井戸・出土品は葛西城跡の発掘調査で、城跡と周辺の遺跡は青戸・立石周辺の歴史と文化財で扱っています。

参考資料