東京都葛飾区青戸七丁目の葛西城跡では、昭和47年(1972)に始まった発掘調査によって、中世の城郭が地下に残っていることが確認されました。現在は環状七号線を挟んで葛西城址公園と御殿山公園がありますが、地表には城の建物や堀の姿は残っていません。城の構造と内部の生活は、発掘された堀、井戸、建物の跡や遺物から明らかになってきました。
1972年からの発掘で確認された城跡

葛西城は15世紀半ばに上杉氏の軍事拠点として築かれ、16世紀には小田原北条氏の支城となりました。東京東部の低地に造られた城郭で、昭和47年以降、環状七号線の整備に伴う調査などで地下の構造が確認されました。城は中川右岸の自然堤防上に位置し、河川と周辺の交通を押さえる場所にありました。
主郭を囲んだ幅約20メートルの堀
発掘では城の中心である主郭を囲む幅約20メートルの堀が確認されました。堀は敵の侵入を防ぎ、城の内部を区画する施設です。水辺の多い低地で大規模な堀を設けたことから、葛西城が軍事拠点として整備されていた様子が分かります。堀の形状や配置は、現在の公園の地表だけでは確かめられないため、発掘図や出土品が重要な手がかりになります。
堀から出土した武具と井戸の構造
主郭の堀などからは鏃、刀装具、鉛製の鉄砲玉といった武具類が見つかっています。城の防備や武士の活動に関わる品々です。また、井戸跡からは石組みや、細長い板を結んで円筒形にした「結桶」を井戸枠とする構造が確認されました。井戸は城内で生活用水を得るための設備で、籠城や日常生活を支えました。
青花器台・茶道具・将棋が伝える城内生活
葛西城跡の出土品には、中国元代(14世紀)に作られた青花器台があります。花瓶などを置くための器台で、日本での出土例が少ない品です。城に伝えられた中国産の器物は、城主層の交際や威信を示す道具でもありました。瀬戸・美濃焼などの茶碗や茶入れ、茶臼も出土しており、城内で茶の湯が楽しまれていたことがうかがえます。
さらに漆器、下駄などの木製品や将棋の駒、サイコロも出土しています。武器だけでなく食事、身支度、遊びに使われた品々が残り、城が武士の生活の場でもあったことが分かります。こうした遺物の種類は葛飾区史と葛飾区郷土と天文の博物館の発掘資料で確認できます。
葛飾の低地は地下水位が高く、水分を多く含む土が木製品を覆ったため、腐朽が進みにくい環境でした。
葛西城から青戸御殿への転用も発掘で確認
天正18年(1590)に北条氏が滅亡して葛西城が役割を終えると、江戸時代の初めには同じ場所に将軍の休泊施設が置かれました。発掘では青戸御殿の時代の建物跡や陶器、漆器、瓦なども確認されています。一つの土地の地下に戦国時代の城郭と江戸時代の御殿の痕跡が重なっています。
葛西城が上杉氏・北条氏の拠点となった経緯は葛西城の歴史で、江戸時代の利用は青戸御殿の歴史で詳しく扱っています。周辺の遺跡を一緒に調べる場合は青戸・立石周辺の歴史と文化財も参照できます。

