葛西城の歴史|享徳の乱で築かれた青戸の城と江戸時代の青戸御殿

東京都葛飾区青戸には、室町時代に築かれた葛西城の跡が残ります。現在は環状七号線を挟んで葛西城址公園と御殿山公園があり、かつての城の範囲に現代の道路と住宅地が広がっています。葛西城跡は東京都指定史跡です。

葛西城はいつ、誰が築いたのか

葛西城は、関東の武士が上杉方と足利成氏方に分かれて戦った享徳の乱の時期に、上杉方の軍事拠点として築かれました。築城の正確な年や個人名は伝わっていません。寛正2年(1461)に足利成氏が葛西城を攻撃したことを伝える記録があり、その頃までには城が存在していたと考えられています。

享徳3年(1454)、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を殺害したことをきっかけに、関東各地へ戦乱が広がりました。成氏は古河に移り、古河公方と呼ばれます。葛西地域では太日川(現在の江戸川)を隔てて勢力が対峙し、葛西城はその前線に置かれました。

なぜ青戸に城が必要だったのか

当時の葛西地域は、河川や低地を通る交通路を押さえるうえで重要でした。上杉方は江戸城とともに葛西城を拠点とし、川の向こう側に勢力を持つ古河公方側の動きを警戒しました。葛飾区史には、山内上杉氏の家臣・大石石見守が葛西城を守備したと記されています。

城の周囲には堀が設けられ、湿地帯の地形も防御に関わっていました。現在の公園の姿から当時の城郭全体をたどることは難しいものの、発掘調査によって堀の位置や建物跡などが検討されています。

上杉氏と北条氏の争い、そして廃城へ

16世紀に入ると、小田原を拠点とする北条氏が関東へ勢力を広げました。葛西城も上杉方と北条方の争奪の対象となります。天文7年(1538)には北条氏綱が葛西城を攻略し、その後も関東の戦況によって城の支配関係が変化しました。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅びると、軍事拠点としての葛西城の役割は終わりました。城が置かれた土地は、江戸時代には別の用途で使われます。

城跡から青戸御殿へ

江戸時代の初め、葛西城跡には徳川将軍が鷹狩りの際に利用する青戸御殿が建てられました。徳川家康・秀忠・家光の三代が使用し、食事や休憩、宿泊のための施設として機能しました。御殿は17世紀後半に取り壊されました。

中世には戦乱の前線だった場所が、江戸幕府の成立後には将軍の鷹狩りの拠点となりました。同じ青戸の土地に、時代ごとに異なる役割が与えられたことが分かります。

発掘調査で分かった葛西城と現在の見学

葛西城跡では発掘調査が重ねられ、主郭の堀、井戸跡、陶磁器などが確認されています。16世紀半ばの天目茶碗も出土しており、城内での生活を考える資料となっています。出土品の一部は葛飾区郷土と天文の博物館で紹介されています。

現在の葛西城址公園と御殿山公園には史跡の説明があります。城の建物や堀を原寸で復元した施設は設けられていません。道路を挟んで広がる城跡を見ながら、発掘成果の図面と現在の地形を照らし合わせると、青戸に城があった時代を具体的に考えられます。

参考資料