1921年4月、神戸市八幡通に、米やしょうゆを扱う小さな店が開きました。店を動かしたのは、賀川豊彦の呼びかけに応じた労働者、実業家、地域の協力者たちです。翌月には別の地域で灘購買組合も発足しました。二つの組合は、生活必需品を売る店であると同時に、利用者が出資し、運営に関わり、暮らしを自分たちで支える仕組みでした。
賀川がこの道を選んだ背景には、1909年から暮らした神戸の貧困地域での経験があります。病気、失業、低賃金、劣悪な住宅、衛生環境、教育機会の不足が一つにつながり、食料や衣服を渡す救済だけでは同じ困窮が繰り返されました。そこで賀川は、助ける側と助けられる側を固定する慈善から、当事者が組織の持ち主となる協同組合へ進みました。
賀川豊彦と協同組合を30秒で整理
賀川豊彦は、神戸の貧困地域で生活をともにした経験から、貧困を生む仕組みそのものへ目を向けました。労働者には労働組合、農村には農民運動、消費生活には協同組合を組織し、生活の複数の問題を結びました。
- 1909年、神戸の新川周辺で救済・診療・教育・生活相談を始めました。
- 1910年代後半、賃金や労働条件を変える労働運動へ進みました。
- 1921年、神戸購買組合と灘購買組合の創設を指導しました。
- 購買に加え、信用、共済、医療、農村組織をつなぐ構想を示しました。
- 1945年の日本協同組合同盟、1951年の日本生活協同組合連合会で初代会長を務めました。
流れを一言で表すと、「困窮者への救済」から「困窮を防ぐ組織づくり」への転換です。
そもそも協同組合とは何か
協同組合は、利用する人や働く人、生産する人が出資し、共同で所有・運営する組織です。株式会社では出資額が議決権へ反映されますが、協同組合は原則として一人一票で意思を決めます。利益と組合員の生活・仕事の安定を両立させる点に特徴があります。
ロッチデール原則が作った運営の型
1844年、イギリスのロッチデールで織物工ら28人が公正開拓者組合を設立しました。良質な商品、現金取引、一人一票、購買高に応じた剰余金の分配、組合員教育などの原則を掲げ、近代的な消費組合の運営モデルとなりました。賀川は、店の経営技術に加え、組合員が学び、民主的に意思決定する点を重視しました。
日本にも賀川以前の前史があった
日本では明治初期にロッチデールの事例が紹介され、1879年に東京の共立商社・同益社、大阪の共立商店などが生まれました。出資金が高く、実業家や知識人中心の社会実験にとどまり、長続きした組織は限られました。大正期の新しい購買組合は、労働者や地域住民が日常的に使える組織を目指した点で前史と異なります。
神戸の貧困地域で賀川が見たもの

1909年12月、21歳の賀川豊彦は、港湾労働者や日雇い労働者が多く暮らす神戸の新川周辺へ移りました。近代港湾都市の成長は仕事を生む一方、失業や病気で収入を失った人を狭い住宅地へ集めました。
住宅・衛生・労働・教育が連動していた
狭い住居と過密な生活は感染症を広げ、病気は欠勤と失業につながりました。日雇い仕事の収入は不安定で、食費や家賃を払うと医療や教育へ回す余裕が減りました。読み書きや職業技能を得る機会が乏しいまま成長した子どもは、同じ不安定労働へ入りやすくなります。粗悪品や割高な生活必需品も家計を圧迫しました。
一つの施設では解けない問題だった
賀川と仲間たちは、診療、食事、保育、教育、職業紹介、生活相談などを重ねました。活動が広がるほど、困窮には雇用、住宅、衛生、物価、教育の制度が絡むと分かりました。救済は目の前の命を支え、次の段階として予防と組織化が必要になりました。
なぜ慈善や救済だけでは生活を変えられなかったのか
賀川豊彦が直面したのは、支援を続けても新たな困窮者が生まれる循環でした。病気の人へ薬を渡しても、過密住宅と低賃金が残れば病気を繰り返します。失業者へ食料を渡しても、雇用条件や物価が変われば生活の不安定が続きます。賀川はこの転換を「救貧から防貧へ」と表しました。
| 仕組み | 担う役割 |
|---|---|
| 慈善 | 寄付や物資で差し迫った困窮を和らげます。意思決定は支援者側に集まりやすい形です。 |
| 社会事業 | 診療、保育、教育、宿泊、職業紹介などを継続的な施設と専門職で担います。 |
| 労働組合 | 労働者が団結し、賃金、労働時間、安全、雇用条件を交渉します。 |
| 農民組合 | 小作料、土地、農産物価格、農村の教育や医療を共同の課題として扱います。 |
| 協同組合 | 利用者や生産者が出資者・所有者となり、購買、金融、医療、共済などを共同で運営します。 |
協同組合では、支援を受ける人が組合員となり、出資、利用、意思決定を担います。賀川は慈善を残しつつ、救済、社会事業、労働運動、協同組合を役割ごとにつなぎました。
労働運動・農民運動へ進んだ理由

賀川豊彦は1914年からアメリカで学び、ニューヨークの労働運動や大規模なデモを見ました。帰国後、生活困窮を個別支援だけで扱う方法から、当事者が団結して条件を変える方法へ比重を移しました。
労働運動は収入の入口を変える
労働者の家計は、賃金、労働時間、失業、労災に左右されます。賀川は友愛会の活動に関わり、1918年以降、関西の労働運動を指導しました。1921年の川崎・三菱造船所争議では大規模な労働者の団結が生まれましたが、争議は多数の逮捕者を出して敗北しました。この経験は、職場での交渉力に加え、消費生活を支える恒常的な組織の必要性を強めました。
農民運動は土地と農村生活を扱う
農村では小作料や農産物価格に加え、医療、教育、金融、資材購入が生活を左右しました。賀川は杉山元治郎らと日本農民組合の結成に関わり、農民運動を進めました。都市の労働者と農村の生産者は、安い商品を求める側と適正な価格を求める側で緊張します。賀川は購買組合と生産・販売組合を結び、対立を調整する構想を描きました。
1921年の神戸購買組合と灘購買組合
1921年、賀川豊彦の指導を受けた二つの購買組合が相次いで発足しました。4月の神戸購買組合と、5月の灘購買組合です。規約や協同組合原則を共有しながら、出発点となった人びとと経営の進め方に違いがありました。
神戸購買組合は労働者の生活防衛から始まった
川崎造船所の労働者だった青柿善一郎らは、物価高に対抗する購買組合を構想し、賀川へ相談しました。賀川は一企業の従業員組織に限定せず、神戸市内の勤労者へ開く方針を示しました。実業家で市政・県政にも関わった福井捨一らが支え、八幡通の店舗で米やしょうゆなどを扱いました。職員が注文を聞き、商品を届ける御用聞き制度も定着しました。
灘購買組合は実業家の経営力と地域住民を結んだ
社会事業への投資を考えていた那須善治は、賀川から協同組合事業を勧められ、平生釟三郎の後押しを受けて初代組合長となりました。灘、芦屋、西宮方面の住民を基盤とし、安定した経営、産地との直接取引、しょうゆの自家製造、店舗運営を進めました。生活用品を共同購入するだけでなく、組合員が望む品質を自ら作る方向へ広がりました。
| 組合 | 出発点と特徴 |
|---|---|
| 神戸購買組合 | 労働者の物価対策を起点に、神戸市内の勤労者へ対象を広げました。1924年に神戸消費組合へ改称しました。 |
| 灘購買組合 | 那須善治ら実業家の経営力と地域住民を結び、生産・店舗・直接取引を発展させました。1935年に灘購買利用組合へ改称しました。 |
両組合は戦後に神戸生活協同組合、灘生活協同組合となり、1991年に合併して現在のコープこうべへ続きました。二つの系譜は、労働者の生活防衛と、地域住民・実業家の経営基盤という異なる条件から協同組合が成長した歴史を伝えます。
購買・信用・共済・医療を結ぶ構想
賀川豊彦にとって、商品を安く買う購買組合は入口でした。病気、失業、借金、農産物販売、住宅、交通などが家計を揺らすため、一つの事業だけで生活全体を安定させることは困難でした。賀川は信用、共済、医療、生産、販売、公共サービスを相互補完させる構想を示しました。
| 仕組み | 生活上の課題と役割 |
|---|---|
| 購買 | 生活必需品の品質、価格、量目を組合員が管理し、家計を安定させます。 |
| 信用 | 高利の借金へ依存しやすい人が、小口資金を共同の仕組みで利用できるようにします。 |
| 共済 | 病気、死亡、失業、教育費など、一人で負いにくい危険を組合員で分担します。 |
| 医療 | 費用のため受診が遅れる問題を減らし、予防、診療、地域保健をつなぎます。 |
| 生産・販売 | 農民や小生産者が資材を共同購入し、農産物を共同販売して取引力を高めます。 |
1928年には東京で中ノ郷質庫信用組合、1930年代初めには東京医療利用購買組合の運動が進みました。個別の事業は地域や法制度によって成否が分かれましたが、生活を「買う・借りる・備える・治す・働く」の連続として扱う発想は、後の生協、信用組合、共済、医療生協へ受け継がれました。
キリスト教信仰と「愛と協同」の思想
賀川豊彦は牧師であり、隣人愛を礼拝や個人道徳の範囲に置かず、経済生活の制度へ移そうとしました。協同組合は、互いの必要を知り、出資と責任を分かち、利益を共同体へ戻す実践の場でした。
賀川の「愛」は、善意を制度と日常の経済行動へ移す考えでした。粗悪品を避ける仕入れ、帳簿を公開する経営、一人一票の意思決定、組合員教育、地域の弱い立場にある人を含める運営へ具体化されました。「協同」は対立を隠す言葉でもなく、労働者、消費者、生産者の利害を組織的に調整する方法でした。
この考えは、キリスト教が近代日本の教育・医療・福祉・社会運動へ広がった流れの一部です。賀川の位置づけは、親記事の賀川豊彦を含む日本のキリスト教社会運動で、他の人物や教派との関係から確認できます。
関東大震災救援と地域組織
1923年9月の関東大震災後、賀川豊彦は神戸から東京へ入り、被害が大きかった本所地域で救援を組織しました。食料、衣類、診療、住居の応急支援に加え、東京YMCA、教会、学生、女性団体、各地から集まった青年を結びました。

応急救援から継続的な地域活動へ
被災直後の炊き出しや物資配布が一段落すると、失業、住宅不足、医療費、孤児や青年の教育が残りました。本所基督教産業青年会などの拠点は、相談、職業、教育、保健を継続する地域組織へ変わりました。1927年の江東消費組合、1928年の中ノ郷質庫信用組合、医療組合の構想も、震災復興で浮かんだ生活課題とつながります。
震災救援では、既存の教会・YMCA・女性団体・青年団体と被災住民が役割を分担しました。賀川の活動は、この協同の実践を結ぶ位置にありました。同じ東京の貧困地域でも、後の山谷では行政、教会、市民団体、医療者が異なる形で支援を重ねました。比較は教会・慈善団体・行政が支えた山谷の福祉史で整理しています。
戦時下で協同組合運動はどう変わったのか
1930年代後半から戦時統制が強まると、協同組合の自主的な仕入れと販売は物資統制や配給制度の影響を受けました。職員の召集、商品不足、空襲による施設被害も重なり、神戸と灘の組合は、公正な配給と地域救援を担う一方、組合員が選ぶ商品や価格の幅を失いました。
賀川豊彦は平和運動を続け、1943年には反戦思想や社会主義思想を理由に拘束・取調べを受けました。国際的な反戦団体からの脱退も強いられました。賀川個人の非戦姿勢と並行して、協同組合、教会、社会事業は国家総動員の制度に組み込まれ、組織の自律性が狭まりました。
戦時期の経験は、協同組合が民主的な運営原則を持つだけで自律性を保てるとは限らず、言論、法制度、物資流通、自治の条件が必要だという課題を残しました。
戦後の日本協同組合同盟と日本生協連
敗戦後の物不足とインフレの中で、各地に多数の協同組合が生まれました。1945年11月、全国の運動を結ぶ日本協同組合同盟が発足し、賀川豊彦が初代会長となりました。戦前の組織を復興し、新設組合を支え、協同組合の法制化を求める役割を担いました。
1948年に消費生活協同組合法が制定されました。同法は、自発的な生活協同組織の発達を通じて国民生活の安定と生活文化の向上を図る目的を掲げました。1951年、日本生活協同組合連合会が同法に基づいて創立され、賀川が初代会長に就きました。
戦後の継承では、賀川の構想に、法制度、女性組合員の活動、地域生協の経営、全国連合会の調整が重なりました。賀川は象徴的な指導者であり、実際の発展は各地の組合員、職員、経営者、研究者、行政との交渉によって支えられました。
賀川豊彦の功績・批判・限界
賀川豊彦の大きな功績は、貧困を個人への救済で終わらせず、労働、農業、消費、金融、医療、教育を組織の問題として結んだ点です。協同組合を小売店の形に限定せず、生活全体を支える社会制度として構想しました。
労働運動内では非暴力漸進主義が批判された
賀川は階級対立を暴力で決着させる方法を避け、労働者、消費者、生産者が協同組織を育てる漸進的な改革を選びました。1921年の川崎・三菱造船所争議の敗北後、非暴力方針は運動を弱めたという批判を受けました。階級闘争を重視する社会主義・共産主義系の運動からは、友愛や人格の成長へ期待を置きすぎる思想と見られました。
理念と経営条件の間に距離があった
協同組合の設立には、出資できる組合員、信用、仕入れ網、帳簿、店舗、専門的な経営者が必要です。困窮が深い人ほど出資や継続利用が難しく、参加の効果は出資と継続利用が可能な層から現れやすい構造でした。困窮の深い層には、住宅、医療、雇用など別の支援も要りました。灘購買組合の安定には那須善治らの資金と経営力が寄与し、地域ごとの条件差も大きく働きました。
経済哲学は広大で、制度設計は粗い部分を残した
賀川は経済を倫理や人格の成長と結び、複数の協同組合が社会全体を覆う構想を語りました。思想の射程が広い一方、価格形成、資本調達、経営破綻、組織内の権力集中を防ぐ具体策は、各組合の実務へ委ねられました。後世の評価は、先駆的な制度構想と、道徳的な人間観への依存の両面に分かれます。
功績と限界を合わせて見ると、賀川の役割は完成した制度を一人で作ったことより、別々に扱われていた生活課題を「当事者が所有する組織」という共通の方法で結んだ点にあります。
現在残る施設と資料
賀川豊彦の活動は、著作、手稿、写真、協同組合史、社会事業の現場に残っています。施設ごとに展示と資料利用の重点が異なり、各公式サイトが開館日と利用条件を案内しています。
神戸の賀川記念館
神戸市中央区の賀川記念館は、社会福祉施設、教会、ミュージアム、研究機能を備えています。新川周辺で始まった活動と、福祉、教育、医療、労働、協同組合のつながりを地域史としてたどれます。
東京の賀川豊彦記念・松沢資料館
東京都世田谷区の松沢資料館は、手稿、書籍、写真、映像、遺品を収蔵し、常設展示を行っています。アーカイブズとライブラリーの研究利用には事前予約が必要です。
徳島の鳴門市賀川豊彦記念館
徳島県鳴門市の記念館は、賀川の出自、農民福音学校、友愛・互助・平和の活動を展示しています。農村運動と協同組合思想の関係を知る手がかりになります。
FAQ
賀川豊彦は日本で最初の協同組合を作った人ですか?
賀川豊彦以前にも、1879年の共立商社・同益社・共立商店などがありました。賀川の役割は、労働者や地域住民が継続利用する近代的な協同組合を広げ、購買、信用、医療、共済を一つの構想へ結んだ点にあります。
神戸購買組合と灘購買組合は同じ組織ですか?
1921年に別々の組織として発足しました。神戸購買組合は労働者の生活防衛を出発点とし、灘購買組合は実業家の経営力と地域住民を結びました。戦後にそれぞれ生活協同組合となり、1991年の合併でコープこうべとなりました。
なぜ慈善活動から労働運動へ進んだのですか?
失業、低賃金、長時間労働が続くと、食料や医療を支援しても困窮が繰り返されます。賃金や労働条件を当事者が交渉する組織が必要となり、労働組合運動へ進みました。
購買組合と現在の生協は何が違いますか?
購買組合は共同購入を中心とする歴史的な名称です。戦後の消費生活協同組合法に基づく生活協同組合は、店舗、宅配、共済、福祉、医療などへ事業を広げました。組合員の出資と民主的運営という基本は共通します。
賀川豊彦の協同組合思想には批判もありますか?
非暴力と漸進的改革を重視したため、労働運動内から穏健すぎるという批判を受けました。人格や友愛への期待が、資本と労働の権力差を弱く捉えるという指摘もあります。一方、対立する運動を購買・金融・医療の制度へつないだ実践は大きな影響を残しました。
日本キリスト教近代史シリーズ
全体像から個別テーマへ進める8記事のシリーズです。
- 日本のキリスト教近代史|禁教解除から教育・福祉・社会運動まで
- 潜伏キリシタンとかくれキリシタンの違い
- 日本キリスト教史の三大バンドとは
- 日本のミッションスクールの歴史
- ニコライと日本正教会の歴史
- 内村鑑三不敬事件とは
- 賀川豊彦と協同組合 👈今はこの記事
- 日本基督教団はなぜ成立したのか
あわせて読みたい
参考文献・参考サイト
- 日本生活協同組合連合会「協同組合の歴史」
- 日本生活協同組合連合会「日本生協連の歴史」
- 日本生活協同組合連合会「日本生協連初代会長 賀川豊彦」
- 生活協同組合コープこうべ「歴史」
- 生活協同組合コープこうべ「生活協同組合の創設」
- 生活協同組合コープこうべ「社会運動の先頭で」
- 生活協同組合コープこうべ「生協活動でめざした平和」
- 賀川豊彦記念・松沢資料館「賀川豊彦の略年譜」
- 賀川記念館「開拓的役割」
- 伊丹謙太郎「対立を超える“共助”の理想を追い求めた労働運動家」『DIO』2019年4月号
- 並松信久「賀川豊彦と組合運動の展開」京都産業大学論集
- 松野尾裕「賀川豊彦の経済観と協同組合構想」
- 山﨑ハコネ「関東大震災救護運動における賀川豊彦と本所基督教産業青年会の成立過程に関する一考察」
- e-Gov法令検索「消費生活協同組合法」
- 賀川記念館
- 賀川豊彦記念・松沢資料館
- 鳴門市「鳴門市賀川豊彦記念館」

