大正東京・牛込区を古地図で徹底解説|神楽坂・早稲田・市谷

大正期の東京市牛込区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

牛込区は現在の新宿区東部にあたり、神楽坂、早稲田、市谷、戸山、若松町などを含んでいました。この記事で使う『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』は、特別区協議会デジタルアーカイブの書誌では大正13年(1924)9月20日第三版です。精細図11枚には町名や番地だけでなく、学校、病院、印刷会社、監獄、軍学校、華族邸宅まで書き込まれ、住宅地・文教地・軍用地・印刷産業地が隣接した牛込の姿を具体的に読み取れます。

ただし、第三版の刊行年と地図中の各表記の時点は必ずしも一致しません。「東京監獄」は1922年に市谷刑務所へ改称済みで、「陸軍中央幼年学校」も1920年の制度改編で陸軍士官学校予科などへ再編されていました。さらに早稲田の「大隈伯邸」も、大隈重信が1916年に侯爵へ陞爵し、1922年に死去した後の旧称です。この地図は1924年刊行図でありながら、それ以前の名称や土地利用を一部引き継いでいるため、各文字を前後の沿革と照らして読む必要があります。

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市谷・戸山

市谷加賀町・左内町|秀英舎、第四中学、陸軍士官学校と邸宅地

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・市谷加賀町と左内町―府立第四中学校、秀英舎分舎、陸軍士官学校、和田邸・近藤邸
市谷加賀町・左内町周辺。府立第四中学校、秀英舎分舎、陸軍士官学校、和田邸・近藤邸が記されています。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

市谷加賀町から市谷左内町いちがやさないちょうにかけては、府立第四中学校、秀英舎しゅうえいしゃ分舎、東京学院、陸軍士官学校が近接しています。府立第四中学校は1904年に市谷加賀町へ移転した旧制中学校で、現在の東京都立戸山高等学校につながります。東京学院は1899年に牛込左内町へ移転して改称した学校で、アメリカ・バプテスト系の教育事業を背景に持ち、のちの関東学院へつながる源流の一つです。公立中学、私学、陸軍将校養成機関が狭い範囲に並んでいました。

秀英舎しゅうえいしゃは現在の大日本印刷(DNP)の前身の一つです。1886年に牛込区市谷加賀町へ工場を開設し、1923年の関東大震災で銀座の本店が被災すると本社機能も市谷へ移りました。1935年には、早稲田東部の地図に描かれる日清印刷と合併して大日本印刷が発足します。11枚の地図を横断すると、現在のDNPにつながる二社が合併前には牛込区内の別拠点で操業していたことが分かります。

地図には「和田邸」「近藤邸」も大きく記されています。近藤については、国立国会図書館所蔵の近藤廉平こんどうれんぺい関係文書に「旧市ヶ谷邸」や左内坂の家屋建築に関する資料が残り、地図の近藤邸との関係が強くうかがわれます。近藤廉平は1895年から1921年まで日本郵船社長を務めた実業家です。和田邸を含め、名前付きの大規模私邸が軍学校・学校・工場のすぐ近くに並ぶ点から、市谷が軍事・教育・産業・山の手住宅地の混在する地域だったことが読み取れます。

市谷仲之町・河田町|東京女医学校と華族邸宅

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・市谷仲之町と河田町―至誠病院女医学校、徳川男爵邸、戸田子爵邸、島津男爵邸、陸軍中央幼年学校
市谷仲之町・河田町周辺。至誠病院・女医学校、徳川男爵邸、戸田子爵邸、島津男爵邸、陸軍中央幼年学校が見えます。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

市谷仲之町から河田町には「至誠病院」「女医学校」の文字が見えます。東京女子医科大学の沿革では、吉岡彌生よしおかやよいが1900年に東京女医学校を創設し、1901年に市谷仲之町、1903年に河田町へ移転しました。1912年には東京女子医学専門学校の設置が認可されています。女性が医師として専門教育を受ける道がまだ限られていた時代に、学校と診療施設が河田町にまとまり、現在の東京女子医科大学へ続いています。

河田町の大区画には「徳川男爵邸」があります。土地所有研究では、男爵徳川義恕とくがわよしくみの住所は牛込区市谷河田町とされ、宅地は1万坪を超えていました。義恕は尾張徳川家から分かれた男爵家の当主です。同じ図には「戸田子爵邸」「島津男爵邸」も記され、河田町一帯に複数の華族大邸宅がまとまっていたことが地図から分かります。

もう一つ注意したいのが「陸軍中央幼年学校」です。陸軍中央幼年学校本科は1920年8月に陸軍士官学校予科へ改編されており、1924年第三版の地図に旧名称が残っています。河田町周辺では、華族住宅、女性医学教育、軍事教育が隣接すると同時に、制度改編前の名称まで地図上に重なっていました。

市谷富久町・河田町|東京監獄、本荘子爵邸、成女学校

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・市谷富久町と河田町―東京監獄、本荘子爵邸、安保邸、成女学校
市谷富久町・河田町周辺。東京監獄、本荘子爵邸、安保邸、成女学校などが記されています。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

大きな囲郭で描かれた「東京監獄」は、1903年に鍛冶橋から市谷富久町へ移転した刑務施設です。1911年には大逆事件で幸徳秋水こうとくしゅうすいらの死刑が執行されました。1922年には「市谷刑務所」へ改称されているため、1924年第三版に「東京監獄」と残るのは、旧称がそのまま引き継がれた例です。

監獄の南東には「本荘子爵邸」、近くには「安保邸」が記されています。本荘家は旧宮津藩主家の華族で、安保邸は富久町に住んだ海軍大将・男爵安保清種あぼきよかず家との関係が強くうかがわれます。現在の「安保坂」という坂名も、この地に安保家の邸宅があったことに由来すると伝えられています。刑務施設の巨大区画のすぐ周囲に華族・軍人の大邸宅が置かれていた点も、当時の富久町の特徴です。

「成女学校」は現在の成女学園につながります。1899年に創立し、1906年に現在の富久町へ移転、1908年に成女高等女学校へ改称しました。1923年には生徒立案による「自治共存制」を始めています。東京監獄、華族邸宅、寺院、女子教育機関が同じ地域に接しており、富久町が単一用途の街ではなかったことが地図からよく分かります。

戸山・若松町|陸軍学校群と二條公邸・小笠原伯邸

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・戸山と若松町―陸軍戸山学校、陸軍砲工学校、二條公邸、小笠原伯邸、坊城伯爵邸
戸山・若松町周辺。陸軍戸山学校、陸軍砲工学校、二條公邸、小笠原伯邸、坊城伯爵邸が並びます。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

戸山から若松町にかけては、陸軍戸山学校、陸軍砲工学校、陸軍経理学校、軍楽学校などの軍事教育施設が連続します。陸軍戸山学校は1874年に改称して成立し、射的・体操・戦法などを研究・教育しましたが、1912年に射撃や戦術などの部門が陸軍歩兵学校へ分離された後は、体操・剣術・ラッパや軍楽教育などを担いました。陸軍砲工学校は砲兵・工兵将校に専門学術を教える学校です。

地図には「陸軍経理学校」もあります。経理学校が扱ったのは会計だけではなく、軍隊の財政管理、軍施設の建設・維持、軍服や糧食りょうしょくなどの調達を含む管理運営でした。歩兵・砲工兵・経理・軍楽という異なる専門教育が同じ牛込西部に集中していたことから、ここが単なる兵営地区ではなく、陸軍の教育・研究機能が重なった地域だったことが分かります。

軍施設の近くには「戸山脳病院」も記されています。これは当時の精神科病院で、1928年に東京医学専門学校が買収して附属病院としましたが、1929年に失火で全焼し廃止されました。現在の街並みからは分かりにくい、戦前の精神医療施設の存在を地図が伝えています。

一方、「小笠原伯邸」は旧小倉藩主小笠原家の伯爵小笠原長幹おがさわらながよしの邸地です。現在残るスパニッシュ様式の旧小笠原伯爵邸は1927年竣工なので、この1924年第三版は現存建築が建つ前の邸地を示します。「二條公邸」は公爵二條家、「坊城ぼうじょう伯爵邸」は公家華族の坊城家の大邸宅です。軍学校群のすぐ近くに公爵・伯爵家の大区画が並び、軍事地区と華族住宅地が直接接していました。

原町・市谷柳町|成城学校と大邸宅が並ぶ住宅地

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・原町と市谷柳町―成城学校、立見邸、井上邸、高橋邸と寺院群
原町・市谷柳町周辺。成城学校のほか、立見邸、井上邸、高橋邸、寺院群が細かく記されています。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

原町には「成城学校」が大きく描かれています。成城学園の公式沿革では、澤柳政太郎さわやなぎまさたろうが1917年に牛込区原町の成城学校内へ成城小学校を創設し、1922年に成城第二中学校を開設しました。1925年には学園が北多摩郡砧村きぬたむらの現在地へ移転し、学校名の「成城」は周辺の町名にもなりました。この1924年第三版に描かれた「成城学校」は、現在の世田谷区成城につながる学園が牛込に根を置いていた時代を伝えています。

学校の周囲には「立見邸」「井上邸」「高橋邸」といった名前付きの私邸がまとまった区画で描かれています。細かく分かれた一般住宅とは違う大きな敷地が並ぶことから、原町・市谷柳町が文教地区であると同時に、低密度な山の手住宅地でもあったことが分かります。

矢来町・神楽坂・飯田橋

矢来町|酒井伯邸と旧大名屋敷の宅地化

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・矢来町―広大な酒井伯邸と北山伏町・南山伏町
矢来町周辺。旧小浜藩主酒井家の広大な酒井伯邸と、その周辺に細分された町地が見えます。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

矢来町の大部分を占める「酒井伯邸」は、旧小浜藩主酒井家の邸地です。伯爵酒井忠道さかいただみちは、旧小浜藩下屋敷のあった矢来町の酒井家邸内に学生寄宿舎を設けました。1913年の新築時には、旧藩以来の教育の縁を残す意図から講正学舎こうせいがくしゃと命名されています。巨大な私邸の内部に、旧藩の人材育成を近代の学生支援へつなぐ施設が置かれていたことになります。

酒井忠道は1920年に死去し、その後、広大な酒井家邸地では宅地化が進みました。地図では酒井伯邸の大きな一画の周囲に細分化された町地が広がっています。矢来町、北山伏町、南山伏町、箪笥町、中町などの町名は現在にも引き継がれ、江戸時代の大名屋敷を継承した土地が近代住宅地へ移っていく途中の姿を読み取れます。

神楽坂北側・津久戸|学校、邸宅、江戸川沿いの市街地

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・神楽坂北側と津久戸―津久戸小学校、土井邸、遠田邸、江戸川沿い
神楽坂北側・津久戸周辺。津久戸小学校、土井邸、遠田邸と、江戸川沿いの市街地が描かれています。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

津久戸町つくどちょうから新小川町にかけては、津久戸小学校、住宅、商店、寺社が細かい街区に密集します。神田川は当時「江戸川」と呼ばれた区間があり、飯田橋周辺の低地市街と神楽坂上の台地を結ぶ道路が集まっていました。

その細かな街区の中で「土井邸」「遠田邸」は、周囲の一般住宅よりまとまった名前付きの私邸として描かれています。神楽坂北側が商店や小住宅だけの密集地ではなく、学校・寺社・大きな私邸を含む複合的な市街地だったことが地図から分かります。

新小川町・東五軒町|川田男爵邸、大村邸と飯田橋の低地

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・新小川町と東五軒町―川田男爵邸、大村邸、飯田橋・江戸川
新小川町・東五軒町周辺。川田男爵邸、大村邸、津久戸小学校と江戸川沿いの街区を確認できます。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

江戸川沿いの新小川町には「川田男爵邸」が大きく描かれています。川田家では日本銀行総裁を務めた川田小一郎が男爵となり、家を継いだ川田龍吉かわだりょうきちは造船・農業の分野で活動しました。新小川町に川田龍吉邸があったことを示す資料もあり、地図の「川田男爵邸」は川田龍吉家の邸宅である可能性が高いです。川田龍吉は北海道でジャガイモを栽培し、その爵位から「男爵薯」の名が広まった人物としても知られます。

隣接する東五軒町側には「大村邸」もまとまった区画で描かれています。川沿いの細かな市街地の中に男爵家や名前付きの大邸宅が入り込んでいたことが分かり、現在の飯田橋周辺とは異なる土地利用を読み取れます。

早稲田・牛込北西部

早稲田東部|日清印刷会社と印刷産業の集積

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・早稲田東部―日清印刷会社、杉本邸、特殊小学校、済松寺
早稲田東部・山吹町周辺。日清印刷会社、杉本邸、特殊小学校、済松寺などが記されています。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

早稲田東部には「日清印刷会社」が記されています。日清印刷は1907年に早稲田大学出版部の印刷所を母体として発足し、牛込区榎町に本社工場を置きました。1935年に市谷加賀町の秀英舎と合併して大日本印刷となります。1枚目の秀英舎とこの日清印刷を合わせて見ると、現在のDNPにつながる二社が、合併前には牛込区内の別拠点で操業していたことが分かります。

地図には「杉本邸」「特殊小学校」、済松寺さいしょうじなどもあります。当時の東京市でいう「特殊小学校」は、現在の特別支援学校と同じ意味ではありません。明治後期から、主として貧困や労働などの事情で通常の就学が難しい児童に教育機会を確保するため設けられた救済的な小学校を指しました。地図上の一語から、大正期の東京が抱えた貧困・不就学と教育政策の一端を読み取れます。隣には大きな「杉本邸」もあり、印刷工場、寺院、学校、大規模私邸が近接する複合的な市街地でした。

早稲田大学周辺|大隈邸から大学施設へ移る瞬間

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・早稲田大学周辺―大隈伯邸、早稲田実業学校、山川邸
早稲田大学周辺。大隈伯邸、早稲田実業学校、山川邸など、大学街と住宅地の境界が読み取れます。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

早稲田大学の隣に「大隈伯邸」が大きく描かれています。大隈重信おおくましげのぶは1916年に伯爵から侯爵へ陞爵し、1922年1月に死去しました。早稲田大学の年史では、同年11月に養嗣子の大隈信常おおくまのぶつねから邸宅・庭園の引き渡しが完了し、1923年3月には旧大隈邸が「大隈会館」と命名されています。それでも1924年第三版の地図には、爵位も施設名もさらに古い「大隈伯邸」が残っています。

この表記は、1924年の刊行日をそのまま地図中の全情報の年代とみなせないことを示す分かりやすい例です。1923年9月の関東大震災では早稲田大学も被害を受け、大隈会館附属土蔵の全壊や豊明館の焼失が記録されていますが、この地図の「大隈伯邸」は震災後の現況を反映した名称ではありません。刊行図の中に、それ以前の大学周辺の土地利用や呼称が残ったものとして読む必要があります。

近くには「早稲田実業学校」と「山川邸」も記されています。早稲田実業学校は1901年創立の実業教育校で、長く早稲田の地に校舎を置きました。一方の山川邸は、大学街のすぐそばにあるまとまった名前付き私邸として描かれています。大学施設だけで街が埋め尽くされていたのではなく、学校と大規模私邸が直接接していた早稲田の土地利用が分かります。

牛込区北西部|近衛騎兵営、射的場、軍楽学校

大正13年(1924)第三版の牛込区古地図・近衛騎兵営と射的場―戸山・早稲田北西部の軍用地
牛込区北西部の大規模軍用地。近衛騎兵営、射的場、軍楽学校周辺が描かれています。『番地界入東京市拾五区全図 牛込区図 9』(大正13年9月20日第三版)より。

牛込区北西部には「近衛騎兵営このえきへいえい」「射的場しゃてきじょう」「軍楽学校」といった広大な軍用地が描かれています。戸山・市谷の陸軍学校群まで合わせると、将校養成、歩兵・砲工兵の専門教育、経理、軍楽、騎兵、射撃訓練まで、性格の異なる軍事機能が牛込西部に集中していたことが分かります。一般住宅の細かな番地区画と軍用地の巨大区画が隣り合うため、土地利用の差も地図上で際立ちます。

戦後、これらの旧軍用地の多くは学校、公園、公共施設、住宅地へ転用されました。現在の戸山公園や周辺の教育施設が比較的大きな敷地を持つ背景には、戦前のまとまった軍用地が存在した歴史があります。古地図と現在の街区を比べると、施設そのものが失われても土地の大きさや道路配置に過去の用途が残ることが分かります。

軍・教育・印刷・住宅地が隣り合う牛込区

11枚の精細図をつなぐと、牛込区は地域ごとに性格が大きく異なります。市谷には軍施設と華族邸宅、河田町には女子医学教育、原町には成城学校、矢来町には旧大名家の大邸宅、神楽坂・飯田橋には密集市街、早稲田には大学と印刷会社、戸山には軍事教育施設と精神科病院がありました。しかも、それぞれが離れて存在したのではなく、学校・工場・病院・軍用地・大邸宅・一般住宅が隣接しています。

この地図を読むうえで重要なのは、1924年9月20日第三版という刊行日だけで各表記の年代を決めないことです。「東京監獄」「陸軍中央幼年学校」「大隈伯邸」のように、すでに制度や名称が変わったものも残っています。一方で、成城学校の砧移転直前、酒井家邸地の宅地化、秀英舎と日清印刷の合併前など、大正末期の変化を具体的に追える場所もあります。現在の新宿区東部には、早稲田の大学、神楽坂の市街地、市谷・戸山の大規模施設という地域ごとの性格が形を変えながら受け継がれています。

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参考資料