板橋区赤塚の松月院には、武蔵千葉氏にゆかりのある「伝・千葉一族の墓地」が残っています。室町時代に下総から武蔵へ移った千葉氏の歴史を伝える場所で、永正3年(1506)の年号がある墓碑や、元徳元年(1329)銘の宝篋印塔が保存されています。昭和61年(1986)2月14日に板橋区登録記念物(史跡)となりました。
1456年、千葉氏が武蔵の赤塚へ
康正2年(1456)、下総の市川城をめぐる戦いに敗れた千葉氏の一族が、武蔵国へ移りました。その一部は赤塚城や石浜城を拠点とし、武蔵千葉氏として活動しました。赤塚城のあった台地と松月院の所在地は近く、中世の地域を支配した武士と寺院の関係を伝えています。
松月院は曹洞宗の寺院で、延徳4年(1492)に千葉自胤が寺領を寄進して中興したと伝わります。千葉氏は松月院を一族の菩提寺とし、死者の供養を行いました。
1506年銘の墓碑と千葉自胤の伝承
墓所にある一基には、「松月院殿南州玄参大禅定門」という戒名と、永正3年(1506)の年号が記されています。板橋区の文化財解説では、向かって右側の碑を千葉介自秀の墓として紹介しています。一方、松月院では開基に関わる千葉自胤の墓と伝え、自秀という名は誤記としています。
江戸時代の地誌には、これらの墓碑が後世に造られたものとする記述もあります。石に刻まれた年号は墓所の伝承を調べる手がかりですが、墓碑の建立時期と埋葬された人物の没年は分けて考える必要があります。
1329年の了雲の宝篋印塔
墓所には比丘尼了雲(びくにりょううん)の宝篋印塔もあります。元徳元年(1329)の年号を持ち、板橋区の文化財解説では区内最古の墓碑とされています。宝篋印塔は仏教の供養のために建てられる石塔で、塔身や笠などを組み合わせた形をしています。
1329年は千葉氏が赤塚へ移った1456年よりも一世紀以上前です。江戸時代の記録では了雲を千葉自秀の妻とする説明もありますが、年号の差が大きく、墓碑の年代や伝承を照らして調べる必要があります。千葉氏の入部以前から、この土地に仏教の供養に関わる施設が存在した可能性を考える資料です。
1812年の『赤塚紀行』に描かれた墓地
文化9年(1812)、斎藤幸孝は『赤塚紀行』で松月院の千葉氏の墓について記し、墓石の配置を挿絵に残しました。板橋区の解説では、その絵の墓石の配置や形が現在の墓所に近いとしています。江戸時代後期の人々も、墓所を中世の千葉氏に結び付く史跡として訪ねていました。
松月院の所在地と関連文化財
松月院は板橋区赤塚8丁目4番9号にあります。墓地は供養の場所であり、見学時には寺院の案内と墓参者に配慮してください。寺の周辺では、松月院大堂の歴史や松月院境内遺跡も中世の赤塚を伝えています。地域全体は赤塚・成増周辺の歴史と文化財で紹介しています。
参考資料
- 板橋区「松月院のご案内」
- 板橋区「赤塚地区所在文化財 解説カード」
- 板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』

